One thought on “>唐木順三

  1. s.A

    >kyou2 (http://d.hatena.ne.jp/kyou2/20060508/p1):

    『無用者の系譜』 唐木順三 (筑摩叢書23)

    「その男、身をえうなきものに思ひなして…」
    伊勢物語の業平は自らを無用者とし、京を離れて東へ下りそこから、京に思いを馳せた。
    京にいて雅にひたるのではなく、観念の世界で「みやび」を遊ぶ。
    風流の風をいわば脳内に吹かせることによって、よりいっそう風雅に浸った。
    著者は旧来には無かったこの観念世界の誕生を業平体験と言い、この体験なくして「もののあはれ」も、「みやび」もないとしている。
    無用者のはじまりである・・・。
    その系譜は業平から、一遍の先達や周辺の禅僧、芭蕉をはじめ江戸の俳諧師、徂徠門下の儒者、多くの文人墨客が連なり、明治の永井荷風へと続く。
    捨てさり、外れ、逸脱し、自らを無用者として自覚して、実は果敢な行動者であると思う。
    凡人は自分が世の中にある意味を探し、生きる目的を探し、利を求めるが、無用者は埒外にある。
    その次元を超えたところに風狂、風流の世界が広がるのだろう。

    上田秋成の世の捨て方は、興味深かった。
    現世から一段下がるフリをして、上からものを言うのはよくある。
    けれど、彼の場合は浮世から横っ飛びして、上でも下でもない幻想の異界へ身をおいた。
    秋成は隠棲はしていてもひどく人間的で、宗教的なものも無ければ現世否定もなく、最後まで自己というものをもっていたと著者は言う。
    孤独だけれど人間的で、善悪の世界ではなく美の世界に生きた、なんとも魅力的だ。

    この無用者の系譜に女性はでてこない。
    ある意味子どもを持つ女性は、執着の塊なのかもしれない。無用者にはなりえない存在と思う。
    無用者が同時に、日本の芸術・文化の優れた体現者であることは間違いない。
    少なくとも今までの歴史において芸術・文化が男性中心であったことの理由が分るような気がした。

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