吉田秀和 3 Replies 私は、どんな小さなことにしろ、自分の本当の仕事がしたくなったのだった。 そうして死が訪れた時に、ああ自分は本当に生きていたのだという気がする、そういう生活に入りたいという願いだけがあった。
shinichi Post author24/07/2012 at 10:24 pm “そこに自分の考えはあるか” 音楽評論家・吉田秀和の遺言 自分の考えはあるか 音楽評論家・吉田秀和 http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3232.html Reply ↓
shinichi Post author24/07/2012 at 10:25 pm 世界的指揮者小澤征爾さんには絶対に頭の上がらない一人の人物がいます。 音楽評論家、吉田秀和さん。 日本の音楽文化の礎を築きことし5月98歳で亡くなるまで現役で活躍しました。 小澤征爾さん 「音楽を始める一番のきっかけを彼がくれたような気がする。 大の恩人。」 吉田さんの評論の魅力はまるで音楽が聴こえてくるかのような珠玉のことばの数々。 「晴れやかな夏空よりはむしろ梅雨空の光のような声。」 そして世界の名だたる音楽家を「ひびが入っている」と評するなど歯にきぬ着せぬ本音の連続です。 吉田秀和さん 「まだ若々しいし、若いし、青臭いね。」 数々の評論の背景にあったのは、苦々しい戦争体験。 そして周囲に流されがちな日本人に対するそこに自分の考えはあるかという問いかけでした。 水戸芸術館 職員 「自分たちの想像力。 つまり頭を働かせなさい。」 吉田さんの長女 眞佐子さん 「自分が思ったことを、自分の言葉できちんと伝えなさい。」 音楽評論を通して自分で考えることの大切さを訴えてきた吉田秀和さん。 そのメッセージに迫ります。 5年前、自宅の一室で音楽に耳を傾ける吉田秀和さんの姿です。 意外なことに吉田さんの部屋にはオーディオルームや最新式の音楽機器は一切ありませんでした。 吉田秀和さん 「僕はあんまり機械にこだわらないんですよ。 機械は立派なもののほうがいいとは思うけども立派でなきゃいけないとも思わないんだ、僕は。」 吉田さんの音楽評論はその曲や演奏家を全く知らない人たちをも魅了する不思議な力を持っていました。 その源は周囲の意見や流行に流されず独自のことばで音楽を表現したいという情熱だったといいます。 音楽之友社 田中基裕さん 「他人の情報というのは、むしろあまり頼りにしてなくて、みんながいいって言っているものはむしろ逆にどうなんだろうっていうふうに疑問に持つことが多かったですね。 先生自身も、まだ誰も言っていないことを、言おうという気持ちはあったように思います。」 吉田さんの評論にはそれまで誰も思いつかなかったような音を表現する珠玉のことばが登場します。 「それは、いわばアウトバーンを快速で走る自動車の中に座ったままドイツの森の杉やひのきや、にれといった木立とその傍らの名もないような野草やかん木まで見逃さない優れたカメラのような目を感じさす。 しかも、その各個の映像の明らかなこと。 それは、ごつごつした輪郭を少しも持っていないにもかかわらず一つ一つが、はっきり分かる。」 「石のような金属のような響きから絹のような音までピアノから奏し出せる人。 彼女がピアノを弾くときピアノは管弦楽に少しも劣らないほどさまざまの音の花咲く庭になる。」 吉田秀和の名が知れわたるきっかけとなったのはある風変わりなピアニストを巡る論争でした。 奇才、グレン・グールド。 極端に低いいすに座りメロディーを声に出しながら弾くこの新人ピアニストをどう評価するべきか。 特に問題となったのはデビューアルバムであるバッハの「ゴールドベルク変奏曲」でした。 演奏の歴史に詳しい宮澤淳一さん。 グールドの演奏は当時の音楽界にとってあまりにとっぴなものだったといいます。 一般的に、バッハの曲はゆったりとした重厚な荘厳さを持っているべきだというのが当時の常識でした。 ところがグールドの演奏は…。 