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右にせよ左にせよ、六十年以上もこの世に生きていますと、イデオロギーというものにはうんざりしました。イデオロギーを、日本訳すれば、 “正義の体系” といってよいでしょう。イデオロギーにおける正義というのは、必ずその中心の核にあたるところに 「絶対のうそ」 があります。
キリスト教では唯一神のことを大文字で God と書きます。絶対であるところの God 。絶対だから大文字であるとすれば、イデオロギーにおける正義も、絶対であるが為に大文字で書かねばなりません。頭文字を大文字で Fiction と書かねばなりません。
ここで、ついでながら、 「絶対」 というのは 「在ル」 とか 「無イ」 とかを超越したある種の観念ということです。極楽はあるか。地理的にどこにある、アフリカにあるのか、それとも火星か水星のあたりにあるのか。これは相対的な考え方です。
「在ル」 とか 「無イ」 とかを超えたものが “絶対” というものですが、そんなものがこの世にあるでしょうか。ありもしない絶対を、論理と修辞でもって糸巻きのようにグルグル巻にしたものがイデオロギー、つまり “正義の体系” というものです。
イデオロギーは、それが過ぎると、古新聞よりも無価値になります。ウソである証拠です。
いま戦争中の新聞を、朝の食卓でコーヒーを飲みながらやすらかに読めますか。
あるいは毛沢東さんの晩年のプロレタリア文化大革命のときの人民日報をアタリマエの顔つきで読めるものではありません。
ヒトラーの 『わが闘争』 を、研究以外に、平和な日曜日の読者として読めますか。
すべては時代が過ぎると、古いわらじのように意味をなさなくなるものらしいですね。
>司馬遼太郎 『〈明治〉という国家』(1989)
>軍隊はむろん国家の重要な一部ですが、その一部の中にいて、当然ながら死ぬつもりでいました。軍人は死ぬための機能なんです。
同時に味方による破壊音 (詩的な表現としてですが) も聞きました。国家を叩き壊している音でした。
そのハンマーをもって駆け回っているのは、国家が大掛りな試験でもって採用した高官達 (軍人・文官を問わず) でしたまたお調子の乗っている新聞人や学者や軽率な思想家も加わっていました。
明治の遺産である自分の国家を自分で壊すことがあっていいものか、そう思う気持ちを私に抱かせたのは、私が、戦車という固まりの中にいたということもあるでしょう。
戦車は、国家の一部です。装甲の厚さ、砲の大きさ、そして全体を数量化して考える事ができるという、素朴リアリズムのかたまりです。いわば、明快な物体です。自分の物体というリアリズムを通して敵のリアリズムもわかります。
リアリズムといえば、明治は、リアリズムの時代でした。それも、透き通った、格調の高い精神で支えられたリアリズムでした。
ここで言っておきますが、高貴さを持たないリアリズム (私どもの日常の基礎なんですけれども) それは八百屋さんのリアリズムです。
そういう要素も国家には必要なのですが、国家を成立させている、つまり国家を一つの建物とすれば、その基礎にあるものは、目に見えざるものです。圧搾空気といってもよろしいが、そういうものの上に乗った上でのリアリズムのことです。このことは何度目かに申し上げます。
そこへゆくと、昭和には (昭和二十年までですが) リアリズムがなかったのです。左右のイデオロギーが充満して国家や社会を振り回していた時代でした。どうみても明治とは、別国の観があり、別の民族だったのではないかと思えるほどです。
右にせよ左にせよ、六十年以上もこの世に生きていますと、イデオロギーというものにはうんざりしました。イデオロギーを、日本訳すれば、 “正義の体系” といってよいでしょう。イデオロギーにおける正義というのは、必ずその中心の核にあたるところに 「絶対のうそ」 があります。
キリスト教では唯一神のことを大文字で God と書きます。絶対であるところの God 。絶対だから大文字であるとすれば、イデオロギーにおける正義も、絶対であるが為に大文字で書かねばなりません。頭文字を大文字で Fiction と書かねばなりません。
ここで、ついでながら、 「絶対」 というのは 「在ル」 とか 「無イ」 とかを超越したある種の観念ということです。極楽はあるか。地理的にどこにある、アフリカにあるのか、それとも火星か水星のあたりにあるのか。これは相対的な考え方です。
「在ル」 とか 「無イ」 とかを超えたものが “絶対” というものですが、そんなものがこの世にあるでしょうか。ありもしない絶対を、論理と修辞でもって糸巻きのようにグルグル巻にしたものがイデオロギー、つまり “正義の体系” というものです。
イデオロギーは、それが過ぎると、古新聞よりも無価値になります。ウソである証拠です。
いま戦争中の新聞を、朝の食卓でコーヒーを飲みながらやすらかに読めますか。
あるいは毛沢東さんの晩年のプロレタリア文化大革命のときの人民日報をアタリマエの顔つきで読めるものではありません。
ヒトラーの 『わが闘争』 を、研究以外に、平和な日曜日の読者として読めますか。
すべては時代が過ぎると、古いわらじのように意味をなさなくなるものらしいですね。
昭和元年から同二十年までは、その二つの正義体系がせめぎあい、一方が勝ち、勝った方は負けた方の遺伝子まで取り入れ、武力と警察力、それに宣伝力で幕末の人や明治人がつくった国家を粉々に潰しました。