私たちの生きる環境は次のように変化している。
1)監視の輪は狭まり、追跡から逃れられない
2)しかも私たちは自分から痕跡を差し出している
3)世の中から、謎やスリルなどの感興が丸ごと減っていく
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COVID-19でリモート入試が問題になった。つまり不正監視が難しい。リモートになりデジタルになって、かえって隠れられる、という逆の側面を示している。ネット上の犯罪も、トラックダウンするのが難しく、イタチごっこの様相を呈している。またちょっと次元がちがうが、デジタル技術で時間オーダーが変わり、別の種類のスリリングな局面を作り出している。たとえば証券市場の「時間高速機」は、ナノセカンドで株価の変化に対応し、億の単位の利潤を奪い合っている。ただこうしたナノセカンドの競争(ついでに言えばギガレベルの瞬時の検索も)は、私たちの預かり知らない所で行われ、生活感覚としてはむしろ、管理され平穏で無知なままだ。
「何が可視化され、何がブラックボックスに隠れるか」その構造自体が、変動を起こしている。全貌はまだ見えない。情報自体が実体化して振り回される反面、中身や原因はブラックボックス化する(たとえば銀行のシステム障害など)。このパラドクシカルな両面があって、共に新しい。そういう監視・追跡社会に、私たちの脳と体はついていけるのか?
人類は、個人の幸福のために進化してきたわけではない。
(ユアル・ノヴァル・ハラリ 『サピエンス全史』)
テレビドラマのストーリー展開が、苦しい言い訳だらけになっている
謎が作りにくい監視社会の未来がそこにあるから
下條信輔
https://webronza.asahi.com/science/articles/2021083100006.html?iref=wrp_rnavi_new
推理小説や刑事ドラマ、サスペンス映画の類を、筆者はこどもの頃から長らく楽しんでいる。ただ最近になって、昔とちがうある「息苦しさ」を感じるようになった。その息苦しさの原因を掘り下げていくと、情報テクノロジーが私たちの生活をどう変えたか、また近未来はどうなるかという問いに行き着く。
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作家は謎やスリルを作るのに苦労しているのでは?
息苦しさ、と書いたのは、インターネットや情報端末の普及によって、端的に謎やサスペンスが作りにくくなった、という意味だ。犯人の逃亡と追跡、刑事との攻防。連絡不通、突然の行方不明、予定外の変更や時間の遅れによる意図のすれ違い、待ち合わせに失敗、などなど。昔は刑事物やサスペンスに限らず、ラブコメでも「恋のすれ違い」を演出する手段には困らなかった。また巨大なビジネスチャンスをタッチの差で逃したり、スパイの超人的な身体能力でピンチを救ったりなど、謎とスリルを作る手段はいくらでもあった。
しかし昨今、作家は苦労しているのではないか。通信・監視などの技術が普及しすぎて、謎やすれ違いが作りにくい。ストーリーの展開がいかにも苦しい。それでも無理にすれちがい、トラブルを作り、偶然を作る。いわく、なかなか連絡が取れない、ほかに事情があって隠れていた、等々。だが観ている側からすると「そんなのスマホで連絡とれば一発じゃん」と言いたくなる。そこでさらに、スマホが壊れていた、電源が切れていた、取り上げられていた、山の中で電波が届かなかった、外国に留学していてしばらく連絡取れなかった、等々。
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意味のない所で無理に体を張る場面を作った『24 Japan』
だがどれも、いかにも苦しい言い訳に聞こえる。筆者が最近観た範囲だと、米国からの輸入ドラマ 『24 Japan』(唐沢寿明主演、フジTV系列、2020年10月〜21年3月)などは特に苦しかった。出演者はそれぞれ熱演なのだが、体を張る意味のない所で、無理に体を張る場面を作っている。世の中、技術が進めばケータイが通じないエリアは狭まるし、インターネットが世界中に普及して、どこにいようとワンタッチで連絡が取れる。あるいはGPSで追跡できる。人類学者の友人から聞いた話だが、ケニアのサバンナではマサイ族の牛飼いの若者が、半裸でスマホをいじっているそうだ。1、2時間の連絡不能ならわかるが、双方が望んでいるのに何週間も連絡が取れないのはおかしい。遺産相続人が外国にいて、生きているらしいが何年も所在がわからないというドラマもあったが、リアリティがない。