まるで即興曲やジャズを思わせる流れるような演奏だったのです。 多くの評論家がこんなバッハはありえないと批判しました。 そんな中、周囲とは全く異なる意見を持ったのが吉田さんでした。 楽譜の繰り返し記号をことごとく無視した疾走するスポーツカーのような演奏。 しかしその中の一つ一つの音符が細やかな表現力を持っていると吉田さんは絶賛しました。 吉田秀和さん 「私には、グールドという人が、私たち常人に比べて、はるかに微視的な感受性をもっていて、異常に鋭敏で迅速な感覚を持っているのではないか、という気がしてならない。 これだけの演奏をきいて、冷淡でいられるというのは、私にいわせれば、とうてい考えられないことである。 私は日本のレコード批評の大勢がどうであるかとは別に、このことに関しては、自分ひとりでも、正しいと考えることを遠慮なく発表しようと決心した。」 青山学院大学 教授 宮澤淳一さん 「グールドを語るということは少しおかしいんじゃないかと笑われてしまうんじゃないかというようなときなのにグールドを正面から論じたと。 実際には、いろいろな楽譜の約束事を破って演奏していたと。 だけども、もっと内発的な音楽の根源的なところにさかのぼれば、こういうこの解釈もありうるってことをやはり秀和さんは見抜くことができたと思うんですね。」 この後、グールドは日本人に最も愛されるピアニストの一人になっていきます。 吉田さんの音楽評論も高い信頼を集めました。 周囲に流されずみずからの考えを貫く吉田さんの姿勢はどのようにして生まれたのか。 吉田さんは1913年生まれ。 音楽に触れるきっかけを作ったのはピアノが趣味の母親だったといいます。 そして吉田さんの将来を大きく左右する出来事が起きたのは20代。 当時、若き官僚として音楽に関する翻訳の仕事をしていた吉田さんは戦争の激化とともに内閣情報局への転属を命じられました。 内閣情報局は新聞・出版などの検閲を行い戦争遂行への反対論を弾圧統制する役割を担っていました。 みずからの考えを表現することなど到底できない環境に吉田さんの精神は押しつぶされたのです。 吉田さんと交流のあった片山杜秀さんはこの体験が戦後の吉田さんの人生を大きく方向づけたと考えています。 片山杜秀さん 「自由に生きていこうと思っても、総力戦体制になって社会のどこかに組み込まれないと生きていけない時代になっていったからだから吉田秀和さんだって内務省とか情報局とかね本当はしたくなかった仕事だと私は思うんだけれどそれをやっぱり我慢すると。 我慢するってことはつまり、いつかもっと我慢しなくてもよくなる日が来ると思ってるからでそれに向けて未来に向かって、やっぱり我慢していたわけですよね。」 吉田秀和さん 「私は、どんな小さなことにしろ、自分の本当の仕事がしたくなったのだった。 そうして死が訪れた時に、ああ自分は本当に生きていたのだという気がする、そういう生活に入りたいという願いだけがあった。」 そこに自分の考えはあるかという吉田さんの問い。 それが最も強烈に社会に投げかけられたのはバブル直前の1983年。 20世紀最高のピアニストとうたわれたホロヴィッツの日本公演でした。 当時78歳という高齢ですでに絶頂期は過ぎていたホロヴィッツ。 しかし音楽の神様がやって来ると日本中が熱狂します。 クラシックファンでない人までが長蛇の列を作り1枚数万円のチケットを我先にと購入しました。 伝説のピアニストの演奏に聴衆は酔いしれました。 ところが、会場で演奏を目の当たりにした吉田さんは割り切れない違和感を覚えます。 この演奏は、78歳という年齢を差し引いたとしてもミスタッチが多く価値があるとはいえないものだったのではないか。 日本の聴衆たちは演奏内容を正しく評価できていなかったのではないか。 そして後にホロヴィッツ事件と呼ばれる衝撃的な文章が新聞紙面を飾りました。 吉田秀和さん 「今、私たちの目の前にいるのは骨とうとしてのホロヴィッツにほかならない。 この芸術は、かつては無類の名品だったろうが、今は最も控えめにいってもひびがが入っている。 