土井隆義

近年の相対的貧困率に目を向けてみると、男性の場合、高齢層ではやや改善が見られるのに対し、若年層では逆に悪化している。女性の場合、男性ほど極端ではないものの、それでもやはり若年層で悪化している。
その貧困の要因の一つといえる失業も、その多寡は若年層になるほど学歴による差異が大きくなっている。またその学歴は幼少期からの家庭環境に左右され、さらにその家庭環境には教育に投資できる親の経済力が反映している。事実、全国一斉学力テストの平均点は親の年収と相関しており、子ども自身による勉強時間との相関度よりも強い。
このような状況を反映して、いまの日本には「努力しても報われない」と諦観を抱く若者たちが増えている。にもかかわらず、その状況に対して彼らは不満を覚えなくなっている。

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  1. shinichi Post author

    格差拡大、貧困増大…それでも「若者の生活満足度」が高いこれだけの理由
    若年層に拡がる「宿命論」的な人生観
    by 土井隆義

    https://gendai.ismedia.jp/articles/-/87009

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    親ガチャに外れた…

    「親ガチャに外れちゃったよ」。昨今、学生たちの会話に耳を傾けていると、時折そんな声が聞こえてくるようになった。オンラインゲームで希望のアイテムを入手するための電子くじシステムを「ガチャ」という。もともとは店舗などに置いてある小型の自動販売機で、硬貨を入れてレバーを回すとカプセル入りの玩具が無作為に出てくるガチャガチャが語源である。そのシステムに自分の出生をなぞらえたのが親ガチャである。

    ガチャでどんなアイテムが当たるかは運任せである。ときには一発で大当たりすることもあるが、いくら課金しても弱いアイテムしか入手できないこともある。自分の出生もそれと同じことで、私たちは誰しもどんな親の元に生まれてくるかを選べない。そこには当たりもあれば外れもある。自分の人生が希望通りにいかないとしたら、それはくじ運が悪くて外れを引いてしまったからだ。親ガチャにはそんな思いが込められている。

    近年の相対的貧困率(世帯の可処分所得の中央値の半分に達していない層の割合)に目を向けてみると、男性の場合、高齢層ではやや改善が見られるのに対し、若年層では逆に悪化している。女性の場合、男性ほど極端ではないものの、それでもやはり若年層で悪化している。

    その貧困の要因の一つといえる失業も、その多寡は若年層になるほど学歴による差異が大きくなっている。またその学歴は幼少期からの家庭環境に左右され、さらにその家庭環境には教育に投資できる親の経済力が反映している。事実、全国一斉学力テストの平均点は親の年収と相関しており、子ども自身による勉強時間との相関度よりも強い。

    このような状況を反映して、いまの日本には「努力しても報われない」と諦観を抱く若者たちが増えている。統計数理研究所が実施している「日本人の国民性調査」で、1980年代と2010年代のデータを比較すると、この傾向は若年層の男性でとくに著しい。

    人生はなかなか思うようにいかない。生まれたときから定められている宿命のようなものだ。自分の努力で変えることなど出来ようもない。そんな思いを抱えた学生たちが増えていてもおかしくはない。親ガチャはこのような時代精神が投影された言葉といえる。

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    でも人生には満足だ

    個人の努力では乗り越えられない壁が目の前に立ちはだかっている。それが昨今の若者たちの実感だろう。ところが別の統計に目を向けてみると、そこからは彼らの意識の意外な側面も見えてくる。

    生活全般に満足している人の割合について、NHK放送文化研究所が実施している「現代日本人の意識調査」で、1973年と2008年のデータを比較すると、65歳以上ではほぼ変化がないのに対し、それ以下では若年層のほうが大きくなっているのである。とくに10代後半での増加率が激しく、じつに70%以上の人が生活全般に満足と回答している。

    今日の若年層では、男女ともに相対的貧困率が上昇し、それを反映して「努力しても報われない」と諦観を抱く人も増えている。にもかかわらず、その状況に対して彼らは不満を覚えなくなっている。若者だけではない。子どもの貧困率の高さも近年は大きな社会問題となっているが、同じくNHK放送文化研究所が実施している「中学生・高校生の生活と意識調査」を見ると、現在の自分を幸福と感じる中高生も、この20年近く増え続けている。いったいなぜだろうか。

