各社とも「あの戦争」や「先の大戦」などの表現を用いました。「1945年8月15日に終戦を迎えた戦争」とする社もありました。結局、中国との戦争とそれに続く太平洋戦争との関係を、70年たっても日本は理解できていないのだ、と改めて感じました。
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ある時、トゥキディデス『戦史』の中の、若者を戦争に動員するための演説の場面に釘付けになりました。言葉が研ぎ澄まされ、言葉の持つ力が全力で動員されるのが戦争なのだと気づかされました。ああ、そっちか、言葉ってすごいぞ、おもしろいぞ、と。
各社とも「あの戦争」や「先の大戦」などの表現を用いました。「1945年8月15日に終戦を迎えた戦争」とする社もありました。結局、中国との戦争とそれに続く太平洋戦争との関係を、70年たっても日本は理解できていないのだ、と改めて感じました。
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ある時、トゥキディデス『戦史』の中の、若者を戦争に動員するための演説の場面に釘付けになりました。言葉が研ぎ澄まされ、言葉の持つ力が全力で動員されるのが戦争なのだと気づかされました。ああ、そっちか、言葉ってすごいぞ、おもしろいぞ、と。
言葉の威力が最も発揮されるとき
「あの戦争」の背後を貫く中国要因
取材・文:高井次郎
東京大学
https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/features/f_00073.html
2015年夏、首相が「戦後70年談話」を発表し、報道各社はこの話題を一斉に取り上げました。日本にとって一つの節目となったのは間違いないところですが、一連の報道で用いられる言葉に違和感を持った歴史学者が本郷にいました。人文社会系研究科の加藤陽子教授です。
開戦時期が曖昧な「あの戦争」
「各社とも「あの戦争」や「先の大戦」などの表現を用いました。「1945年8月15日に終戦を迎えた戦争」とする社もありました。結局、中国との戦争とそれに続く太平洋戦争との関係を、70年たっても日本は理解できていないのだ、と改めて感じました」。
わかりにくさの主因は1937年に宣戦布告抜きで日中戦争を始めたことにあると捉えてきた加藤教授は、今年、長年の研究成果の一部を論文にまとめました。着目したのは、1940年9月の日独伊三国軍事同盟調印、10月の大政翼賛会成立、翌年4月から11月までの日米交渉。以上3つの施策の背景に、一貫して対中和平構想があったことを史料から描きました。
三国同盟、大政翼賛会と日米交渉
ここで、近現代史を学んだ人なら思うでしょう。この3つはむしろ日本が軍国主義を押し進めた里程標ではないか、と。学んでいない方でも、米英との対立を鮮明にした同盟、政党が一斉に解党した結果生まれた組織、時間をかせぐためだけの交渉、といった負のイメージを漠然と抱いているはずです。
「そう考えられてきましたが、新史料を読み込みますと、日本の意図が見えてきます。たとえば『蔣介石日記』からは、蔣が三国同盟調印後の日本とむしろ講和しようと考えていたことが見えてきます。日独に加えて中国も加わった大陸同盟を考慮する勢力が中国側にいた。反共産主義を前面に出した停戦交渉に天皇も熱心であったことは、『昭和天皇実録』から窺えます」。
大政翼賛会が結成された理由の一つに、中国との停戦を実現するための国内政治勢力の基盤固めという側面がありました。衆議院議員の過半数が対中和平に賛成していた事実もあります。日米交渉については、これまで松岡洋右外相と野村吉三郎駐米大使の方針の違いばかりが強調され、交渉失敗の理由もそこに帰せられることが多かったのです。しかし、両者ともに、中国を交渉の席につかせる仲介役を米国に依頼するための交渉という点では一致していたことが、日米交渉の外務省記録や野村吉三郎関係文書から浮かび上がる。そう加藤教授は主張します。
中国との関係から日本史を読み解く
日本が採った3つの施策を一括してとらえ、日本の国内政策と対外態度を貫く観点として、中国問題の存在を見極めたところに独自性があります。
三国同盟は日独関係史、大政翼賛会は日本政治史、日米交渉はアメリカ史という枠に囚われず、横断的に捉えたところに加藤教授の真骨頂がありそうです。
「昔、短期間ですが米国での在外研究を体験しました。一つの図書館に、ソ連・ロシアを含めたアジア諸国の文献・史料が一括収蔵されていることなど大変に刺激的でした。戦前期の日本の為政者自体、中米ソといった多様な国家を相手としていたわけですから、分析する側の頭もそれに対応しなければならないと思うわけです。日本史は中国抜きに語れない、という感覚はそこで芽生えたのかもしれません」。
言葉のもつ力に魅せられて
自身の研究の特徴は、戦争が避けられなかった要因の解明ではなく、戦争を拡大した側の論理を正確に析出する点にあるとする加藤教授。数々の著作を見ると、必ず登場する題材は、戦争です。外見は柔和で上品な方ですが、なぜ戦争を研究テーマに選んだのでしょうか。