それに一つや二つのひびではない。 忌憚(きたん)なくいえば、この珍品には欠落があって、完全な形を残していない。」 熱狂に冷水を浴びせるような吉田さんのことば。 音楽評論家の白石美雪さんは当時の衝撃が今も忘れられません。 白石美雪さん 「神様ですからね、やっぱり音楽の世界の、ピアニストの中の。 やっぱりそれを批判するっていう状況ではなかったと思いますよ。 だから、びっくりした。」 このホロヴィッツについての評論は周囲に流されがちな日本人に自分の頭で判断することの大切さを再び印象づけました。 吉田秀和さん 「私たち今日の日本人は『流行』に恐ろしく敏感になっている。 何かがはやると誰も彼も同じことをしたがる。 こんな具合に流行を前にした無条件降伏主義、大勢順応主義と過敏症を、これほど正直にさらけ出している国民は珍しいのではないかと、私は思う。」 日本人に、自立した精神の大切さを訴え続けた吉田さん。 ところが人生の最晩年最悪の絶望と呼ぶ出来事が起こります。 想定外ということばを連発する人々の姿。 まだ日本人にはみずから考える力が備わっていなかったのではないか。 「この国は病んでいる。」 原稿に、かつてないことばがつづられました。 音楽之友社 田中基裕さん 「50年、60年やってきてやっぱり、日本人は前と同じだったっていうそういう絶望感。 ずっとやってこられた仕事というのが結局、その何も変えられなかったっていう気持ちになったのではないかと思うんですよね。」 日本文化に尽くし続けた吉田さん。 亡くなるその日まで、日本の行く末を案じていたといいます。 吉田さんの長女 清水眞佐子さん 「時間がないっていうことを盛んに言ってましたね。 残された時間が足りない。 やっぱり、みんながもう少しいろんなものの裏側を表ばかり見ないでこれが、やったとき何が裏にあるかっていうことをやっぱり日本人は考えないできたんじゃないかな。 前に進むことばかりで。 だから、それは少し21世紀はそういう走り方じゃないものを学ばなきゃいけないっていうところに立っているんじゃないかっていうことを言ってましたね。」 Reply ↓
shinichi Post author24/07/2012 at 10:25 pm ゲスト片山杜秀さん(慶應義塾大学准教授) ●吉田さんの評論の絶大な信頼の源 やはり、なんて言うんだろう、直観力というか、明察力というか、もう見抜く力っていうのがものすごいわけですね。 でも、その見抜く力というのは天性のものとか、ただのセンスの問題じゃなくて、やっぱり例えば、グレン・グールドのことでいえば、グレン・グールドのバッハの「ゴールドベルク変奏曲」を聴いて、バッハっていうのはこういうものだっていう固定された既成の先入観にとらわれないで、バッハの音楽というのはこれだけの可能性がある。 現代、ピアノで弾くとどうなるか。 現代人のセンスとか感性はどうなのか。 そのときグレン・グールドのあのスタイルとバッハを組み合わせて、それが許されるのか、すばらしいのか、おかしいのか、そういうことがあっというまに判断できる。 だからそのセンスの裏にあるバッハとは何か、グレン・グールドとは何か、現代人がピアノを弾くとは何か、あと現代人のスピード感覚とは何か、そういうことが全部入ったうえで、ぱっとひらめいてしまう。 ぱっとひらめいたことをただ、ひらめきとして示すんじゃなくて、今言ったようなことをかんで含めるように、しっかり確かめながら、文章に書いていく、その文章力、表現力のすばらしさですね。 こういうことが全部トータルに入ってできるっていうのは、吉田秀和さんのほかにっていうか、ほかの日本人では少なくともまねできる人はいなかったということですね。 ●ホロヴィッツさんも3年後にまた日本に あれももう本当に骨とう品だ、でも欠落が、単にひび割れてるだけじゃなくて、欠けてるぐらいだっていうことをはっきり言った。 