    さらに別の統計を探してみると、この謎を解く鍵となると思われるデータもあることに気づく。先ほども触れた統計数理研究所の「日本人の国民性調査」で、1980年代と2010年代のデータを比較してみると、若年層では「自分の可能性を試すためにできるだけ多くの経験をしたい」という人が減っているのである。このデータから推察されるのは、人生に対する諦観の高まりと生活満足度の高まりは互いに矛盾しているわけではなく、むしろ前者が後者の原因となっているかもしれない可能性である。

    それぞれの年代の中で若年層と高齢層を比較してみれば、もちろん若年層のほうが「多くの経験をしたい」という人の割合は高い。まだ残された人生が長い分だけ、チャレンジ精神に富んでいるのは当然だろう。しかし、時代をずらして同じ年齢層を比較すると、若年層ではチャレンジ精神が減退しているのに対し、高齢層では逆に増進している。時代とともに各世代の人生観は変わってきているようである。

    しかもこれらのデータから分かるのは、歳をとるにつれて保守化していくという加齢効果より、新しい世代のほうが保守化しているという世代効果のほうが大きいという事実である。

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    期待値−現状=不満

    私たちは、努力したら報われるという気持ちを強く抱いていればいるほど、努力しようというモチベーションを高められる。しかし、いくら努力しても報われないと、その分だけ著しく不満感を募らせることにもなる。期待値と現実のギャップが大きくなるからである。

    他方、努力しても報われないと端(はな)から思って諦観していれば、努力してやろうというモチベーションはなかなか高まらないが、そこでたとえ報われなかったとしても、不満感はさほど募らない。期待値と現実の間にあまりギャップが生じないからである。

    私たちの不満感は、このように期待値と現実の落差から生まれる。だとしたら、余計な理想など最初から描かず、期待値がそもそも低ければ、現実への不満もそれだけ低下することになるだろう。このような観点から現在の若年層を眺めてみると、その生活満足度の高さも説明できるように思われる。

    昭和時代の経済成長率は、ときに10パーセントを超えたこともあった。しかし、すでに高度成長期も安定成長期も終えた現在では、良くても1パーセント留まりである。このような時代の変化は、若者たちの期待値に大きな影響を及ぼしているに違いない。

    生活水準においても、学歴においても、一世代前のレベルを上回ることを容易に実感しえた山登りの時代はすでに終わっている。ほぼ平坦な道のりがつづく「高原社会」に生まれ育った現在の若年層にとって、これから克服すべき高い目標を掲げ、輝かしい未来の実現へ向けて日々努力しつつ現在を生きることなど、まったく現実味のない人生観に思えてもおかしくはない。彼らが眺めているのは、見上げながら登りつつある山の頂ではなく、その頂きの向こうに延々と広がるなだらかな地平だからである。

    日本社会が高原化してすでに20年を超えた現在、このような人生観は彼らの親の世代にも当てはまるようになっている。しかし、彼らの親の世代はそのまた親の世代の学歴や収入を乗り越えることが割と容易だった。ちょうど時代の転換点の直後に位置する世代だからである。

    そのため、親の学歴や収入を上回ることができない現在の子どもたちに接したとき、なんとも不甲斐ないと感じてしまう。このような状況を反映して、学生たちの中には「子ガチャに外れた」と親から言われている者も結構いるようである。親の期待どおりにいかない子どもの人生をこのように嘆かれたのでは、自分の責任でそうなったわけではない学生たちがなんとも気の毒である。と同時に、親の世代もまたこの言葉を発するようになっているという現実は、子どもの世代ほど極端ではないにせよ、彼らもまた同様の感性を持ち始めていることを物語っている。

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    不満を抱えた高齢層

    日本青少年研究所が実施した「高校生の生活意識と留学に関する調査」によると、「現状を変えようとするより、そのまま受け入れたほうが楽に暮らせる」と答えた人は、1980年には約25%にすぎなかったが、2011年には約57%へと倍増している。

    このような心性は、若者からハングリー精神が衰えたと批判的に捉えられることも多いが、現状を変えるためのハードルのほうが上がったと捉え直すこともできる。かつての若者たちが、見上げるような急な坂道を登り続けることができたのは、現在の若者たちより努力家だったからではない。後ろから強い追い風が吹き上げていたからである。社会全体が底上げされ続けていたからである。

