ジャック・アタリ

飢餓の状態になく、経済的に余裕があるのなら、世界中のほとんどの人々は、健康的な食事を他者とゆっくり分かち合いたいと思っているはずだ。誰もが料理が好きであり、食事に招待したい、そして招待してもらいたいと願っているだろう。食事を共にすることで会話は弾み、しばしば重苦しい日常に安らぎのひと時が訪れる。
しかしながら、ゆっくりと食事をとる機会は世界中で減る傾向にある。
なぜ、われわれはこのように単純で、重要で、生きるために必須の楽しみを自身から奪うのか。なぜ、皆で会食する機会は減る傾向にあるのか。なぜ、仕事上の付き合いの会食だけが豪華になるのか。なぜ、(金持ちを除き)人々は糖分と脂肪分の多い加工食品だけを慌ただしく食べるようになったのか。大きなレストラン、食堂、さらには家庭の台所さえも姿を消したが、これは人間関係の崩壊を意味するのか。いつも独りで外食し、汚染された野菜や肉、そして加工食品だけから栄養を摂取する日が訪れるのか。

2 thoughts on “ジャック・アタリ

  1. shinichi Post author

    食の歴史

    by ジャック・アタリ

    はじめに

    私は、親しい人たちとあれこれと語り合いながら食事をすることが好きだ。世の中の情勢を論じ、料理法、食材、その生活者などについて論じ、新たなレストランを開拓し、料理を通じて外国や過去への旅行気分を味わい、食に関する尽きない話題を語るのは、私の大きな楽しみだ。

    私は親しい友人たちとのこうした会食が大好きである。くつろいだ雰囲気で、心ゆくまで世間話をし、談笑し、議論し、お互いを理解し合うディナーは至福の時である。

    私は料理をつくる人たちに敬服している。自宅で家族のために食事の支度をする人たちや、有名なレストランで裕福なお客のために腕を振るう人たち。彼らは職人であり、芸術家である。謙虚な天才であり、完全なナルシストであり、仕事の鬼である。彼らは食の楽しみを供することを恐れている。相手は見知らぬ他人であるかもしれないし、自分たちが何日もかけて考え、食材を集め、準備した料理を、一時間もしないうちにさっさと平らげてしまうことも多い。動物や野菜を育て、調味料の調達経路を開拓し、そして新たな料理法をつくり上げるまでの時間を含めれば、一つの料理が完成するまでには数千日もかかる。

    そうとわかってはいるが私自身、日常の食事に割く時間は、毎食数十分でしかない。このような私の食事情は特別というわけではないだろう。

    飢餓の状態になく、経済的に余裕があるのなら、世界中のほとんどの人々は、健康的な食事を他者とゆっくり分かち合いたいと思っているはずだ。誰もが料理が好きであり、食事に招待したい、そして招待してもらいたいと願っているだろう。食事を共にすることで会話は弾み、しばしば重苦しい日常に安らぎのひと時が訪れる。

    しかしながら、ゆっくりと食事をとる機会は世界中で減る傾向にある。

    なぜ、われわれはこのように単純で、重要で、生きるために必須の楽しみを自身から奪うのか。なぜ、皆で会食する機会は減る傾向にあるのか。なぜ、仕事上の付き合いの会食だけが豪華になるのか。なぜ、(金持ちを除き)人々は糖分と脂肪分の多い加工食品だけを慌ただしく食べるようになったのか。大きなレストラン、食堂、さらには家庭の台所さえも姿を消したが、これは人間関係の崩壊を意味するのか。いつも独りで外食し、汚染された野菜や肉、そして加工食品だけから栄養を摂取する日が訪れるのか。

    われわれは何を食べてきたのか。そして何を食べるようになるのか。これらの疑問の答えからは、自分たちは何者であり、人類にはどんな脅威が待ち受けているのか、そして克服可能なことは何なのかが浮かび上がってくる。

    なぜなら、われわれ人間は、食べる、飲む、聞く、見る、読む、触れる、感じる、思い起こすことによって形成される産物にすぎないからだ。また、自分たちがどのように食われるのかを想起することも、自己の形成に影響をおよぼす。