これはもう、みんながすばらしいものを聴くっていうときにあんなことを言うっていうのは、大変な冒険といえば冒険なんだけれども、そういうことを自分の判断でしっかりまず、ぱっと言うっていうことがいかに大事か、みんながいいって言ってるものをいいんだっていうふうに言ってしまっては生きてるかいがないっていう姿勢をしっかりお持ちだった。 しかも、吉田秀和さんがああいうことを言って、説得力を持っちゃうっていうのは、吉田秀和さんはやっぱり白洲次郎、白洲正子ご夫妻とか、青山二郎とか、小林秀雄とかと交際して、骨とう品というものをよく知ってるんですよね。 そういう意味でも最高の目利きっていうかな、いい骨とうはいいんだけれども、欠けているものがあれば欠けてる。 でも、いいっていうニュアンスは必ずあるんですよね。 批評には。 だからホロヴィッツのことをものすごく認めてる。 認めてるんだけども、ここはだめなんだってことははっきり言う。 ただ立ち上がって拍手して、ああよかったな、値段相応のものが聴けてよかったなと、思い込もうとする人へ常にブレーキをかけながら、相手に対する礼も決して欠かさない、そういうスタイルでものを言いかけたってことですね。 ●自分で感じられたことを中心に語ってきた 吉田秀和さんは、自分の明察とかひらめきとか、それがひらめくための仕掛け、教養、知識っていうものをすごく信じていたけれど、でもクラシック音楽を聴くっていうのは、作品もあれば、演奏もあれば、いろんなファクターがあって、その組み合わせがあって、どれが正解かっていうことは、最後の最後までどんな天才にも分からないような芸術には違いない。 そういう中で吉田さんは、自分はこう思う、それはもちろん自信はあるんだけれども、でも、本当に合ってるのかなっていうニュアンスは常に文章の中に残して、上手に書く。 そして実際にお話するときでもなんでも、僕はこう思うんだけど、あなたはどう思うのかということをものすごくはっきり、直接おっしゃるし、文章でも語りかけるような、僕はこうなんだけど、でもちょっと違うかもしれないけど、でもやっぱりこうなんだけど、あなたはどう思うのかと。 そういう開かれた批評っていいますかね、あなたがどう思うか、自分の判断があなた、できますか?ということを問い掛けるような文章の書き方をいつもなさっていたと思います。 ●戦争体験が大きく影響されたのか やっぱり吉田秀和さんは、中原中也とか吉田一穂っていう詩人に若いころ、出会って、影響を受けて、自由な生き方、自分を信ずるもの、人がついてこなくても自分を信ずるすばらしいものをすばらしいって言う精神に憧れて、それを実践しようとした。 でも実際に生きていくためには、もう戦争ですからね、どこかの組織に組み込まれないと生きていけない状況になった。 そういう中で、やっぱりそういうことを二度と繰り返したくないと、自分の言いたいこと、信じること、美しいと思うもの、間違ってると思うもの、これをはっきり言うっていうことが一番大事だと、こういう姿勢をやはり戦争体験からはっきり持たれたと思います。 ●芸術の土台の危さ やっぱり戦争によってクラシック音楽を聴いたりしていると、そんなことやっていたら非国民じゃないかって言われるようなこともある。 そういうことも体験なさってるし、しかも吉田さん、小学生のときには関東大震災を経験なさっていて、それであと空襲も経験なさってる。 単に軍部や政府から弾圧されるっていうか、思想とか文化教養を統制されるだけではなくて、自分の家が焼い弾で燃えかけるようなことも経験なさってるわけですね。 だからその中で、芸術がいいとか、そんなことを言ってる、それがあたりまえだっていうのはみじんも、最後まで持ってなかったと思います。 常に危ないんだと思っておられたと。 ●一番大事なのは想像力だ やっぱり音楽、クラシック音楽、ほかの文化芸術でもそれを味わうということは批評家が説明してくれたってやっぱり分からないわけで、自分で一生懸命想像して、あと論理の力を発揮させて、一生懸命干渉しないと分からない。 そういうものにたくさん触れていればもっとイマジネーションが豊かになって、世の中の非常事態みたいなものに対しても、対応できるというか、何が起きてもこういうこともあるだろうっていう想像力が培われているはずだ、ところがそうなっていなかった。 ご自分がやってきたことも含めて、とっても最後に衝撃を受けられていたと思います。 Reply ↓