    たとえば、いま列車に乗っているとしよう。動いている列車と止まっている列車では、そのなかで同じ距離だけ前方に歩いても、スタート地点からの移動距離は違う。成長期の日本では社会全体が向上していたため、その勢いに乗ることで、わずかな努力でも現状を大きく変えることが可能な場合が多々あった。しかし現在の日本では、たとえ努力したとしても、現状はなかなかそう大きくは変わらないものへと変質している。このような時代の変化が、今日の若者たちの期待値を低減させている。

    また、若年層ほど大幅な増加ではないせよ、その親の世代に当たる中年層でもやはり生活満足度は上昇傾向を示している。彼らもまた「子ガャ」という言葉を使うように、このような時代の空気をある程度は共有しているからだろう。他方で、高齢層だけは変化していない。かつての高度成長期に多感な思春期を送った世代であるため、その心性をなかなか変えることができず、当時の高い期待値をいまも保ち続けたままだからだろう。それが現在の社会状況と合致しなくなっているのである。

    実際、若年層と中年層においては、生活満足度の上昇とともに刑法犯も減少している。ところが高齢層においては、その人口規模の拡大では説明しきれないほど刑法犯が増えている。昨今は暴走老人などと呼ばれることも多いが、不満感の塊のような高齢者がこの世代に急増しているのは、時代の変化に世代の精神が追いついていかず、そこに大きな落差が生じているからだろう。

    しかし、じつはこれだけではまだ説明が足りない。人生への期待値を下げているのは、若年層だけでなく中年層でも同じはずである。しかし、生活満足度の上昇幅は、若年層のほうが中年層よりはるかに大きい。どちらも高原社会に生まれ育った世代であるにもかかわらず、両者の間には大きな落差が存在する。それはいったいなぜだろうか。

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  2. shinichi Post author

    「親ガチャ」という言葉が、現代の若者に刺さりまくった「本質的な理由」
    若年層に拡がる宿命論的な人生観
    by 土井隆義

    https://gendai.ismedia.jp/articles/-/87010

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    不満感から不安感へ

    親ガチャという言葉が示唆するように、今日の日本社会では経済格差の固定化が進みつつある。しかしその一方で、とくに若年層を中心に生活満足度や幸福感は高まっている。矛盾しているかのように見えるこの二つの現象の裏には、日本社会がすでに山登りの時代を終え、いまや高原化しているという実情がある。経済格差の固定化もその帰結の一つであるし、期待値が低下してきた理由の一端もここにある。

    しかし、近年の満足感の高さの背後にあるのは、このような成長率の変化だけではない。そこには人間関係の変化もある。そびえ立つ山を見上げながら登っていた時代には、明確な理想や目標を掲げやすかったが、高原を歩くようになった現在では、ただ闇雲に進んで行けるような行先を措定しづらい。それが人間関係のあり方に変化をもたらしているのである。

    明確な目標を掲げ、その頂上へ向かってひたすら山を登っている最中には、一緒に歩んでいる仲間がすぐ隣りにいたとしても、その視線はいっこうに気にならない。みながそろって眺めているのは山の頂だからである。

    しかし、その山を登りきって高原地帯へ足を踏み入れた途端、隣りを一緒に歩いている仲間の視線が気になり始める。周囲を見渡してこれからどこへ向かって歩めばよいのか分からなくなり、では隣りの人はいったいどこを見ているのか、どこへ進もうとしているのかと、互いに探り合うようになるからである。ここに、高原社会に特有の不安が生じてくる。その不安は、高原化がある程度進んだ後に誕生した若年層のほうが大きいと考えられる。

    近年、若年層の幸福感が増している大きな理由としてしばしば挙げられるのも、この世代で突出している人間関係の満足度の高さである。高原社会の訪れとともに、彼らの人間関係は、かつてほど組織や制度にきつく縛られなくなり、不本意な関係を強制されることが減ってきた。個人の好みに応じて自由なつながりを築きやすくなり、局面に応じてそれを切り替えることも容易になった。

    山頂を目指していた時代には、人間関係は固定的なほうが効率も良かったが、高原地帯を歩み始めると、人間関係は流動的であるほうが様々な状況に対処しやすい。近年のネット環境の急激な発達が、この傾向をさらに後押ししている面もある。

