現在の竹島は、かつて「松島」と呼ばれていた。そして鬱陵島が「竹島」と呼ばれていた。
17世紀初頭、米子の町人大谷甚吉と村川市兵衛が幕府から「竹島」への渡海免許を受けて以降、両家は交替で毎年1回島へ渡航し、あわびの採取やあしかの捕獲、そして竹などの樹木の伐採等に従事した。この際、「松島」は、「竹島」に渡る船がかり及び魚採地として利用されており、我が国は、遅くとも17世紀半ばには、竹島の領有権を確立していた。
1692年に村川家が、翌年に大谷家が鬱陵島に行くと、多数の朝鮮人が鬱陵島で漁採に従事していた。これを機に、日本と朝鮮の政府間で鬱陵島の領有権をめぐる交渉が開始され、最終的に幕府は1696年1月、鬱陵島への渡海を禁止した。
1946年、連合国総司令部覚書により、竹島は日本が政治上又は行政上の権力を停止すべき特定地域の一つとされ、また日本漁船の操業区域外の地域として指定された。
1951年9月に署名されたサンフランシスコ平和条約は、日本による朝鮮の独立承認を規定するとともに、日本が放棄すべき地域として「済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」と規定した。
1952年1月、李承晩韓国大統領は「李承晩ライン」を一方的に設定し、そのライン内に竹島を取り込んだ。1954年6月、韓国は、駐留部隊を竹島に派遣した旨の発表を行い、それ以降、韓国は、警備隊員を常駐させている。
竹島問題の概要
日本国外務省
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/gaiyo.html
1.竹島の認知
現在の竹島は、我が国ではかつて「松島」と呼ばれていました。そして竹島の西北西約92キロメートル先にある鬱陵島が「竹島」や「磯竹島」と呼ばれていました。竹島や鬱陵島の名称については、ヨーロッパの探検家等による鬱陵島の測位の誤りにより一時的な混乱があったものの、我が国が「松島」と「竹島」の存在を古くから認知していたことは各種の地図や文献からも確認できます。例えば、経緯線を投影した刊行日本図として最も代表的な長久保赤水(ながくぼせきすい)の「改正日本輿地路程(よちろてい)全図」(1779年初版)ほか、竹島と鬱陵島を朝鮮半島と隠岐諸島との間に的確に記載している地図は多数存在します。これに対し、韓国が古くから竹島を認識していたという根拠はありません。
2.竹島の領有
我が国は、江戸時代初めの17世紀初頭、鳥取藩伯耆国米子の町人大谷甚吉、村川市兵衛が、同藩主を通じて幕府から鬱陵島(当時の「竹島」)への渡海免許を受けて以降、両家は交替で毎年1回鬱陵島へ渡航し、あわびの採取やあしかの捕獲、そして竹などの樹木の伐採等に従事しました。この際、竹島は、鬱陵島に渡る船がかり及び魚採地として利用されており、我が国は、遅くとも江戸時代初期にあたる17世紀半ばには、竹島の領有権を確立していました。
3.鬱陵島への渡海禁止
大谷・村川両家による鬱陵島での事業は約70年間平穏に続けられていました。しかし、1692年に村川家が、1693年に大谷家が鬱陵島に出向くと、多数の朝鮮人が鬱陵島において漁採に従事しているのに遭遇しました。これを契機に、日本と朝鮮の政府間で鬱陵島の領有権をめぐる交渉が開始されましたが、最終的に幕府は1696年1月、鬱陵島への渡海を禁止することとしました。(いわゆる「竹島一件」)。ただし、竹島への渡航は禁じませんでした。このことからも、当時から我が国が竹島を自国の領土だと考えていたことは明らかです。
4.竹島の島根県編入
今日の竹島において、あしかの捕獲が本格的に行われるようになったのは、1900年代初期のことでした。しかし、間もなくあしかの捕獲は過当競争の状態となったことから、島根県隠岐島民の中井養三郎は、その事業の安定を図るため、1904(明治37)年9月、内務・外務・農商務三大臣に対して「りやんこ島」(注)の領土編入及び10年間の貸し下げを願い出ました。これを受けた政府は、島根県の意見を聴取しつつ、1905(明治38)年の閣議決定をもって竹島を島根県に編入し、竹島を領有する意思を再確認しました。
(注)「りやんこ島」は、竹島の洋名「リアンクール島」の俗称。当時、ヨーロッパの探検家の測量の誤りなどにより、鬱陵島が従来の「竹島」に加え「松島」とも呼ばれるようになり、現在の竹島は 従来の「松島」とともに「りやんこ島」と呼ばれるようになっていました。