“そこに自分の考えはあるか”
音楽評論家・吉田秀和の遺言
自分の考えはあるか 音楽評論家・吉田秀和
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3232.html
世界的指揮者小澤征爾さんには絶対に頭の上がらない一人の人物がいます。
音楽評論家、吉田秀和さん。
日本の音楽文化の礎を築きことし5月98歳で亡くなるまで現役で活躍しました。
小澤征爾さん
「音楽を始める一番のきっかけを彼がくれたような気がする。
大の恩人。」
吉田さんの評論の魅力はまるで音楽が聴こえてくるかのような珠玉のことばの数々。
「晴れやかな夏空よりはむしろ梅雨空の光のような声。」
そして世界の名だたる音楽家を「ひびが入っている」と評するなど歯にきぬ着せぬ本音の連続です。
吉田秀和さん
「まだ若々しいし、若いし、青臭いね。」
数々の評論の背景にあったのは、苦々しい戦争体験。
そして周囲に流されがちな日本人に対するそこに自分の考えはあるかという問いかけでした。
水戸芸術館 職員
「自分たちの想像力。
つまり頭を働かせなさい。」
吉田さんの長女 眞佐子さん
「自分が思ったことを、自分の言葉できちんと伝えなさい。」
音楽評論を通して自分で考えることの大切さを訴えてきた吉田秀和さん。
そのメッセージに迫ります。
5年前、自宅の一室で音楽に耳を傾ける吉田秀和さんの姿です。
意外なことに吉田さんの部屋にはオーディオルームや最新式の音楽機器は一切ありませんでした。
吉田秀和さん
「僕はあんまり機械にこだわらないんですよ。
機械は立派なもののほうがいいとは思うけども立派でなきゃいけないとも思わないんだ、僕は。」
吉田さんの音楽評論はその曲や演奏家を全く知らない人たちをも魅了する不思議な力を持っていました。
その源は周囲の意見や流行に流されず独自のことばで音楽を表現したいという情熱だったといいます。
音楽之友社 田中基裕さん
「他人の情報というのは、むしろあまり頼りにしてなくて、みんながいいって言っているものはむしろ逆にどうなんだろうっていうふうに疑問に持つことが多かったですね。
先生自身も、まだ誰も言っていないことを、言おうという気持ちはあったように思います。」
吉田さんの評論にはそれまで誰も思いつかなかったような音を表現する珠玉のことばが登場します。
「それは、いわばアウトバーンを快速で走る自動車の中に座ったままドイツの森の杉やひのきや、にれといった木立とその傍らの名もないような野草やかん木まで見逃さない優れたカメラのような目を感じさす。
しかも、その各個の映像の明らかなこと。
それは、ごつごつした輪郭を少しも持っていないにもかかわらず一つ一つが、はっきり分かる。」
「石のような金属のような響きから絹のような音までピアノから奏し出せる人。
彼女がピアノを弾くときピアノは管弦楽に少しも劣らないほどさまざまの音の花咲く庭になる。」
吉田秀和の名が知れわたるきっかけとなったのはある風変わりなピアニストを巡る論争でした。
奇才、グレン・グールド。
極端に低いいすに座りメロディーを声に出しながら弾くこの新人ピアニストをどう評価するべきか。
特に問題となったのはデビューアルバムであるバッハの「ゴールドベルク変奏曲」でした。
演奏の歴史に詳しい宮澤淳一さん。
グールドの演奏は当時の音楽界にとってあまりにとっぴなものだったといいます。
一般的に、バッハの曲はゆったりとした重厚な荘厳さを持っているべきだというのが当時の常識でした。
ところがグールドの演奏は…。
まるで即興曲やジャズを思わせる流れるような演奏だったのです。
多くの評論家がこんなバッハはありえないと批判しました。