本人が身を隠したくても、通話記録・監視カメラ・GPS・ATM・ネットなどの痕跡から逃れることは、もはや不可能だ。キャッシュで買い物をすることさえ、やがて困難になる(もう中国ではそうなっているという)。実際、現実の凶悪事件の犯人も、高跳びして逃げ切ろうとし、ほぼ確実に捕捉され、捕まっている。その現実は刑事ドラマにも反映され、事件解決のいとぐちもたいてい、監視カメラや車のドライブレコーダー他、デジタルの行動記録だ。「監視カメラに映っていたのなら、なぜもっと早く捕まえないの」と、天邪鬼を自認する筆者は突っ込む。要は2時間ドラマの長尺に耐えうる謎や追跡を連発するのが、苦しいのだ。
この点で逆に興味深かったのが、18年4月に起きた脱走事件だ。愛媛県今治市にある刑務所の作業場を脱走した犯人が、島を経て本州側に自力で泳ぎ渡り、住民が留守がちな民家の屋根裏に潜んで、じっとしていた。それが功を奏したのか、大捜索網にもかからず3週間以上杳(よう)として行方が知れなかった。つまりこれだけデジタル監視の網が張り巡らされると、むしろ「高飛び」はあり得ない。
もっとゆるいハプニング番組でも、似たことが起きている。たとえばローカル路線バスの旅。低予算の定番で、1日数本というバスの時刻表をなんとかつないで、目的地到達を目指す。あるいは田舎に行って、選んだ範囲を徒歩で探して飲食店をみつける、等々。当然、「そんなのあらかじめインターネットで調べれば」と言いたくなる。そこで「インターネットや電話でのチェックは禁止」とか「スマホは携行せず」といったルールになっているが、いかにも現実離れしてつらい。「禁止しなければ、もう番組が成り立たない」こと自体が象徴的だ。
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ハラスメントや不適切発言でも。とはいえ例外もある
「行動が記録され、監視されている」ということは、実社会のスキャンダルや社会面の事件にもあらわれている。政治家や有名人のハラスメントや舌禍、企業の談合や不正告発、等々。音声や映像などデジタルの証拠が残りやすくなったことが、背景にある。「記憶にない」と逃げ切ろうとしても、「この録音を聞け」「この録画を見ろ」というわけだ。誰もが普段持っているスマホで、これが簡単にできる。
以上を要約すれば、私たちの生きる環境は次のように変化している。
1)監視の輪は狭まり、追跡から逃れられない(もちろんこれは犯罪抑止のメリットとバーターだが)。
2)しかも私たちは自分から痕跡を差し出している(カードで買い物してポイントを貯めたり、乗り物に乗ったり、ネットショッピングしたりなど)。
3)世の中から、謎やスリルなどの感興が丸ごと減っていく(?)。
ただし例外もある。ドラマでいうと、波瑠主演のラブコメ 『#リモラブ〜普通の恋は邪道〜』(20年10〜12月、日本テレビ系)が秀逸だった。「チャット上の恋。相手の正体がわからない」という話だ。産業医の主人公は恋愛に臆しがちだったが、オンラインゲームにハンドルネームで参加したことから、「檸檬」というユーザーと恋に落ちる。ただ互いに相手がわからず、ややこしいことになって……。いくつかの偶然から実は相手が同じ社内にいるのでは、と順ぐりに謎が深まり、ラブコメとして期待通りの展開だった。これなどは、SNSなど通信技術で謎が増えた例、と見ることもできる。
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監視・追跡社会に脳と体はついていけるのか
再び実社会に戻るが、COVID-19でリモート入試が問題になった。つまり不正監視が難しい。リモートになりデジタルになって、かえって隠れられる、という逆の側面を示している。ネット上の犯罪も、トラックダウンするのが難しく、イタチごっこの様相を呈している。またちょっと次元がちがうが、デジタル技術で時間オーダーが変わり、別の種類のスリリングな局面を作り出している。たとえば証券市場の「時間高速機」は、ナノセカンドで株価の変化に対応し、億の単位の利潤を奪い合っている。ただこうしたナノセカンドの競争(ついでに言えばギガレベルの瞬時の検索も)は、私たちの預かり知らない所で行われ、生活感覚としてはむしろ、管理され平穏で無知なままだ。
これらの例から、上記の結論(3)を疑うことができる。必ずしも謎やスリルが薄れたのではない。
「何が可視化され、何がブラックボックスに隠れるか」その構造自体が、変動を起こしている。全貌はまだ見えない。情報自体が実体化して振り回される反面、中身や原因はブラックボックス化する(たとえば銀行のシステム障害など)。このパラドクシカルな両面があって、共に新しい。そういう監視・追跡社会に、私たちの脳と体はついていけるのか? 新たな「感動の種」は創出されるのか?
私たちの背後に不気味な裂け目が音もなく開いているようでもあり、そこからうっすらと未知の光が差しているようでもある。
人類は、個人の幸福のために進化してきたわけではない。(ユアル・ノヴァル・ハラリ 『サピエンス全史』)