shinichi Post author24/05/2023 at 11:20 am 古事記「倭建命」 古事記「倭建命」の原文 そこより入り出でまして、走水の海を渡りし時に、その渡りの神、波を起こし、船を巡らせば、進み渡ること得ず。 しかして、その后、名は弟橘比売命、申しく、 「我、御子に代はりて、海の中に入らむ。御子は遺はさえし政を遂げ、返り言申すべし。」 と申しき。 海に入らむとするときに、菅畳八重、皮畳八重、絁畳八重をもつて波の上に敷きて、その上に下りましき。 ここに、その荒波おのづからなぎて、御船進むこと得たり。 しかして、その后の歌ひて言はく、 さねさし相模の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも 故、七日の後に、その后の御櫛、海辺に寄りき。 すなはち、その櫛を取り、御陵を作りて納めおきき。 そこより入り出でまし、ことごとく荒ぶる蝦夷どもを言向け、また、山川の荒ぶる神たちを平らげ和して、帰り上り出でましし時に、足柄の坂本に至りて、御粮を食む所に、その坂の神、白き鹿となりて来立ちき。 しかして、すなはち、その食ひ残せる蒜の片端をもちて、待ち打ちしかば、その目に当てて、すなはち打ち殺しき。 故、その坂に登り立ちて、三度嘆きて、詔り給ひて言ひしく、 「あづまはや。」 と言ひき。 故、その国を名づけて、あづまといふ。 そこより出でまして、三重の村に至りし時に、また詔り給ひしく、 「我が足は三重に曲がれるがごとくして、はなはだ疲れたり。」 と詔り給ひき。 故、そこを名づけて、三重といふ。 そこより出でまして、能煩野に至りし時に、国を偲ひて、歌ひて言はく、 倭は国のまほろばたたなづく青垣山隠れる倭しうるはし また、歌ひて言はく、 命の全けむ人はたたみこも平郡の山の熊樫が葉を髻華に挿せその子 この歌は、国偲ひ歌ぞ。 また、歌ひて言はく、 はしけやし我家の方よ雲居立ち来も これは、片歌ぞ。 この時に、御病、いとにはかなり。 しかして、御歌に言はく、 乙女の床の辺にわが置きし剣の太刀その太刀はや 歌ひ終はりて、すなはち、崩りましき。 古事記「倭建命」の現代語訳 そこ(焼遣)から入って行かれて、走水の海を渡った時に、その海峡の神が、海を起こし、(倭建命の乗った)船を回転させたので、(海峡を)進み渡ることができない。 そこで、その(倭建命の)后で、名は弟橘比売命(という方が)、申し上げたことには、 「私が、御子(倭建命)に代わって、海の中に入りましょう。御子は、(景行天皇から)遣わされた政務を成し遂げ、(天皇に)ご報告申し上げねばなりません。」 と申し上げた。 海に入ろうとするときに、菅で編んだござを何枚も、毛皮の敷物を何枚も、粗く織った絹の敷物を何枚も(重ねて)それで海の上に敷いて、その上にお下りになった。 それで、その荒波は自然と静まって、御船は進むことができた。 相模の野原に燃える火の、その火中に立って呼びかけてくれたあなたよ。 それで、七日の後に、その后の御櫛が、海辺に流れ着いた。 そこで、その櫛を取り、御簾を作って(その中に櫛を)納め置いた。 (倭建命は)そこから奥に入って行かれ、ことごとく暴れる蝦夷たちを言葉によって従わせ、また、山川の暴れる神々を平定し帰順させて、(大和に)帰り上っておいでになる時に、足柄峠の坂の下に至って、お食事を食べている所に、その坂の神が、白鹿となってやって来た。 そこで、すぐに、その食べ残してあった野蒜の片隅で、待ち構えて打ったところ、その(白鹿の)目に当てて、たちまち打ち殺した。 そこで、(倭建命は)その坂に登り立って、三度嘆息して、おっしゃって言うことには、 「わが妻よ。」 と言った。 そこで、その国を名づけて、あづま(東)という。 そこからお出になって、三重の村に至った時に、またおっしゃったことには、 「私の足は三重に折れ曲がってしまったようになって、ひどく疲れてしまった。」 とおっしゃった。 それで、そこを名づけて、三重と言う。 そこからお出になって、能煩野に至った時に、(故郷である大和の)国を懐かしんで、歌って言うには、 大和は優れた国よ。重なり合った青い垣根のような木々の生い茂った(大和の)山々、その山々に囲まれた大和の国は美しい。 また、歌って言うには、 (私と違って)命の完全な人は、(たたみこも)平郡の山の大きな樫の木の葉を髪飾りにして挿せ。お前たちよ。 この歌は、望郷の歌である。 また、歌って言うには、 懐かしいよ。我が家の方から、雲が立ち上ってくることよ。 これは、片歌である。 この時に、ご病気が、急変して危篤状態になった。 そうして、(詠んだ)御歌に言うには、 乙女(美夜受比売)の寝床の辺りに、私が置いてきた太刀(草那芸の剣)、その太刀よ。 歌い終わって、たちまち、お亡くなりになった。 Reply ↓
