shinichi Post author25/10/2018 at 6:20 pm (p.138-139) 肉体労働をやってみて思ったのは、これは体というよりも感覚を、あるいは時間を売る仕事だな、ということだった。決められた時間に現場に入り、単純な重労働を我慢してやっていれば、そのうち五時になって一日の仕事は終わる。その間、八時間なら八時間のあいだずっと、私という意識は、暑いという感覚、重いという感覚、疲れたという感覚を感じ続けることになる。現場監督に怒鳴られたり、あるいは逆に自分より新しく入った役立たずの新人を怒鳴ったりして、感情的な起伏を経験することもあるが、基本的には、仕事時間のあいだずっと、重い、とか、寒い、とか、辛い、という感覚を感じ続けるのである。 こうした「身体的な感覚を、一定時間のあいだ中ずっと感じ続けること」が、日雇いの肉体労働の本質だな、と、自分でやってみて思った。脳のなかで、意識のなかでずっと重い、寒い、痛い、辛いと感じ続けることが仕事なのだ。それを誰か他人に押し付けることはできない。そのかわりに金をもらうのである。 この「決められた時間のあいだ、ある感覚を感じ続けることに耐え、その引き換えにいくらかの金をもらう」ということは、セックス・ワーカーにも共通することかもしれない。 こうした感覚は、もちろん純粋に苦痛であるだけではない。そこに快楽が生じる可能性さえあるだろう。だが、それにしても、それ相応の対価に値するものであることは間違いがない。そして、そのように考えると、肉体を売る商売とは、感覚を売る仕事であり、そして、感覚を売る仕事とは、「その感覚を意識の内部で感じ続ける時間」を売る仕事でもあるかもしれない、と思う。 時間が流れることが苦痛である、ということを、より直接的に感じたのは、ある工場で流れ作業の仕事をしたときである。・・・ ・・・ 一日しか続かなかった。給料はもらっていない。 Reply ↓
shinichi Post author25/10/2018 at 6:27 pm (p.141) 苦痛をはじめとして、匂い、味、舌触りや手触りなどの感覚を感じるということは、ようするにこの私が時間の流れのなかにあることをふたたび(嫌でも)思い出させられるということである。たとえば痛みというものは、その原因が取り除かれない限り、途中でなくなったり、別のものに変わったり、意志によってそれを操作できるようになったりしない。私たちは痛いとき、常にずっと痛いのである。痛みに耐えているとき、私の脳は痛みとともにある。いやむしろ、痛みのなかにあり、痛みそのものである。私の脳が痛みを「感じている」という言い方にはどこか間違いがある。痛いとき、私たちは痛みを感じているのではなく、「ただ痛い」のである。 そして、痛みに耐えているとき、人は孤独である。どんなに愛し合っている恋人でも、どんなに仲の良い友人でも、私たちが感じている激しい痛みを脳から取り出して手渡しすることはできない。私たちの脳のなかにやってきて、それが感じている痛みを一緒になって感じてくれる人は、どこにもいないのである。 Reply ↓
shinichi Post author25/10/2018 at 6:29 pm (p.127) 全身を揉まれながら私が感じるのは、この私の身体の境界線である。マッサージというものは、外部の世界とこの私とのあいだにある「国境」を確定し、再確認する作業であると思う。頭の上からつま先まで、満遍なく人の手によって揉まれながら、私は私の身体の大きさや、形や、温度や、固さを感じる。それは自分ひとりの手によっては感じることができない。その作業にはどうしても他人の手が必要なのだ。 Reply ↓
shinichi Post author25/10/2018 at 6:30 pm (p.134) 私たちは孤独である。脳の中では、私たちは特に孤独だ。どんなに愛し合っている恋人でも、どんなに仲の良い友人でも、脳の中までは遊びにきてくれない。 Reply ↓
shinichi Post author25/10/2018 at 6:39 pm (p.80) 居場所が問題になるときは、かならずそれが失われたか、手に入れられないかのどちらかのときで、だから居場所はつねに必ず、否定的なかたちでしか存在しない。 Reply ↓
