カミュの「ペスト」とは単に病気のことを意味するのではあるまい。それは戦争を志向する人間の欲望が、何度でも執拗によみがえることを暗示している。この怖ろしい欲望は、現在の日本にも広く深く蔓延しているのではないだろうか。
いま、がんの再発という迫りくる肉体の危機にあって、私は断固として生きることを選択した。自分自身の生と死を凝視した私は、同じ視線を日本という国のありようにも向けずにはいられない。そして、破滅への欲望に取り憑かれたかのようにみえるこの国が、死の誘惑を断ちきり、決してあきらめずに平和で幸福な生のほうへ歩んでいくことを祈っている。
生きるということ
by なかにし礼
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生きる力 心でがんに克つ
by なかにし 礼
著者と語る
『生きる力 心でがんに克つ』
なかにし礼
https://youtu.be/wp6dz-9g5gg
44:40
陽子線治療について
国立がん研究センター 東病院
https://www.ncc.go.jp/jp/ncce/clinic/radiation_oncology/consultation/pbt/index.html
String Quartets 1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15 ..+ P°
(Ct. rec. Borodin Quartet)
Shostakovich
https://youtu.be/m-L2vG8nM1M
2024年9月20日(金)
大人の恋愛
今週の書物/
『口説く』
なかにし礼著
河出文庫、1999年刊
「作詞家と詩人の違いは?」と聞かれて答えることはできるだろうか? 「作詞家は作詞をする人、詩人は詩を書く人」とか「作詞家は作曲家やの歌手のために歌詞を書き、詩人は自分のために詩を書く」と言っても答えにはならない。
作詞家は歌われるために歌詞を書き、詩人は読まれるために詩を書く。どちらも韻を踏んだり、スタンザが使われたり、特定の言語が選ばれたり、象徴性が用いられたりと 共通点は多いが、表現方法はまったく異なる。
作詞家も詩人も、歌手、小説家、翻訳家、脚本家、放送作家などの顔を持つことが多い。谷川俊太郎とか覚和歌子といった人たちのように、作詞家と詩人の両方の顔を持っている人もいる。
作詞家は、音楽ビジネスに組み込まれているために、どうしても多作になる。阿久悠、秋元康、岩谷時子、なかにし礼、安井かずみ、松本隆、石本美由紀、星野哲郎といった日本の作詞家たちも、何千曲もの歌詞を書いた。私には、そんな作詞家たちが、詩人に思える。
井上靖、三木卓、川上未映子、エドガー・アラン・ポー、ミシェル・ウエルベック といった人たちは、小説家であり詩人であった。寺山修司のように、詩人、劇作家、映画監督、小説家など多彩な顔を持つ人もいる。
アーティストは みんな 詩人。そうは言えないか? もっと言えば、人は みんな 詩人。そう言ってはいけないか? まあそうは言っても、私は作詞家という詩人が、特別に好きだ。
で今週は、作詞家が書いた一冊を読む。『口説く』(なかにし礼著、河出文庫、1999年刊)だ。なかにし礼がシャンソンの訳詞で身に着けた「フランス的な価値観」で貫かれ、洒脱な本になっている。
なかにし礼の人生は、『兄弟』などの自伝的小説や『わが人生に悔いなし』などの自伝的エッセイにより、そしてマスコミへの露出により、よく知られている。「満洲からの引き揚げ」から「癌の発覚とその克服」まで、情報量は異常に多い。では、どんな人だったとかといえば、情報量が多いせいもあって、その輪郭は、ぼやけてしまう。
シャンソン喫茶でのアルバイトから始まった「仕事」も、シャンソンの訳詞、作詞、作曲、歌、映画出演、コンサートや舞台の演出、ラジオのパーソナリティ、テレビ出演、翻訳、小説、エッセイと広がりを見せ、膨大な量の作品が残っているのだが、どんな人だったのかはわからない。つかみどころがないのだ。
『口説く』は、1996年4月から1997年3月まで「週刊読売」に連載された映画エッセイ。50の映画から50の話が書かれ、まとめられて、1997年7月に『時には映画のように』というタイトルで単行本になり、1999年3月に文庫になった。どの話も、男から見た男と女の話だ。
書かれた内容が、なかにし礼の恋愛観を反映しているかというと、必ずしもそうではないように思える。そこはサービス精神旺盛なプロの作詞家。読者が欲しがっている文章を提供しているように思えてならない。
映画のなかの名セリフが紹介される。それだけでも嬉しいのに、その上になかにし礼の文章がかぶさる。時にはニーチェとかアーウィン・ショウといった、なかにし礼のお気に入りの作家の文章もあらわれる。こんな贅沢はない。
〈男という生き物はどうしてこう女が好きなのだろう〉
〈奇跡の恋のあろうはずはない〉
〈妻であれ愛人であれ恋人であれ、男がその女しか目に入らないというのぼせた状態は残念ながらほんのわずかの間しか続かない〉
〈結婚してから七年間、たった一回の浮気もしていない男がいたとしたら、実になんとも見上げたもんだと思う〉
こういう文章の背景に流れているのは、恋愛についての美学だ。完璧な恋愛への憧れと、完璧でない恋愛へのいつくしみ。恋愛が続いてほしいという願いと、続くわけなどないという諦め。うまくいったと思ったときに実は何もうまくいっていないという寂しさや悲しみ。そんなものは、どこまでも美しい。
シャンソン喫茶「銀巴里」を覆っていたモラルが戦後の文化に及ぼした影響は大きいが、なかにし礼が作詞をした歌のなかにも「銀巴里」が色濃く映り込んでいる。どれもモダンで、演歌からとても遠い。
諦めとか、悲しみとか、寂しさとかに彩られた人間の恋愛は、美しい。それは、『口説く』のなかで取り上げられた映画の美しさに通じる。人間らしいという言葉があるけれど、どこか欠けている恋愛は、どれも人間らしい。
なかにし礼は、恋愛を中心にしてものを考えることで、いつも正しくはいられない人間というものを見事に描いている。どのエッセイも短いが、行間から見えてくるものは多い。
〈要は女に敗北の恥を与えないこと。敗北の恥を勝利の歓喜にかえてやる優しさ。それが大事なのだ〉
〈男と女が、出会って恋をして結ばれて、何かいいことがあるのだろうか。傷つけ合い憎しみ合い、最後は無残に別れる。別れなかったからといって幸福とは限らない〉
〈不倫を英語でアダルタリーという。アダルトといえば大人のことであり、大人であれば不義密通もやむなしといった感じが出ていて、この英語はなかなか含蓄に富んでいる〉
〈あまり思い上がって、女の愛を粗末にしていると、取り返しのつかないことになる〉
〈人生で、自分を心底愛してくれる女に、そうたびたび出逢えるものではない〉
というような文章に、私は深く感じ入った。なかにし礼は、身勝手で自己本位な男のために、50もの珠玉のエッセイを書いてくれたのだ。それに応えるために、私はせっせと映画を見ようと思う。『天井桟敷の人々』のような映画を。たくさん。
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音乐盒里的弹簧断了!
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或选择分离爱情也能无限永恒
-天堂的孩子-
-天堂的儿女-
拥有与幸福
枕边人心上人
谁幸福谁拥有
拥有是幸福的
拥有也不一定幸福
幸福必须拥有
幸福不一定要拥有
拥有
健康活着平静过着
开心笑着适当忙着
愿爱心善良伴随
不急不躁有温柔
不患得也不患失
浅浅微笑稳稳走
看淡得失珍惜拥有
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