    このような人間関係の流動化にともなうその自由度の高まりが、生活満足度の上昇に寄与しているのは間違いない。しかしそれは同時に、人間関係がかつてより不安定で揺らぎやすいものになったことも意味している。

    組織や制度に縛られずに、付きあう相手を自由に選んでもよいという状況に置かれているのは、自分だけではなく相手もまた同様だからである。自分が相手を選ぶ自由の増大は、相手が自分を選んでくれないかもしれないリスクの増大と表裏一体である。そもそも人間関係への関心が高まっていることに加え、このようなリスク感覚の高まりもまた、現代に特有の不安に追い打ちをかけている。

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    内閉化する人間関係

    昨今の若者や子どもたちは、人間関係に対するこのような不安を少しでも減じようと、同質的な志向をもった仲間内だけで人間関係を狭く固く閉じようとする傾向を強めている。少なくとも表面的には、そのほうが人間関係は安定しやすいと感じられるからである。その結果、これほどネット環境が発達した時代であるにもかかわらず、いや、だからこそと言うべきか、調査データを見るかぎり、若年層の人たちが新しい友人と出会う場は狭く少なくなっている。

    社会学者の研究グループである青少年研究会が実施する「都市在住の若者の行動と意識調査」によると、友だちと知りあったきっかけとして、学外での出会いを挙げた10代の若者は、2002年より2012年のほうが少ない。友人と知りあった場所をすべて挙げてもらい、その数の平均値をとってみると、それもこの10年間で低下している。それだけ交友範囲が狭まってきているのである。

    もちろん、インターネットの普及で多種多様な人間がつながりあうことが容易になったのは事実である。ネットを利用して交友関係を広げている若者もたしかに存在する。YouTubeなどの動画投稿サイトで、世界へ向けて自己表現を試みる若者もしばしば見かけるようになった。しかし他方では、ネットがあるからこそ同質的な仲間どうしで固まり、時間と空間の制約を超えて、その同質的な仲間どうしでつながり続ける若者が増えているのも事実である。しかも数としては後者(同質な仲間でつながる若者たち)のほうが相対的に多い。

    ところが、こうして人間関係が内閉化していくと、異なった社会環境の人たちと自分を比較することが難しくなる。その結果、自分がたとえ劣悪な社会境遇に置かれていたとしても、その現状に対して、努力すれば報われる機会を社会的に剥奪された結果であると自覚しづらくなる。むしろ当人たちは、それを自分自身の至らなさゆえと捉えたり、宿命のようなものと考えたりするようになっていく。

    こうして期待値がさらに低下し、それが皮肉にも彼らの幸福感をさらに高めている。今日、とりわけ格差化が激しい若年層において、しかし満足度が非常に高いのは、このような比較対象の同質化も背景にあると思われる。

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    獲得属性と生得属性

    もっとも、現在の若者たちが彼らなりの居場所を確保し、そこで幸福感を感じとっているのなら、それはそれで結構なことではないかと考える人もいるかもしれない。しかし、現実はそう単純なものではない。

    現在の若者たちが閉じた世界を生き、その結果として自らの人生に過大な期待をかけなくなっているとしたら、彼らを取り巻く社会環境が悪化しても、生活への不満はたしかに募っていかないだろう。しかし、そうして期待値が低くなった分だけ、今度は自らの人生に対して宿命論的な見方が募っていきやすくもなる。親ガチャという言葉には、まさしくその心性が投影されているように思われる。

    各国の調査機関が参加して定期的に実施している「世界価値観調査」には、人生を自由に動かせると思う度合いを尋ねた項目がある。その日本のデータを見ると、1990年から2005年にかけては平均値が上昇していたことが分かる。しかし、2010年には大きく下降し、2019年にはやや持ち直したものの、2005年の値には戻っていない。年齢層別に見ると、高年層より若年層のほうが、残された人生が長い分だけ平均値は高いが、それでも経年変化は全体と同じ傾向を示している。この現象はいったい何を物語っているのだろうか。

    今日では、さまざまな局面で多様性が尊重されるようになり、かつてより自由な生き方を選択しやすくなった。にもかかわらず、人生は自由になるという感覚にブレーキがかかっているとすれば、近年の経済格差の拡大やその固定化が理由の一つと考えられるだろう。親ガチャという言葉が使われるようになった背景にもそれがあった。

