寺山修司

この七、八年の間「家」や「母親」「大学」そして、また「政治的国家」が余剰すぎたのかといえば、そうではない。むしろ、母親や家や大学、政治的国家といったものを必要とする思考が余剰すぎたのである。母親のいない少年の不幸はとるに足らないが、いない母親を必要とする青年の不幸は、かなり根深いものがある。保護の過剰によって失われてゆく魂のためには、自らが属してきた事象、アブリオリに存在していた家、親、時代といったものへの、きびしい検証がなされなければならないのは、自明の理である。

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  1. shinichi Post author

    ぼくが戦争に行くとき 反時代的な即興論文

    by 寺山修司

    寺山修司の軌跡
    たしろよしみ
    http://www.terayamaism.com/?p=518

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    ある家出少年への手紙

    少年時代の私は、ドイツ・ナチスの「われわれは海の乗り出す」という男声合唱が好きであった。海岸で生まれ、海と共に育った私が、現実の海にはさほど興味を持たずに「海」という言葉、海を主題としたさまざまな観念、詩、音楽にのみ心を奪われたのは、世界には「もう一つの海」があることを予感していたからにほかならないだろう。
    青年になることは、いわば事物間の航海者になることであり、書物と現実とによって引き裂かれた海をさまよう、「時」のオデッセーになることを意味していたのである。
    私は、なにもかもが余剰な時代に生きている、という実感をいだいている。それは戦後の「不足の時代」の神話の幻影にまどわされて見落としがちだが、たしかな現実である。一九六〇年代の後半、わが国には生も死も、そして政治も詩も余剰にすぎるのだ。
    ボードレールは「数の増大は陶酔につながる」と書いたが、いかにもこの時代を支配しているのは、足もとの不確かな陶酔であって、きびしい航海者の孤独ではない。情報社会の発達は、ますます事物の多産化をうながし、陶酔と余剰の時代に私たちを引きずり込もうとするだろう。
    この七、八年のあいだ、私はこうした余剰の怒濤から身を守るために、多くのものを捨てることについて書き続けてきた。ある年、私は「家でのすすめ」「母を捨てよう」と書き、またある年、「書を捨てよ、町へ出よう」と書いた。そして、いまは「大学を捨てよう」と書いている。だからといって、この七、八年の間「家」や「母親」「大学」そして、また「政治的国家」が余剰すぎたのかといえば、そうではない。むしろ、母親や家や大学、政治的国家といったものを必要とする思考が余剰すぎたのである。母親のいない少年の不幸はとるに足らないが、いない母親を必要とする青年の不幸は、かなり根深いものがある。保護の過剰によって失われてゆく魂のためには、自らが属してきた事象、アブリオリに存在していた家、親、時代といったものへの、きびしい検証がなされなければならないのは、自明の理である。
    こんなに世の中が波乱万丈でおもしろいのに、そのうえ、まだ演劇などをしようとするのはなぜか?と問われることがある。大学闘争、ベトナム戦争、沖縄、安保と、たしかに時代は倒錯していて、そこから新しいものが生まれかけようとするためのたかまりは見られる。新聞をひらけば、犯罪と真実、詩と暗黒の「劇」が氾濫している。
    そのうえまだ、商業演劇からアンダーグラウンドの小劇場にいたるまで「劇」が増殖してゆき、劇余剰の時代を特色つけてゆこうとするのは、いささか奇異のそしりは免れられないだろう。だが、虚構はたやすく見いだされるが、真に「劇的なるもの」は見いだされ難いというのが、またこの時代の特色の一つになっている。劇はあるが、劇的なものはない。劇場の幕はあがり、ステージには「から騒ぎ」が始まるのだが、それは最初から一つの決定論に向かうべく準備された(つまり、必然性という名の、反青年的迷妄にささえられた劇)にすぎない。いまさら、どうしてそんなものに血をわかすことなど出来ようか。
    劇とは、作者の内部での「内的な同一性を外的に表現するための対立」にすぎず、観客の側から見れば、事物の物理学を出ぬことが多い。だが、その事物の物理的な関係をメロドラマにまで止揚してゆく「劇的」想像性こそは青年の特性である。青年は、劇中人物ではなくて、常に劇的人物になることが出来る。
    そこには、あらかじめ準備された決定論との葛藤を生み出し、自己の存在を偶然的なるものと認識することで、事物との「出会い」をきびしく見つめる力がある。劇場の内であると外であるとを問わず、私たちはいつでも「劇的なる」空間をつかさどることができるのである。
    たかがお芝居で、時代と正面切って向き合えるものではない。歴史における個人の役割もまた、必然性と宿命論とのあいだの往復運動にすぎないあいだは、変革する力を持つことなど出来ないであろう。
    線路に父の位牌をたたきつけ、蝉しぐれの田園にたった一人の母を「見殺しにしてきた」家出少年のRよ。ただ、母を捨てるだけのことならば、それはだれにも出来るのだ。その捨てた母と自分との劇を「劇的なる」空間のなかでとらえ直し、母殺しを思想化し得た時に、初めて君は醒めて歌う列に加わることが出来るだろう。数の増大のなかで酔って歌うのは、だれにでもできる。だが、屹立し、醒めて歌うことが君にも出来るか?仏壇のある暗い「家」、せむしの母、遺伝の歴史学といったものから、自分を切り離してしまうことで解放されたと思うのではなく、しかし心は時速百キロで、それを超えてゆこうとするむなしいあがきのなかに、君の「家出」の真実が見いだされるべきなのだ。君はよくフォーク・クルセダーズの「青年は荒野をめざす」という歌を歌っている。
    だが、荒野はマカロニ・ウエスタンのスクリーンのように「ここよりほかの土地」に果てしなくひろがっているのではない。ああ、荒野!薄よごれた四畳半のアパート、君の毎日けいこしている「天井桟敷」の地下劇場、そしてまた読みさしの書物のページ。そして捨ててきた遠くの母親のイメージ、そういったものの総体としてある、君の魂のゴミタメのなかにしか荒野は見いだされないのだということを、君は知っているだろうか、どうか?

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