    触感、視覚、聴覚によって自己が形成されていく様子を描く作品はたくさんあるが、人にとっての味覚と嗅覚の重要性は徐々に忘れられてきた。また、人間が食べる必要性、食べる時間を一緒にすごすことの必然性を抜きにしては、「セックス、宗教、社会、政治、テクノロジー、地政学、イデオロギー、快楽、文化といった物事をいっさい説明できないという事実もわれわれは忘れている。食に関するあらゆることがどのように儀式化、組織化、階層化されてきたかに目を向けなければ、これらのことは説明できない。

    人間は母親の胎内にいるときからすでに食べ始めている。そして人間は自分自身の口を使ってあらゆることを行なう。食べ、飲み、話し、叫び、懇願し、笑い、接吻し、罵り、愛し、嘔吐するのだ。また、話すことと食べることは不可分であり、権力と性行為、生と死という、人間の本質に還元される。こうしたことも、われわれの間では忘れられてきた。

    太古の時代から、食には生命を維持する以上の役割がある。食は、快楽の源泉、言葉の基盤、エロティシズムの不可欠な側面、主要な経済活動、交換の枠組み、社会組織の重要な要素でもある。他者、自然、動物との関係を定めるのは食である。食は男女の関係にも大きな影響をおよぼす。

    食が欠乏すれば死ぬし、食べすぎても死ぬ。食が支える会話が途絶えると、われわれは生存できない。食は文化の創造と発展に不可欠なのだ。つまり、農業、料理法、食生活は、社会が持続するための基盤だったのだ。

    この密接な、宇宙的規模とさえ言える人間と食との関係は、実は猿人からホモ・サピエンスが漸進的に出現したときから始まった。この関係は、言語の使用から火の利用まで、人類のおもな急激な変化の源泉になった。次に、梃、弓、車輪、農業、牧畜など、さまざまなイノベーションが登場した。これらのイノベーションは食べる欲求を満たすためのものだった。人間と食とのこうした関係からは、都市、帝国、国家の権力掌握の過程も広く説明できる。歴史と地政学は、何と言っても食の歴史なのだ。

    人類は、長年にわたって自然に依存し、自然を表象する神々にひれ伏してきた。生き延びるために必要なものを、自分たちで生産することなく手に入れるためだ。その結果、人類は集団で暮らすようになり、大地の神々の代理人である、祭司、君子、占星術師、気象学者に身を託すようになった。その後、大地を耕し、家畜を育てることによって自分たちで食糧を生産するようになると、民衆は領主に身を委ねた。領主の次は、商人、産業家が民衆を支配した。人類が人工物から栄養を摂取するようになれば、次の支配者になるのはロボットだろうか。

    宗教は、長年にわたって食に関する戒律を課し、これを姦淫の禁止と結び付け、食事をともにできる人物さえ選別したい人類は、数千年にわたって動物を殺すための武器を開発してきた。これらの武器は人間を殺すためにも利用され、人類は殺した人間を食べることもあった。食と戦争は、同じ手段で、同じ目的から行なわれたのである。

    人類は長年にわたり、時間と場所に関係なく、食べられるときに食べてきたが、次第に決まった時間に食べるようになった。これは定住化の影響だろう。

    長年にわたって、男性は自分たちが狩猟および採集したものを女性に渡し、女性はそれらを使って調理してきた。旨いものを調達できない男性には、食事やサービスに文句をつける資格がなかった。食、純潔性、性欲には、時に明確な結び付きがあったのだ。こうして性欲を催す食の探求は、すぐに普遍的な強迫観念になった。

    人々のアイデンティティを長年にわたって形成してきたのは、領土、風土、植生、動物、そして料理法や食事法だった。

    とくに、会話の決まりや社会的な人間関係の構造を長年にわたって定めてきたのは食である。神々と会食できる人、王族と夕食をとれる人、家族で昼食をとる人、物乞いをする人、何も食べない人、自分たちの食物を自ら生産する人、他者から食物を得る人がいたのだ。

    帝国、王国、国家、企業、家族において、重要な決定が下されるのは食事中だ。神々との饗宴や仕事上の会食など、すべては食べるために、そして食べながら物事は決まる。これは今後も同様だろう。

