4 thoughts on “安政箇労痢流行記

  1. shinichi Post author

    天下大変-流行病

    50. 安政箇労痢流行記

    国立公文書館

    [請求番号 195-0364]

    http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/tenkataihen/epidemic/contents/50/index.html

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    安政2年の大地震、同3年の風水害に続いて、同5年(1858)、江戸の人々はコレラの猛威にさらされました。この年、長崎に始まったコレラの流行は、上方、東海道筋を経て7月に江戸に至り、8月に大流行したのです。これより前、文政5年(1822)にも西日本を中心にコレラの流行がありましたが、安政5年の流行の規模はこれをはるかにしのぐもので、江戸だけで約3万人の命が失われました。

    『安政箇労痢流行記』は別名『転寝の遊目(ころびねのゆめ)』。金屯道人(仮名垣魯文)編。安政5年刊。町ごとに50、60人から100余人の死者が出、火葬しきれない棺が山積みになった光景や、コレラは妖怪変化の仕業であるとして「狐狼狸(ころり)」と呼ばれ、様々な流言が生まれたことなど、あふれる病者と屍を前にパニックに陥った江戸の様子が、鮮やかな多色刷りの絵を添えて活写されています。江戸における病勢は9月に入って衰えましたが、コレラは各地で小さな流行を繰り返したのち、文久2年(1862)に再び流行しました。文久2年は、夏に麻疹が大流行したのち追い討ちを掛けるようにコレラが流行し、あわせて安政5年の数倍の死者が出たということです。

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  2. shinichi Post author

    1817年から1823年まで(第1回アジア型コレラの世界的大流行)
    1817年、カルカッタに起こった流行は、アジア全域からアフリカに達し、1823年まで続いた。その一部は日本にも及んでいる。
    日本で初めてコレラが発生したのは、1822年(文政5年)のことである。感染ルートは朝鮮半島あるいは琉球からと考えられているが、その経路は明らかでない。九州から始まって東海道に及んだものの、箱根を越えて江戸に達することはなかった。


    1826年から1837年まで(第2回アジア型コレラの世界的大流行)
    アジア・アフリカのみならずヨーロッパと南北アメリカにも広がり、全世界的規模となった。1831年、ドイツの哲学者ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルはコレラ禍のためにベルリンで死去しており、1832年にパリでコレラが流行した際には、辣腕政治家として知られたカジミル・ペリエ首相が死亡した。
    2回目の世界的流行時には日本は波及を免れた。


    1840年から1860年まで(第3回アジア型コレラの世界的大流行)
    3回目は再び日本に達し、1858年(安政5年)から3年にわたり大流行となった。
    1858年(安政5年)における流行では九州から始まって東海道に及んだものの、箱根を越えて江戸に達することはなかったという文献が多い一方、江戸だけで10万人が死亡したという文献も存在するが、後者の死者数については過大で信憑性を欠くという説もある。1862年(文久2年)には、残留していたコレラ菌により3回目の大流行が発生、56万人の患者が出た。この時も江戸には入らなかったという文献と、江戸だけでも7万3000人〜数十万人が死亡したという文献があるが、これも倒幕派が政情不安を煽って意図的に流した流言蜚語だったと見る史家が多い。
    1858年(安政5年)の流行は相次ぐ異国船来航と関係し、コレラは異国人がもたらした悪病であると信じられ、中部・関東では秩父の三峯神社や武蔵御嶽神社などニホンオオカミを眷属とし、憑き物落としの霊験を持つ眷属信仰が興隆した。眷属信仰の高まりは憑き物落としの呪具として用いられる狼遺骸の需要を高め、捕殺の増加はニホンオオカミ絶滅の一因になったとも考えられている。


    1863年から1879年まで(第4回アジア型コレラの世界的大流行)
    コレラが空気感染しないこと、そして幕府は箱根その他の関所で、旅人の動きを抑制することができたのが、江戸時代を通じてその防疫を容易にした最大の要因と考えられている。事実1868年(明治元年)に幕府が倒れ、明治政府が箱根関所を廃止すると、その後は2 – 3年間隔で数万人単位の患者を出す流行が続く。
    1879年(明治12年)には死者が10万人の大台を超えた。


    1881年から1896年まで(第5回アジア型コレラの世界的大流行)
    1886年(明治19年)には死者が10万人の大台を超え、日本各地に避病院の設置が進んだ。1890年(明治23年)には日本に寄港していたオスマン帝国の軍艦・エルトゥールル号の海軍乗員の多くがコレラに見舞われた。また1895年(明治28年)には軍隊内で流行し、死者4万人を記録している。


