私はあこがれのギリシャに在って、終日ただ酔うがごとき心地がしていた。古代ギリシャには、「精神」などはなく、肉体と知性の均衡だけがあって、「精神」こそキリスト教のいまわしい発明だ、というのが私の考えであった。もちろんこの均衡はすぐ破れかかるが、破れまいとする緊張に美しさがあり、人間意志の傲慢がいつも罰せられることになるギリシャの悲劇は、かかる均衡への教訓だったと思われた。ギリシャの都市国家群はそのまま一種の宗教国家であったが、神々は人間的均衡の破れるのをたえず見張っており、従って、信仰はそこでは、キリスト教のような「人間的問題」ではなかった。人間の問題は、此岸にしかなかったのだ。
こういう考えは、必ずしも、古代ギリシャ思想の正確な解釈とは言えまいが、当時の私の見たギリシャとは正にこのようなものであり、私の必要としたギリシャはそういうものだった。
希臘は私の眷恋の地である。
飛行機がイオニヤ海からコリント運河の上空に達した時、日没は希臘の山々に映え、西空に黄金にかがやく希臘の冑のような夕雲を見た。
私は希臓の名を呼んだ。 。。。
飛行場から都心へむかふバスの窓に、私は夜間照明に照らし出されたアクロポリスを見た。
今、私は希臘にゐる。私は無上の幸に酔ってゐる。 。。。
私は自分の筆が躍るに任せよう。私は今日つひにアクロポリスを見た! パルテノンを見た! ゼウスの宮居を見た! 巴里で経済的窮境に置かれ、希臘行を断念しかかって居たころのこと、それらは私の夢にしばしば現はれた。かういふ事情に免じて、しばらくの間、私の筆が躍るのを恕してもらいたい。
私の遍歴時代
by 三島由紀夫
アポロの杯
by 三島由紀夫
私の遍歴時代
ハワイへ近づくにつれ、日光は日ましに強烈になり、私はデッキで日光浴をはじめた。以後十二年間の私の日光浴の習慣はこのときにはじまる。私は暗い洞穴から出て、はじめて太陽を発見した思いだった。生まれてはじめて、私は太陽と握手した。いかに永いあいだ、私は太陽に対する親近感を、自分の裡に殺してきたことだろう。
そして日がな一日、日光を浴びながら、私は自分の改造ということを考えはじめた。
私に余分なものは何であり、欠けているものは何であるか、ということを。