「ロシア文学が好きな文学少女でした。ある時、トゥキディデス『戦史』の中の、若者を戦争に動員するための演説の場面に釘付けになりました。言葉が研ぎ澄まされ、言葉の持つ力が全力で動員されるのが戦争なのだと気づかされました。ああ、そっちか、言葉ってすごいぞ、おもしろいぞ、と」。 兵器ではなく、兵器にもなり得る言葉の力に魅入られて史学の門を叩いた加藤教授。昭和天皇の戦後の生涯に迫りたいという次作は、どんな研ぎ澄まされた言葉で綴られるのでしょうか。
それでも、日本人は「戦争」を選んだ
by 加藤陽子
(2016)
はじめに
これまで中高生というよりは中高年に向けた教養所や専門書を書くことが多かった私が、日清戦争から太平洋戦争までの日本人の選択を、なぜ、高校生と考えようと思ったのか、まずはこの点から説明しておきましょう。大学の先生の話はまわりくどくて長いですが、少しだけ我慢して読んでください。
東大で日本近現代史を教えはじめて、早いもので15年がたちました。所属は文学部ですから。教える対象は東大に入学してから3年目以上の学部生と大学院生です。いずれも優秀な学生には違いありませんが、教えながら日々感じる疑念は、まずは教養学部時代に文系と理系に分けられ、さらに法学部・経済学部へと進学者が分かれた後の文学部の学生だけに日本近現代史を教えるのでは遅いのではないかというものでした。鉄は熱いうちに打て、ですね。
私の専門は、現在の金融危機と比較されることも多い1929年の大恐慌、そこから始まった世界的な経済危機と戦争の時代、なかでも1930年代の外交と軍事です。新聞やテレビなどは30年代の歴史と現在の状況をいとも簡単にくらべてしまっていますが、30年代の歴史から教訓としてなにを学べるのか、それを簡潔に答えるのは実のところ難しいのです。
みなさんは、三〇年代の教訓とはなにかと聞かれてすぐに答えられますか。ここでは、二つの点から答えておきましょう。一つには、帝国議会衆議院議員選挙や県会議員選挙などの結果から見るとわかるのですが、一九三七年の日中戦争の頃まで、当時の国民は、あくまで政党政治を通じた国内の社会民主主義的な改革(たとえば、労働者の団結権や団体交渉権を認める法律制定など、戦後、GHQによる諸改革で実現された項目を想起してください)を求めていたということです。二つには、民意が正当に反映されることによって政権交代が可能となるような新しい政治システムの創出を当時の国民もまた強く待望していたということです。
しかし戦前の政治システムの下で、国民の生活を豊かにするはずの社会民主主義的な改革への要求が、既成政党、貴族院、枢密院などの壁に阻まれて実現できなかったことは、みなさんもよくご存知のはずです。その結果いかなる事態が起こったのか。
社会民主主義的な改革要求は既存の政治システム下では無理だということで、擬似的な改革推進者としての軍部への国民の人気が高まっていったのです。そんな馬鹿なという顔をしていますね。しかし陸軍の改革案のなかには、自作農創設、工場法の制定、農村金融機関の改善など、項目それ自体はとてもよい社会民主主義的な改革項目が盛られていました。
ここで私が「擬似的な」改革と呼んだ理由は想像できますね。擬似的とは本物とは違うということです。つまり陸軍であれ海軍であれ、軍という組織は国家としての安全保障を第一に考える組織ですから、ソ連との戦争が避けられない、あるいはアメリカとの戦争が必要となれば、国民生活の安定のための改革要求などは最初に放棄される運命にありました。
ここまでで述べたかったことは、国民の正当な要求を実現しうるシステムが機能不全に陥ると、国民に、本来見てはならない夢を擬似的に見せることで国民の支持を獲得しようとする政治勢力が現れないとも限らないとの危惧であり教訓です。戦前期の陸軍のような政治勢力が再び現れるかもしれないなどというつもりは全くありません。『レイテ戦記』『俘虜記』の作者・大岡昇平も『戦争』(岩波現代文庫)のなかで、歴史は単純には繰り返さない、「この道はいつか来た道」と考えること自体、敗北主義なのだと大胆なことを述べています。
ならば現代における政治システムの機能不全とはいかなる事態をいうのでしょうか。一つに、現在の選挙制度からくる桎梏があげられます。衆議院議員選挙においては比例代表制も併用してはいますが、議席の6割以上は小選挙区から選ばれます。一選挙区ごとに一人の当選者を選ぶ小選挙区制下では、与党は、国民に人気がないときには解散総選挙を行いません。これは2008年から09年にまさに起こったことでしたが、本来ならば国民の支持を失ったときにこそ選挙がなされなければならないはずです。しかしそれはなされない。
