姜信子

水音に導かれ、あれもこれも、あまりに当たり前のことばかりを想いだすのである。たとえば、ほら、人は水がなければ生きてはいけないということ。水は水辺だけにあるのではなく、緑豊かな山があってこそ、山の奥の幻の湖があってこそ、澄んだ清水も湧き出づるのだということ。地の底にも川は流れているのだということ。地の底の川は青いのだろうか? そんなことを一生懸命に語り合うような心持ちがあらばこその、地の底の川なのだということ。地上の川にかけられた石橋の、石のぬくもりを感じる力があってこそ、川も山も守られるのだということ。

2 thoughts on “姜信子

  1. shinichi Post author

    KokosugiteMizunomichi『ここすぎて水の径』(石牟礼道子 弦書房)

    書評 by 姜信子

    週刊読書人 2015年11月27日号

    http://wild-krystall.jimdo.com/書評-姜信子

    読みながら、ずっと、さらさらと水の流れる音を聴いていたような気がする。あるいは、それは耳元で囁きかけるかのような石牟礼さんの語りの声か。

    水音に導かれ、あれもこれも、あまりに当たり前のことばかりを想いだすのである。たとえば、ほら、人は水がなければ生きてはいけないということ。水は水辺だけにあるのではなく、緑豊かな山があってこそ、山の奥の幻の湖があってこそ、澄んだ清水も湧き出づるのだということ。地の底にも川は流れているのだということ。地の底の川は青いのだろうか? そんなことを一生懸命に語り合うような心持ちがあらばこその、地の底の川なのだということ。地上の川にかけられた石橋の、石のぬくもりを感じる力があってこそ、川も山も守られるのだということ。

    石牟礼さんの語り伝えることには、水俣の水銀を封じ込めた海辺の埋め立て地の、地の底にも水は流れるのだそうだ、かつて渚だったその場所を海の潮が懐かしがって、そこに戻ろう、戻ろうとするのだそうだ、ぴたん、ぴたんと埋め立ての泥の下に音がするのだそうだ。

    きっと、人の命も魂も、水のように潮のようにひたひたと、戻ろう、戻ろうとするのではなかろうか、私たち自身が忘れ果てて久しい、生きとし生けるものたちの渚のほうへと。
    しかし、どうやって?

    目には見えぬ水脈をたどっていくんだよ。

    行間から呟くように石牟礼さんの声。

    石牟礼さんの語りの水脈は、水底に沈んだ村にもしんしんと浸みいってゆく。そこは三十余年前にダム建設のために水没した村で、それが日照りで水が消えたダム湖の底に泥まみれの姿を現したのだ。草木一本ない泥ばかりの腐臭漂う世界。そこに降り立つ石牟礼さんは、ダムの底に残っている魂を感じる、流れて忘れられてゆくばかりの大切なものを感じる、南無阿弥陀仏と思わず唱える、横たわる墓石たちを見る、赤んぼの墓碑に刻まれた一輪の蓮の花を見る、死者と語らう。死はもちろん人間だけのものではない。「草木虫魚万霊供養塔」と刻まれた墓石を見つける。すべての死せるものとの対話がはじまる。みずみずしくよみがえる世界がある。

    しかし、つくづくと思うのだ。本書には、一九九九三年春から二〇〇一年秋までの日々のエッセイ四七編が収められているのだが、暮らしの中からこぼれおちる水の滴のようなそのさりげない声、その飾りのない言葉には、恐ろしい予感がひたひたと……。そして、今、私たちは、二〇一一年を境にようやくのこと、近代の破綻をわがこととして感じはじめたようなのである。それは、予感を受け取りそこねつづけたわれらの、湖底の泥沼の世界のごとき「今」である。

    そんな泥沼にあってもなお、目には見えぬものたちとの対話があり、交感があるならば、まだ取り返しはつくのかもしれない。「前世も未来も、人はみな魂の灯りを連ねて、ゆき来して来たのだ」と石牟礼さんが語る、その連なりの灯りの一つを大切にわが身に宿すならば、そこに希望もほのかに灯るのだろう。

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  2. shinichi Post author

    Anjuu安住しない私たちの文化: 東アジア流浪

    by 姜信子

    (2002)

    居場所がない―韓国籍を持って日本で生まれ育ち、日本にも韓国にも収まりきらない自分がいる。東アジアに「近代」が到来して以来、人々は「国家」や「民族」という枠組みを強いられてきた。著者はいつしか、そうした枠組みからはじき出されて流浪した人々の声を聴き取り、彼らの記憶を追いはじめた。歌・映画・ヒーロー…人も大衆文化も旅をする。移動し、夢を呼びさまし、生きる力を送り合うことで豊かになる。開かれた新しい「物語/世界」の始まりは、そんな風景のなかにあるにちがいない。枠に縛られた想像力を解き放つと、世界はどれほど違って見えるか。私たちの可能性はどれだけ広がるか―。変わらない私たちが変わるための「東アジア文化論」。

    **

    樋口覚氏評

    http://www.shobunsha.co.jp/?p=1119

    近代が東アジアに到来して百数十年。人々は離散と移動をくりかえした。日本の歌謡曲のメロディが戦前のアジアで大ヒットしたように、大衆文化も民族や国の枠を超えて人々と共に旅をした。大衆文化を手掛かりにした、想像しない考えない私たちが世界の中で「変わる」ための近代史。「金子光晴の『万国放浪』の東アジア版」。

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