    1884年にはドイツの細菌学者ロベルト・コッホによってコレラ菌が発見され、医学の発展、防疫体制の強化などと共に、アジア型コレラの世界的流行は起こらなくなった。


    1899年から1923年まで(第6回アジア型コレラの世界的大流行)
    アジア南部ではコレラが常在し、なお流行が繰り返され、中国では1909年、1919年大流行があった。
    日本では状況が改善され、患者数も1万人を切ってコレラの脅威が収まるのは、1920年代になってからである。その後は、第二次世界大戦直後にアジア各地から日本軍復員兵や引揚者の帰国が始まると、彼らによって持ち込まれたコレラで、多数の死者を出した。


    それ以降
    1932年にも大流行があり、またインドでは1950年代まで持ち越し、いずれも万人単位の死者を出すほどであった。一方、エルトール型コレラは1906年にシナイ半島のエルトールで発見された。この流行は1961年から始まり、インドネシアを発端に、発展途上国を中心に世界的な広がりを見せており、1991年にはペルーで大流行が発生したほか、先進諸国でも散発的な発生が見られる。1992年に発見されたO139菌はインドとバングラデシュで流行しているが、世界規模の拡大は阻止されている。
    日本では、コレラ患者が出ると、検疫のために40日間沖に留め置かれる。この船を俗に「コレラ船」と呼び、これは当時の俳句や川柳で夏の季語にもなるほどだった。1960年代頃まで使われていた。

    1977年(昭和52年)には、和歌山県下で感染経路不明のエルトール型の集団発生があったほか、外国からの帰国者が発病する輸入感染症孤発例が時折見られる。1978年(昭和53年)以降、神奈川県の鶴見川をはじめ、埼玉県や千葉県の河川水からコレラ菌が検出される事例はあったが、発病者は生じていないという説もある。しかし、実際には、海外渡航歴のない人の国内感染事例が年間数事例から十事例報告されている。これらの中には、コレラ毒素(CT)産生Vibrio cholerae O1汚染食品からの感染とされた事例がある。

    2001年(平成13年)6月~7月に、東京都の隅田川周辺に居住し、日常の煮炊きを始め、生活用水として公園の身体障害者用トイレの水を利用し、隅田川で採れた亀を数人で調理して食用としていた路上生活者2名がコレラを発病し、2006年6月にも、路上生活者1名がコレラを発病した。いずれも感染経路は明確でない。

    2007年(平成19年)6月1日から施行された改正感染症法において、コレラは三類感染症に分類された(事実上の格下げ)。この変更に伴って、検疫法の対象病原体から除外され、空港・港湾検疫所では、病原コレラの検出そのものが行われなくなった。コレラ菌の感染症の統計は、医師(医療機関)のみに公開されている。

    ハイチでは、ハイチ地震 (2010年)以降、突然、コレラが流行して1万人以上が死亡した (ハイチのコレラ流行)。2016年12月1日、国際連合は地震後に支援にあたっていたネパールの平和維持活動部隊がコレラを持ち込んだことを認め謝罪した。

    2017年、モザンビークでは、3年連続でコレラの流行が深刻化なものとなった。2017年1月から3月の間に1,222人が感染、2人が死亡している。また同2017年、イエメンでは、政権側とイスラム教シーア派武装組織のフーシによる内乱が長期化し、国内の衛生状態が極端に悪化。国際連合児童基金への報告によればコレラの流行が深刻化し、同年5月前後の1カ月間に約7万件の感染、うち600人近くが死亡している。

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  3. shinichi Post author

    幕末の外国人襲撃・殺害事件: 24件。
     安政4(1857)年
       ハリス襲撃未遂事件。
     安政6(1859)年
       7月27日 ロシア海軍軍人殺害事件。
       10月11日 フランス領事館従僕殺害事件。
     安政7(1860)年 
       1月7日 日本人通訳殺害事件。
       1月8日 フランス公使館放火事件。
       2月5日 オランダ船長殺害事件。

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  4. shinichi Post author

    江戸の醜聞事件帖: 情死からクーデターまで

    by 中江克己

    進棺桶を作つても作つても追いつかず
    〈コ口リの大流行〉

    米国の駐日総領事ハリスが十三代将軍家定に謁見したのは安政四年(一八五七)十月二十一日。翌安政五年(一八五八)には、江戸でコロリ(コレラ)が大流行し、江戸庶民は右往左往した。

    この年の五月、まず長崎で発生。その後、九州、大坂、京都を経て、梅雨の季節には東海道一带を襲った。さらに七月末、江戸にもやってきたが、病名もわからない。

    この疫病にかかると、ころりと死ぬ、というので「コロリ」と呼ばれた。

    コロリは急速に広まり、人々が次々に死んでいくものだから、大騒ぎになった。江戸市中だけで、わずか二力月ほどのあいだに二万八千人の死者が出たという。

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