shinichi Post author25/10/2018 at 6:45 pm (p.240-241) いま、世界から、どんどん寛容さや多様性が失われています。私たちの社会も、ますます排他的に、狭量に、息苦しいものになっています。この社会は、失敗や、不幸や、ひとと違うことを許さない社会です。私たちは失敗することもできませんし、不幸でいることも許されません。いつも前向きに、自分ひとりの力で、誰にも頼らずに生きていくことを迫られています。 私たちは、無理強いされたわずかな選択肢から何かを選んだというだけで、自分でそれを選んだのだから自分で責任を取りなさい、と言われます。これはとてもしんどい社会だと思います。 こういうときにたとえば、仲のよい友だちの存在は、とても助けになります。でもいまは、友だちをつくるのがとても難しくなりました。不思議なことに、この社会では、ひとを尊重するということと、ひとと距離を置くということが、一緒になっています。だれか他のひとを大切にしようと思ったときに、私たちはまず何をするかというと、そっとしておく、ほっておく、距離を取る、ということをしてしまいます。 このことは、とても奇妙なことです。ひとを理解することも、自分が理解されることもあきらめる、ということが、お互いを尊重することであるかのようにいわれているのです。 でも、たしかに一方で、ひとを安易に理解しようとすることは、ひとのなかに土足で踏み込むようなことでもあります。 Reply ↓
shinichi Post author25/10/2018 at 6:48 pm (p.115-116) だが、私はここから本当にわからなくなる。私たちは「実際に」どれくらい個性的であるだろうか。私たちは本当に、社会的に共有された規範の暴力をすべてはねのけることができるほどの、しっかりとした「自分」というものを持っているだろうか。 むしろ私たちは、それほど個性的な服を着ることよりも、普通にきれいでかわいい服を着て、普通にきれいでかわいいねと、みんなから言われたいのではないだろうか。個性的であるということは孤独なことだ。私たちはその孤独に耐えることができるだろうか。 そもそも幸せというものは、もっとありきたりな、つまらないものなのではないだろうか。 Reply ↓
shinichi Post author25/10/2018 at 6:50 pm (p.241) でも、たしかに一方で、ひとを安易に理解しようとすることは、ひとのなかに土足で踏み込むようなことでもあります。 そもそも、私たちは、本来的にとても孤独な存在です。言葉にすると当たり前すぎるのですが、それでも私にとっては小さいころからの大きな謎なのですが、私たちは、これだけ多くの人に囲まれて暮らしているのに、脳の中では誰もがひとりきりなのです。 私たちは生まれつきとても孤独だということ。だからこそ、もう少し面と向かって話をしてもよいのではないか、ということ。こんなことをゆっくり考えているうちに、この本ができました。 とらえどころもなく、はっきりとした答えもない、あやふやな本ですが、お手にとっていただければ幸いです。 Reply ↓
断片的なものの社会学
by 岸政彦
(p.141)
(p.138-139)
肉体労働をやってみて思ったのは、これは体というよりも感覚を、あるいは時間を売る仕事だな、ということだった。決められた時間に現場に入り、単純な重労働を我慢してやっていれば、そのうち五時になって一日の仕事は終わる。その間、八時間なら八時間のあいだずっと、私という意識は、暑いという感覚、重いという感覚、疲れたという感覚を感じ続けることになる。現場監督に怒鳴られたり、あるいは逆に自分より新しく入った役立たずの新人を怒鳴ったりして、感情的な起伏を経験することもあるが、基本的には、仕事時間のあいだずっと、重い、とか、寒い、とか、辛い、という感覚を感じ続けるのである。
こうした「身体的な感覚を、一定時間のあいだ中ずっと感じ続けること」が、日雇いの肉体労働の本質だな、と、自分でやってみて思った。脳のなかで、意識のなかでずっと重い、寒い、痛い、辛いと感じ続けることが仕事なのだ。それを誰か他人に押し付けることはできない。そのかわりに金をもらうのである。
この「決められた時間のあいだ、ある感覚を感じ続けることに耐え、その引き換えにいくらかの金をもらう」ということは、セックス・ワーカーにも共通することかもしれない。
こうした感覚は、もちろん純粋に苦痛であるだけではない。そこに快楽が生じる可能性さえあるだろう。だが、それにしても、それ相応の対価に値するものであることは間違いがない。そして、そのように考えると、肉体を売る商売とは、感覚を売る仕事であり、そして、感覚を売る仕事とは、「その感覚を意識の内部で感じ続ける時間」を売る仕事でもあるかもしれない、と思う。
時間が流れることが苦痛である、ということを、より直接的に感じたのは、ある工場で流れ作業の仕事をしたときである。・・・
・・・
一日しか続かなかった。給料はもらっていない。
(p.141)