政治システムの機能不全の二つ目は、小選挙区制下においては、投票に熱意を持ち、かつ人口的な集団としての多数を占める世代の意見が突出して尊重されうるとの点にあります。2005年の統計では、総人口に占める65歳以上の高齢者の割合は2割に達しました。そもそも人口の2割を占める高齢者、さらに高齢者の方々はまじめですから投票率も高く、たとえば郵政民営化を一点突破のテーマとして自民党が大勝した05年の選挙では、60歳以上の投票率は8割を超えました。それに対して20歳代の投票率は4割と低迷しました。そうであれば、小選挙区制下にあっては、確実な票をはじきだしてくれる高齢者世代の世論や意見を為政者は絶対に無視できない構造が出来上がります。地主の支持層が多かった戦前の政友会などが、自作農創設や小作法の制定などが実現できなかった構造とよく似ています。
私自身あと17年もすれば立派な高齢者ですから、これまで述べたことは天に唾する行為に他なりませんが、義務教育機関のすべての子どもに対する健康保険への援助や母子家庭への生活保護加算は、何よりも優先されるべき大切な制度です。しかしこちらには予算がまわらない。その背景には子育て世代や若者の声が政治に反映されにくい構造があるからです。
そのように考えますと、これからの日本の政治は若年層贔屓と批判されるくらいでちょうどよいと腹をくくり、若い人々に光をあててゆく覚悟がなければ公正には機能しないのではないかと思われるのです。教育にしても然り、若い人々を最郵船として、早期に最良の教育メニューを多数準備することが肝心だと思います。また若い人々には、自らが国民の希望の星だと自覚を持ち、理系も文系も区別なく、必死になって歴史、特に近現代史を勉強してもらいたいものです。30年代の歴史の教訓という話からここまで来ました。
さてこの本は、朝日出版社の鈴木久仁子さんが長年準備してきた企画に基づき、神奈川県の私立・栄光学園の石川昌紀先生、相原義信先生、福本淳先生をはじめ、「おわりに」でお名前を挙げた諸先生のご尽力により、ようやく出来上がったものです。東京都の私立・桜陰学園で中高生活を送った私にとって、栄光学園は初めて足を踏み入れた男子校でありました。
この本は、2007年の年末から翌年のお正月にかけて5日間にわたって行った講義をもとに、序章から5章までで構成されています。序章では、対象を見る際に歴史家はどのように頭を働かせるものなのか、さらに世界的に著名な歴史家たちが「出来事」とは別に立てた「問い」の凄さを味わいながら、歴史がどれだけ面白く見えてくるものなのかをお話ししました。1章では日清戦争、2章で日露戦争、3章で第一次世界大戦、4章で満州事変と日中戦争、5章で太平洋戦争を扱っています。歴史好きであればどの章から読んでも面白いはずです。ただ、歴史は暗記ものじゃないか、歴史など本当の学問にはとても見えないなどと少しでも思われたことのある方でしたら、ぜひとも序章から読んでみてほしいと思います。
以前「戦争の日本近現代史」(講談社現代新書)という本を書いたとき、日清戦争から太平洋戦争まで10年ごとに大きな戦争をやってきたような国家である日本にとって、戦争を国民に説得するための正当化の論理にはいかなるものがあったのか、それをひとまず正確に取りだしてみようとの目論見がありました。もし自分がその当時生きていたら、そのような説得の論理にだまされただろうか、どうも騙されてしまいそうだ、との疑念があったからです。
今回の講義では、扱った対象こそ同じですがいま少し視野を広くとり、たとえば序章では、①9・11テロ後のアメリカと日中戦争期の日本に共通する対外認識とは何か、②膨大な戦死傷者を出した戦争の跡に国家が新たな社会契約を必要とするのはなぜか、③戦争は敵対する国家の憲法や社会を成立させている基本原理に対する攻撃というかたちをとるとルソーは述べたが、それでは太平洋戦争の結果書きかえられた日本の基本原理とはなんだったのか、などの論点を考えてみました。戦争というものの根源的な特徴を抽出して見たかったのです。
つまるところ時々の戦争は、国際関係、地域秩序、当該国家や社会に対して如何なる影響を及ぼしたのか、またときどきの戦争の前と後でいかなる変化が起きたのか、本書のテーマはここにあります。自国民、他国民をともに絶望の淵に追いやる戦争の惨禍が繰り返されながらも、戦争はきまじめともいうべき相貌をたたえて起こり続けました。栄光学園の生徒さんには、自分が作戦計画の立案者であったなら、自分が満州移民として送り出される立場であったならなどと授業のなかで考えてもらいました。講義の間だけ戦争を生きてもらいました。そうするためには、時々の戦争の根源的な特徴、時々の戦争が地域秩序や国家や社会に与えた影響や変化を簡潔に明解にまとめる必要が生じます。その成果がこの本です。
加えて、日本を中心とした天動説ではなく、中国の視点、列強の視点も加え、最新の研究成果もたくさん盛り込みました。日本と中国がお互いに東アジアのリーダーシップを競いあった結果としての日清戦争像や、陸海軍が見事な共同作戦(旅順攻略作戦)を行った点にこそ新しい戦争のかたちとしての意義があったとロシア側が認めた日露戦争像など、見てきたように語っておりますので中高生のみならず中高年の期待も裏切らないはずです。