そんな中、周囲とは全く異なる意見を持ったのが吉田さんでした。
楽譜の繰り返し記号をことごとく無視した疾走するスポーツカーのような演奏。
しかしその中の一つ一つの音符が細やかな表現力を持っていると吉田さんは絶賛しました。
吉田秀和さん
「私には、グールドという人が、私たち常人に比べて、はるかに微視的な感受性をもっていて、異常に鋭敏で迅速な感覚を持っているのではないか、という気がしてならない。
これだけの演奏をきいて、冷淡でいられるというのは、私にいわせれば、とうてい考えられないことである。
私は日本のレコード批評の大勢がどうであるかとは別に、このことに関しては、自分ひとりでも、正しいと考えることを遠慮なく発表しようと決心した。」
青山学院大学 教授 宮澤淳一さん
「グールドを語るということは少しおかしいんじゃないかと笑われてしまうんじゃないかというようなときなのにグールドを正面から論じたと。
実際には、いろいろな楽譜の約束事を破って演奏していたと。
だけども、もっと内発的な音楽の根源的なところにさかのぼれば、こういうこの解釈もありうるってことをやはり秀和さんは見抜くことができたと思うんですね。」
この後、グールドは日本人に最も愛されるピアニストの一人になっていきます。
吉田さんの音楽評論も高い信頼を集めました。
周囲に流されずみずからの考えを貫く吉田さんの姿勢はどのようにして生まれたのか。
吉田さんは1913年生まれ。
音楽に触れるきっかけを作ったのはピアノが趣味の母親だったといいます。
そして吉田さんの将来を大きく左右する出来事が起きたのは20代。
当時、若き官僚として音楽に関する翻訳の仕事をしていた吉田さんは戦争の激化とともに内閣情報局への転属を命じられました。
内閣情報局は新聞・出版などの検閲を行い戦争遂行への反対論を弾圧統制する役割を担っていました。
みずからの考えを表現することなど到底できない環境に吉田さんの精神は押しつぶされたのです。
吉田さんと交流のあった片山杜秀さんはこの体験が戦後の吉田さんの人生を大きく方向づけたと考えています。
片山杜秀さん
「自由に生きていこうと思っても、総力戦体制になって社会のどこかに組み込まれないと生きていけない時代になっていったからだから吉田秀和さんだって内務省とか情報局とかね本当はしたくなかった仕事だと私は思うんだけれどそれをやっぱり我慢すると。
我慢するってことはつまり、いつかもっと我慢しなくてもよくなる日が来ると思ってるからでそれに向けて未来に向かって、やっぱり我慢していたわけですよね。」
吉田秀和さん
「私は、どんな小さなことにしろ、自分の本当の仕事がしたくなったのだった。
そうして死が訪れた時に、ああ自分は本当に生きていたのだという気がする、そういう生活に入りたいという願いだけがあった。」
そこに自分の考えはあるかという吉田さんの問い。
それが最も強烈に社会に投げかけられたのはバブル直前の1983年。
20世紀最高のピアニストとうたわれたホロヴィッツの日本公演でした。
当時78歳という高齢ですでに絶頂期は過ぎていたホロヴィッツ。
しかし音楽の神様がやって来ると日本中が熱狂します。
クラシックファンでない人までが長蛇の列を作り1枚数万円のチケットを我先にと購入しました。
伝説のピアニストの演奏に聴衆は酔いしれました。
ところが、会場で演奏を目の当たりにした吉田さんは割り切れない違和感を覚えます。
この演奏は、78歳という年齢を差し引いたとしてもミスタッチが多く価値があるとはいえないものだったのではないか。
日本の聴衆たちは演奏内容を正しく評価できていなかったのではないか。
そして後にホロヴィッツ事件と呼ばれる衝撃的な文章が新聞紙面を飾りました。
吉田秀和さん
「今、私たちの目の前にいるのは骨とうとしてのホロヴィッツにほかならない。
この芸術は、かつては無類の名品だったろうが、今は最も控えめにいってもひびがが入っている。
それに一つや二つのひびではない。
忌憚(きたん)なくいえば、この珍品には欠落があって、完全な形を残していない。」