苦痛をはじめとして、匂い、味、舌触りや手触りなどの感覚を感じるということは、ようするにこの私が時間の流れのなかにあることをふたたび(嫌でも)思い出させられるということである。たとえば痛みというものは、その原因が取り除かれない限り、途中でなくなったり、別のものに変わったり、意志によってそれを操作できるようになったりしない。私たちは痛いとき、常にずっと痛いのである。痛みに耐えているとき、私の脳は痛みとともにある。いやむしろ、痛みのなかにあり、痛みそのものである。私の脳が痛みを「感じている」という言い方にはどこか間違いがある。痛いとき、私たちは痛みを感じているのではなく、「ただ痛い」のである。
そして、痛みに耐えているとき、人は孤独である。どんなに愛し合っている恋人でも、どんなに仲の良い友人でも、私たちが感じている激しい痛みを脳から取り出して手渡しすることはできない。私たちの脳のなかにやってきて、それが感じている痛みを一緒になって感じてくれる人は、どこにもいないのである。
(p.127)
全身を揉まれながら私が感じるのは、この私の身体の境界線である。マッサージというものは、外部の世界とこの私とのあいだにある「国境」を確定し、再確認する作業であると思う。頭の上からつま先まで、満遍なく人の手によって揉まれながら、私は私の身体の大きさや、形や、温度や、固さを感じる。それは自分ひとりの手によっては感じることができない。その作業にはどうしても他人の手が必要なのだ。
(p.134)
私たちは孤独である。脳の中では、私たちは特に孤独だ。どんなに愛し合っている恋人でも、どんなに仲の良い友人でも、脳の中までは遊びにきてくれない。
(p.80)
居場所が問題になるときは、かならずそれが失われたか、手に入れられないかのどちらかのときで、だから居場所はつねに必ず、否定的なかたちでしか存在しない。
(p.240-241)
いま、世界から、どんどん寛容さや多様性が失われています。私たちの社会も、ますます排他的に、狭量に、息苦しいものになっています。この社会は、失敗や、不幸や、ひとと違うことを許さない社会です。私たちは失敗することもできませんし、不幸でいることも許されません。いつも前向きに、自分ひとりの力で、誰にも頼らずに生きていくことを迫られています。
私たちは、無理強いされたわずかな選択肢から何かを選んだというだけで、自分でそれを選んだのだから自分で責任を取りなさい、と言われます。これはとてもしんどい社会だと思います。
こういうときにたとえば、仲のよい友だちの存在は、とても助けになります。でもいまは、友だちをつくるのがとても難しくなりました。不思議なことに、この社会では、ひとを尊重するということと、ひとと距離を置くということが、一緒になっています。だれか他のひとを大切にしようと思ったときに、私たちはまず何をするかというと、そっとしておく、ほっておく、距離を取る、ということをしてしまいます。
このことは、とても奇妙なことです。ひとを理解することも、自分が理解されることもあきらめる、ということが、お互いを尊重することであるかのようにいわれているのです。
でも、たしかに一方で、ひとを安易に理解しようとすることは、ひとのなかに土足で踏み込むようなことでもあります。
(p.115-116)
だが、私はここから本当にわからなくなる。私たちは「実際に」どれくらい個性的であるだろうか。私たちは本当に、社会的に共有された規範の暴力をすべてはねのけることができるほどの、しっかりとした「自分」というものを持っているだろうか。
むしろ私たちは、それほど個性的な服を着ることよりも、普通にきれいでかわいい服を着て、普通にきれいでかわいいねと、みんなから言われたいのではないだろうか。個性的であるということは孤独なことだ。私たちはその孤独に耐えることができるだろうか。
そもそも幸せというものは、もっとありきたりな、つまらないものなのではないだろうか。
(p.241)
でも、たしかに一方で、ひとを安易に理解しようとすることは、ひとのなかに土足で踏み込むようなことでもあります。
そもそも、私たちは、本来的にとても孤独な存在です。言葉にすると当たり前すぎるのですが、それでも私にとっては小さいころからの大きな謎なのですが、私たちは、これだけ多くの人に囲まれて暮らしているのに、脳の中では誰もがひとりきりなのです。
私たちは生まれつきとても孤独だということ。だからこそ、もう少し面と向かって話をしてもよいのではないか、ということ。こんなことをゆっくり考えているうちに、この本ができました。
とらえどころもなく、はっきりとした答えもない、あやふやな本ですが、お手にとっていただければ幸いです。