    また同調査には、勤勉に働いても人生に成功するとは限らないと思うかと尋ねた項目もある。統計数理研究所の「日本人の国民性調査」と似た設問だが、日本のデータを見ると、そう思う人は2000年代に入ってから若年層を中心に急増している。裕福な家庭かどうかで受けられる教育は大きく違うため、それが自分の人生を左右すると考えてもおかしくはない。

    しかし、親ガチャという言葉の含意をここで再び想起してみたい。そこで嘆かれていたのは、人生の運不運ではなく、出生の運不運である。ガチャのレバーを引いた時点で結果はすでに出ている。これからの人生を運次第と捉えているわけではない。これから運不運が分かれるのではなく、もうすでに決定されていると感じられているのである。

    人生をすごろくに例えることは従来からあったが、親ガチャがそれと決定的に異なるのはこの点である。そこで問題視されているのは、これからの時間ではなく、これまでの時間である。換言すれば、「獲得属性」ではなく、「生得属性」に目が向けられているのである。

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    親ガチャの落とし穴

    学生たちの会話にしばらく耳を傾けていると、身長ガチャ、容姿ガチャ、顔面ガチャといった言葉も結構な頻度で聞こえてくる。いずれの言葉も、生まれもった身体特性を対象にしている点に共通性がある。

    じつは親ガチャにも似たような面があって、生まれた家庭が経済的に裕福かどうかだけではなく、頭の善し悪しや才能もそこには含まれている。それらを親からの遺伝で決まる生得的な資質と捉え、自分の人生を規定する大きな要因とみなしているのである。ここから推察されるのは、生まれつきの資質や属性によって人生は規定されると考える若者が増えているという事実である。

    これまで私たちは、自らの努力で獲得した能力を重視する社会を築いてきた。学歴を含めた資格が評価されてきたのも、その能力を証明するものだったからだろう。しかし生得的な属性からの解放は、いったい自分は何者なのかという不安をかき立てるようにもなった。

    とくに昨今では、能力や資格の評価基準も容易に移ろいやすく、自分を指し示す安定した物差しとはなりえなくなっている。社会の高原化にともない、明確で安定した実現目標を措定することが困難になったからである。だとすれば、評価の動揺しやすい社会的能力や資格よりも、むしろそれらを規定するとみなされる生得的な資質や属性に重きを置き、そこに自分の人生の拠り所を置こうとするようになってもおかしくはない。

    したがって、このような人生観は、現代社会の特徴の一つでもあるアイデンティティの揺らぎを少しでも抑え込みたいという願望の表われともいえる。生得的な属性は、改変が困難で固定性が強いがゆえに、見方によっては安定した基盤とも感じられやすい。人間関係を内閉化させることで、居場所の確保とその安定化を図ろうとする心性とまったく同じである。

    もちろん、そこに生育家庭の経済状態が影響していないわけではない。むしろ近年はその比重が高まっている。しかし、ここで留意すべきなのは、経済格差の固定化が進む中で、それもまた不変不動の生得属性の一部と捉えられがちになっているという事実である。

    本来、経済的な劣悪さは社会制度によって補正されるべきものである。しかし、遺伝的な資質と同じような生得属性の一部と思い込んでいくと、それを社会制度の設計ミスによるものとは考えづらくなってしまう。社会的な格差は深刻化しているにもかかわらず、その劣悪な社会環境に対して反旗を翻そうとすることもなく、ただ淡々とそれを受け入れていきがちになっている背景には、このような心性の広がりがあると考えられる。

    もちろん、現在の日本に山登りの時代を再び取り戻すことなどできるはずもない。高度成長期を憧れるような復古的な心性は、時代錯誤もはなはだしい。しかし社会の流動性が増し、ネット環境も充実した今日であれば、内閉化した人間関係を外に開いていくことは可能なはずである。社会制度のあり方に関心を寄せ、その改革を図る機運を高めるためには、まずそこから事態の改善を図っていくべきだろう。

    経済的な格差だけが問題なのではない。そもそも遺伝的な資質や才能とみなされるものですら、それを花開かせることができるか否かは、じつは生育環境のあり方に大きく左右される。すべてが生得属性で決まるわけではない。多種多様な他者との出会いの中でその本質に気づくことこそ、親ガチャに潜んだ落とし穴を回避するための有効な手立てになるのだと思う。

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