    長年にわたって、食べすぎて死んだ人もいたが、多くの人々は充分に食べることができないために死んだ。充分に食べることができなかった人々が勢力を得ると、彼らは、華奢な食事をとっているに違いないと思う人物に反逆した。

    われわれは食を通じて日常のあらゆる課題と向き合うことになる。すなわち、健康管理、他者と会話する能力、弱者に対する配慮、男女関係、国際感覚などだけでなく、仕事、気候、動物界との関係である。とりわけ食により、現在も健康的な食事をとることのできる人々とそうでない人々との不平等が明らかになる。

    つまり、食は歴史の中核に位置する重要な人間活動なのである。未来を理解し、未来に働きかけるには、食に関するあらゆる難問に答えを見出さなければならないのだ。

    食べることは、これからも会話、創造、反逆、社会的な制御の場であり続けるのか。それとも、われわれはいたるところで静かに加工食品を個食する、自己の殻に閉じこもった他者に無関心なナルシストになるのか。

    われわれは中世の君主たち、中国やオスマントルコ帝国の皇帝たちが何を食べていたのかを忘れてしまったように、現在の農業と料理が表象するものの記憶までも失うのか。家族の暮らし、そして政治や社会の現場をまとめるために地方で行なわれてきた長時間の宴会は、われわれの記憶から永久に消え去るのだろうか。

    われわれは美味しくて便利だというふれこみの出来合いの総菜を食することによって、これからも自身の健康を害し続けるのだろうか。今日では一部の人しか手に入れられない食品であっても、今後は広く流通するようになるのか。それとも、環境問題への意識の高まりから、そうした食品を使った料理は誰も食べられなくなるのか。食用の植物種の数はさらに減るのか。われわれは自分たちの食物によって命を落とすのか。

    われわれは、これからも食に関する宗教上の禁止事項、社会的な慣習、性別に関する規範を甘受し続けるのか。あるいは、食べてもよいものや食べるべきものを、人工知能(AI)が一方的に告げる時代が訪れるのか。人類と人類以外の生物との境界を熟考するようになるのか。地球および生命を破壊することなく、われわれは一〇〇億人の人類を養えるのか、世界中で農民の人口が減少し続けているが、農民の将来はどうなるのか。われわれは今後もこれまで通りの食生活を維持でき、維持したいと願うのだろうか。例外はあるにせよ、すでに人類の三分の一がそうであるように、昆虫を食べるようになるのか。また、合成肉などの人工物を食するようになるのか。近い将来、これまでの文明史を急変させたような食糧の奪い合いや飢饉による暴動が勃発する恐れはあるのか。最後に、フランスは、食物の質の高さと食事時間の確保を両立する稀有なモデルを維持し、規範、見本、先駆的存在となることができるのか。

    これらの疑問は経済的および政治的な利害が絡むため、これまであまり語られてこなかった。経済にとって望ましいのは、消費者がこれまで以上に工業生産される食品をあっという間に平らげ、これらの食品ができる限り安価になって消費者の購買力が増し、彼らが消費社会によって提供される、食品以外の製品をさらに購入できるようになることだ。そして政治は、われわれの食に関する要望を抑え込むために、世間の関心を別の課題や心配事に導く。

    しかしながら、われわれが人類のサバイバル、そして人間らしい満ち足りた自然な暮らしを望むのなら、これまでの世代の食生活、彼らが食に費やした時間、彼らが食と関連づけた社会的なつながり、彼らが食に費やした金、食の上に築かれ、そして食によって滅びた権力を探究してみるべきだろう。

    食が全員にとって、快楽、分かち合い、想像、喜び、自己超越の源泉にならなければならない。また、食を地球と生命を救う手段にする必要もある。

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  2. shinichi Post author

    Histoires de l’alimentation : De quoi manger est-il le nom ?

    Jacques Attali

    Et l’on a des raisons de croire qu’à certaines périodes de l’histoire – pas nécessairement les plus anciennes – beaucoup ont été très mal nourris, autant par insuffisance de calories que par la quasi-absence des lipides et des protides dans leur régime quotidien.

     

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