5.第二次大戦直後の竹島
我が国が占領下にあった1946(昭和21)年、連合国総司令部より発せられた連合国総司令部覚書(SCAPIN)第677号により、竹島は、日本が政治上又は行政上の権力を停止すべき特定地域の一つとされ、また、連合国総司令部覚書(SCAPIN)第1033号により、竹島は、日本漁船の操業区域外の地域として指定されました。しかし、これら連合国総司令部覚書の文中には、いずれも領土帰属の最終的決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならないことが明記されています。また、我が国の領土を確立したサンフランシスコ平和条約が発効する以前の竹島の扱いにより、竹島の帰属の問題が影響を受けるということはないのは明らかです。
6.サンフランシスコ平和条約起草過程における竹島の扱い
1951(昭和26)年9月に署名されたサンフランシスコ平和条約は、日本による朝鮮の独立承認を規定するとともに、日本が放棄すべき地域として「済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」と規定しました。この部分に関する米英両国による草案内容を承知した韓国は、米国に対し、日本が権利、権原及び請求権を放棄する地域の一つに竹島を加えるよう要望しました。これに対し米国は、かつて竹島は朝鮮の領土として扱われたことはなく、また朝鮮によって領有権の主張がなされたとは見られない旨回答し、韓国側の主張を明確に否定しました。このやりとりを踏まえれば、竹島は日本の領土であるということが肯定されていることは明らかです。
7.米軍の爆撃訓練区域としての竹島
米軍は、連合国総司令部覚書(SCAPIN)第2160号をもって1951(昭和26)年7月以来竹島を海上爆撃訓練区域として使用していましたが、1952(昭和27)年7月、米軍が引き続きその使用を希望したのを受け、日米行政協定に基づき同協定の実施に関する日米間の協議機関として設立された合同委員会は、竹島を米軍の爆撃訓練区域に指定しました。同協定では、合同委員会は「日本国内の施設又は区域を決定する協議機関」としての任務を行うとされていますが、竹島が合同委員会で協議され、かつ在日米軍の使用する区域としての決定を受けたということは、とりも直さず竹島が日本の領土であることを示しています。
8.「李承晩ライン」の設定と韓国による竹島の不法占拠
1952(昭和27)年1月、李承晩韓国大統領は「海洋主権宣言」を行い、いわゆる「李承晩ライン」を国際法に反して一方的に設定して、そのライン内に竹島を取り込みました。1953(昭和28)年7月には海上保安庁の巡視船が、韓国漁民を援護していた韓国官憲から銃撃を受ける事件も発生、1954年(昭和29)6月、韓国内務部は、韓国沿岸警備隊が駐留部隊を竹島に派遣した旨の発表を行いました。これ以降、韓国は、引き続き警備隊員を常駐させるとともに、宿舎や監視所、灯台、接岸施設等を構築しています。
韓国による竹島の占拠は、国際法上何ら根拠がないまま行われている不法占拠であり、韓国がこのような不法占拠に基づいて竹島に対して行ういかなる措置も法的な正当性を有するものではありません。このような行為は、竹島の領有権をめぐる我が国の立場に照らして決して容認できるものではなく、竹島をめぐり韓国側が何らかの措置等を行うごとに厳重な抗議を重ねるとともに、その撤回を求めてきています。
9.国際司法裁判所への提訴の提案
我が国は、韓国による「李承晩ライン」の設定以降、韓国側が行う竹島の領有権の主張、漁業従事、巡視船に対する射撃、構築物の設置等につき、累次にわたり抗議を積み重ねました。そして、この問題の平和的手段による解決を図るべく、1954(昭和29)年9月、口上書をもって竹島の領有権問題を国際司法裁判所に付託することを韓国側に提案しましたが、同年10月、韓国はこの提案を拒否しました。また、1962(昭和37)年3月の日韓外相会談の際にも、小坂善太郎外務大臣より崔徳新韓国外務部長官に対し、本件問題を国際司法裁判所に付託することを提案しましたが、韓国はこれを受け入れず、現在に至っています。