shinichi Post author24/05/2023 at 12:07 pm まほろば https://ja.wikipedia.org/wiki/まほろば まほろばとは、「素晴らしい場所」「住みやすい場所」という意味の日本の古語。「まほらば」「まほらま」「まほら」ともいう。楽園。理想郷。 Reply ↓
古事記「倭建命」
古事記「倭建命」の原文
そこより入り出でまして、走水の海を渡りし時に、その渡りの神、波を起こし、船を巡らせば、進み渡ること得ず。
しかして、その后、名は弟橘比売命、申しく、
「我、御子に代はりて、海の中に入らむ。御子は遺はさえし政を遂げ、返り言申すべし。」
と申しき。
海に入らむとするときに、菅畳八重、皮畳八重、絁畳八重をもつて波の上に敷きて、その上に下りましき。
ここに、その荒波おのづからなぎて、御船進むこと得たり。
しかして、その后の歌ひて言はく、
故、七日の後に、その后の御櫛、海辺に寄りき。
すなはち、その櫛を取り、御陵を作りて納めおきき。
そこより入り出でまし、ことごとく荒ぶる蝦夷どもを言向け、また、山川の荒ぶる神たちを平らげ和して、帰り上り出でましし時に、足柄の坂本に至りて、御粮を食む所に、その坂の神、白き鹿となりて来立ちき。
しかして、すなはち、その食ひ残せる蒜の片端をもちて、待ち打ちしかば、その目に当てて、すなはち打ち殺しき。
故、その坂に登り立ちて、三度嘆きて、詔り給ひて言ひしく、
「あづまはや。」
と言ひき。
故、その国を名づけて、あづまといふ。
そこより出でまして、三重の村に至りし時に、また詔り給ひしく、
「我が足は三重に曲がれるがごとくして、はなはだ疲れたり。」
と詔り給ひき。
故、そこを名づけて、三重といふ。
そこより出でまして、能煩野に至りし時に、国を偲ひて、歌ひて言はく、
また、歌ひて言はく、
この歌は、国偲ひ歌ぞ。
また、歌ひて言はく、
これは、片歌ぞ。
この時に、御病、いとにはかなり。
しかして、御歌に言はく、
歌ひ終はりて、すなはち、崩りましき。
古事記「倭建命」の現代語訳
そこ(焼遣)から入って行かれて、走水の海を渡った時に、その海峡の神が、海を起こし、(倭建命の乗った)船を回転させたので、(海峡を)進み渡ることができない。
そこで、その(倭建命の)后で、名は弟橘比売命(という方が)、申し上げたことには、
「私が、御子(倭建命)に代わって、海の中に入りましょう。御子は、(景行天皇から)遣わされた政務を成し遂げ、(天皇に)ご報告申し上げねばなりません。」
と申し上げた。
海に入ろうとするときに、菅で編んだござを何枚も、毛皮の敷物を何枚も、粗く織った絹の敷物を何枚も(重ねて)それで海の上に敷いて、その上にお下りになった。
それで、その荒波は自然と静まって、御船は進むことができた。
それで、七日の後に、その后の御櫛が、海辺に流れ着いた。
そこで、その櫛を取り、御簾を作って(その中に櫛を)納め置いた。
(倭建命は)そこから奥に入って行かれ、ことごとく暴れる蝦夷たちを言葉によって従わせ、また、山川の暴れる神々を平定し帰順させて、(大和に)帰り上っておいでになる時に、足柄峠の坂の下に至って、お食事を食べている所に、その坂の神が、白鹿となってやって来た。
そこで、すぐに、その食べ残してあった野蒜の片隅で、待ち構えて打ったところ、その(白鹿の)目に当てて、たちまち打ち殺した。
そこで、(倭建命は)その坂に登り立って、三度嘆息して、おっしゃって言うことには、
「わが妻よ。」
と言った。
そこで、その国を名づけて、あづま(東)という。
そこからお出になって、三重の村に至った時に、またおっしゃったことには、
「私の足は三重に折れ曲がってしまったようになって、ひどく疲れてしまった。」
とおっしゃった。
それで、そこを名づけて、三重と言う。
そこからお出になって、能煩野に至った時に、(故郷である大和の)国を懐かしんで、歌って言うには、
また、歌って言うには、
この歌は、望郷の歌である。
また、歌って言うには、
これは、片歌である。
この時に、ご病気が、急変して危篤状態になった。
そうして、(詠んだ)御歌に言うには、
歌い終わって、たちまち、お亡くなりになった。
まほろば
https://ja.wikipedia.org/wiki/まほろば
まほろばとは、「素晴らしい場所」「住みやすい場所」という意味の日本の古語。「まほらば」「まほらま」「まほら」ともいう。楽園。理想郷。