熱狂に冷水を浴びせるような吉田さんのことば。
音楽評論家の白石美雪さんは当時の衝撃が今も忘れられません。
白石美雪さん
「神様ですからね、やっぱり音楽の世界の、ピアニストの中の。
やっぱりそれを批判するっていう状況ではなかったと思いますよ。
だから、びっくりした。」
このホロヴィッツについての評論は周囲に流されがちな日本人に自分の頭で判断することの大切さを再び印象づけました。
吉田秀和さん
「私たち今日の日本人は『流行』に恐ろしく敏感になっている。
何かがはやると誰も彼も同じことをしたがる。
こんな具合に流行を前にした無条件降伏主義、大勢順応主義と過敏症を、これほど正直にさらけ出している国民は珍しいのではないかと、私は思う。」
日本人に、自立した精神の大切さを訴え続けた吉田さん。
ところが人生の最晩年最悪の絶望と呼ぶ出来事が起こります。
想定外ということばを連発する人々の姿。
まだ日本人にはみずから考える力が備わっていなかったのではないか。
「この国は病んでいる。」
原稿に、かつてないことばがつづられました。
音楽之友社 田中基裕さん
「50年、60年やってきてやっぱり、日本人は前と同じだったっていうそういう絶望感。
ずっとやってこられた仕事というのが結局、その何も変えられなかったっていう気持ちになったのではないかと思うんですよね。」
日本文化に尽くし続けた吉田さん。
亡くなるその日まで、日本の行く末を案じていたといいます。
吉田さんの長女 清水眞佐子さん
「時間がないっていうことを盛んに言ってましたね。
残された時間が足りない。
やっぱり、みんながもう少しいろんなものの裏側を表ばかり見ないでこれが、やったとき何が裏にあるかっていうことをやっぱり日本人は考えないできたんじゃないかな。
前に進むことばかりで。
だから、それは少し21世紀はそういう走り方じゃないものを学ばなきゃいけないっていうところに立っているんじゃないかっていうことを言ってましたね。」
ゲスト片山杜秀さん(慶應義塾大学准教授)
●吉田さんの評論の絶大な信頼の源
やはり、なんて言うんだろう、直観力というか、明察力というか、もう見抜く力っていうのがものすごいわけですね。
でも、その見抜く力というのは天性のものとか、ただのセンスの問題じゃなくて、やっぱり例えば、グレン・グールドのことでいえば、グレン・グールドのバッハの「ゴールドベルク変奏曲」を聴いて、バッハっていうのはこういうものだっていう固定された既成の先入観にとらわれないで、バッハの音楽というのはこれだけの可能性がある。
現代、ピアノで弾くとどうなるか。
現代人のセンスとか感性はどうなのか。
そのときグレン・グールドのあのスタイルとバッハを組み合わせて、それが許されるのか、すばらしいのか、おかしいのか、そういうことがあっというまに判断できる。
だからそのセンスの裏にあるバッハとは何か、グレン・グールドとは何か、現代人がピアノを弾くとは何か、あと現代人のスピード感覚とは何か、そういうことが全部入ったうえで、ぱっとひらめいてしまう。
ぱっとひらめいたことをただ、ひらめきとして示すんじゃなくて、今言ったようなことをかんで含めるように、しっかり確かめながら、文章に書いていく、その文章力、表現力のすばらしさですね。
こういうことが全部トータルに入ってできるっていうのは、吉田秀和さんのほかにっていうか、ほかの日本人では少なくともまねできる人はいなかったということですね。
●ホロヴィッツさんも3年後にまた日本に
あれももう本当に骨とう品だ、でも欠落が、単にひび割れてるだけじゃなくて、欠けてるぐらいだっていうことをはっきり言った。
これはもう、みんながすばらしいものを聴くっていうときにあんなことを言うっていうのは、大変な冒険といえば冒険なんだけれども、そういうことを自分の判断でしっかりまず、ぱっと言うっていうことがいかに大事か、みんながいいって言ってるものをいいんだっていうふうに言ってしまっては生きてるかいがないっていう姿勢をしっかりお持ちだった。
しかも、吉田秀和さんがああいうことを言って、説得力を持っちゃうっていうのは、吉田秀和さんはやっぱり白洲次郎、白洲正子ご夫妻とか、青山二郎とか、小林秀雄とかと交際して、骨とう品というものをよく知ってるんですよね。
そういう意味でも最高の目利きっていうかな、いい骨とうはいいんだけれども、欠けているものがあれば欠けてる。
でも、いいっていうニュアンスは必ずあるんですよね。
批評には。
だからホロヴィッツのことをものすごく認めてる。
認めてるんだけども、ここはだめなんだってことははっきり言う。
ただ立ち上がって拍手して、ああよかったな、値段相応のものが聴けてよかったなと、思い込もうとする人へ常にブレーキをかけながら、相手に対する礼も決して欠かさない、そういうスタイルでものを言いかけたってことですね。
●自分で感じられたことを中心に語ってきた
吉田秀和さんは、自分の明察とかひらめきとか、それがひらめくための仕掛け、教養、知識っていうものをすごく信じていたけれど、でもクラシック音楽を聴くっていうのは、作品もあれば、演奏もあれば、いろんなファクターがあって、その組み合わせがあって、どれが正解かっていうことは、最後の最後までどんな天才にも分からないような芸術には違いない。
そういう中で吉田さんは、自分はこう思う、それはもちろん自信はあるんだけれども、でも、本当に合ってるのかなっていうニュアンスは常に文章の中に残して、上手に書く。
そして実際にお話するときでもなんでも、僕はこう思うんだけど、あなたはどう思うのかということをものすごくはっきり、直接おっしゃるし、文章でも語りかけるような、僕はこうなんだけど、でもちょっと違うかもしれないけど、でもやっぱりこうなんだけど、あなたはどう思うのかと。
そういう開かれた批評っていいますかね、あなたがどう思うか、自分の判断があなた、できますか?ということを問い掛けるような文章の書き方をいつもなさっていたと思います。
●戦争体験が大きく影響されたのか
やっぱり吉田秀和さんは、中原中也とか吉田一穂っていう詩人に若いころ、出会って、影響を受けて、自由な生き方、自分を信ずるもの、人がついてこなくても自分を信ずるすばらしいものをすばらしいって言う精神に憧れて、それを実践しようとした。
でも実際に生きていくためには、もう戦争ですからね、どこかの組織に組み込まれないと生きていけない状況になった。
そういう中で、やっぱりそういうことを二度と繰り返したくないと、自分の言いたいこと、信じること、美しいと思うもの、間違ってると思うもの、これをはっきり言うっていうことが一番大事だと、こういう姿勢をやはり戦争体験からはっきり持たれたと思います。
●芸術の土台の危さ
やっぱり戦争によってクラシック音楽を聴いたりしていると、そんなことやっていたら非国民じゃないかって言われるようなこともある。
そういうことも体験なさってるし、しかも吉田さん、小学生のときには関東大震災を経験なさっていて、それであと空襲も経験なさってる。
単に軍部や政府から弾圧されるっていうか、思想とか文化教養を統制されるだけではなくて、自分の家が焼い弾で燃えかけるようなことも経験なさってるわけですね。
だからその中で、芸術がいいとか、そんなことを言ってる、それがあたりまえだっていうのはみじんも、最後まで持ってなかったと思います。
常に危ないんだと思っておられたと。
●一番大事なのは想像力だ
やっぱり音楽、クラシック音楽、ほかの文化芸術でもそれを味わうということは批評家が説明してくれたってやっぱり分からないわけで、自分で一生懸命想像して、あと論理の力を発揮させて、一生懸命干渉しないと分からない。
そういうものにたくさん触れていればもっとイマジネーションが豊かになって、世の中の非常事態みたいなものに対しても、対応できるというか、何が起きてもこういうこともあるだろうっていう想像力が培われているはずだ、ところがそうなっていなかった。
ご自分がやってきたことも含めて、とっても最後に衝撃を受けられていたと思います。