shinichi Post author09/10/2012 at 12:07 pm http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A2%E5%B1%B1%E4%BD%90%E6%B8%A1 戊辰戦争においては藩を奥羽越列藩同盟に同盟させた主導者となり、秋田戦争において指導的な立場にあったが、戦後は敗戦の責を負い、明治2年6月23日、盛岡・報恩寺において刎首された。介錯は、楢山佐渡の教えを受けた「戸田一心流」皆伝者・江釣子源吉が執行したという。享年39。 Reply ↓
shinichi Post author09/10/2012 at 12:07 pm 楢山佐渡は、盛岡藩主南部氏の一門で家老職を務める家柄であった楢山家に生まれ、22歳で家老になるが、嘉永6年(1853年)、総勢3万5千人とも言われる江戸時代最大規模の一揆である三閉伊一揆が起きる。楢山佐渡は当時隠居として藩政の実権を握る利済に諫言したため一度罷免されるが、江戸幕府老中の阿部正弘の計らいで再勤し、最終的には仙台藩とうまく交渉をして、一揆をとりまとめることに成功する。佐渡は仙台藩に幕府への届出を猶予してもらうよう願い出る使者を発し、日本史に残る農民運動となった一揆も終止符を打ち、楢山佐渡は盛岡藩の危機を救った。ただ、このために楢山佐渡は仙台藩に借りができたと見る人もいる。 一方で、一揆側の要求の一つであった先代藩主の利義の復帰及び帰国を退けたので、利済の傀儡として立てられた藩主の利剛は楢山に借りが出来ることになる。 一揆騒動後に主席家老として、藩財政の建て直しはじめ制度改革を行なうが穏健派であり、人員削減などの急激な改革を行う改革急進派の家老東政図(中務)と対立した。その急進的な施策により最終的には東は失脚する。 1868年京都御所警備のために鳥羽・伏見の戦いが終わった直後の京都に赴任する。京都滞在中、西郷隆盛や岩倉具視、桂小五郎ら新政府側の人々と接触する。新政府側の意見のばらつきを感じ、また、西郷隆盛と接触した際には下級武士と車座になり上下の差別無く食事をとる様子を見て、新政府になった際の自分の立場に危機感を覚える。このため、新政府と対抗する意志を固め奥羽越列藩同盟への加盟を決意したとも言われる。 これに異をとなえたのが、御用人の目時隆之進と目付役の中嶋源蔵だった。彼らは何度か佐渡と膝を交えて討論をしたが、ついにその意見が入れられないと悟ると、目時は長州藩邸へ走った。また同盟に断固反対の立場を取った中嶋を、楢山らは奸臣と呼んだ。中嶋は自身の死をもって楢山をいさめようと切腹をする。中嶋の行動も空しく、楢山は新政府に対抗する道を選んだ。 楢山は6月、海路帰国の途につき仙台に上陸する。大部分の随行者は、そのまま盛岡に直行させ自らは仙台藩家老、但木土佐と会見した。「奥羽同盟の一角すでに崩れたが、我々は一蓮托生…」と互いの決意を確かめ合って帰途についたと伝えられている。元々盛岡藩と仙台藩は仲が良いわけではなく、この行為を楢山の伊一揆での「借り」を返す行為だと見なす者もいる。 盛岡藩内部でも勤王思想が強い者が多かった。藩の大評定で遠野南部家は強硬に新政府側につくことを主張した。また、八戸南部家も勤王思想が強く、密かに秋田藩と通じており、両藩とも戦闘に参加していない。また、謹慎中の東政図は奥羽列藩同盟に最も強く反対をした。 楢山佐渡は帰国後、これら藩内の反対派を押さえ、藩論を奥羽列藩同盟への参加継続で一致させた。 奥羽列藩同盟から離脱し新政府側についた秋田藩を攻めた秋田戦争では、楢山佐渡は勇ましく盛岡藩兵の総指揮をとった。大館城を落城させ、久保田城を目指した楢山佐渡だが、要衝のきみまち阪で最新のアームストロング砲で武装し、西洋式の訓練を受けた佐賀藩兵らの到着により、状況は一変する。藩境まで押し返され、そこで膠着状態になるが、次々に奥羽列藩同盟の同盟藩が離脱する状況に、ついに盛岡藩も降伏を選択した。 南部兵は、撤退の際に秋田藩の各地の集落を焼き討ちにしている。このため、これらの地区では盛岡藩や楢山佐渡に対する恨みが明治後期まで残っていたと言われる。 奥羽越列藩同盟を組んだ各藩は責を問われ、藩主に代わり、仙台藩家老の但木土佐、会津藩家老の萱野権兵衛も同様に刎首された。 奥羽越列藩同盟という仙台藩中心の組織を早期に見切り、途中から官軍に参加した秋田藩、津軽藩が論功行賞を受ける一方で、盛岡藩は白石への減転封を課せられるなど、後世にわたって長く苦難の道を歩んだ。 1889年(明治22年)に家名復興。1917年(大正6年)9月8日、盛岡において戊辰戦争殉難者50年祭が開かれた。楢山佐渡と同様に盛岡藩家老の家に生まれた政友会総裁・原敬は祭主として列席し、「戊辰戦役は政見の異同のみ」とした祭文を読み上げ、盛岡藩とそれに関わる賊軍・朝敵の汚名に対し抗議の意を示した。 Reply ↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A2%E5%B1%B1%E4%BD%90%E6%B8%A1
戊辰戦争においては藩を奥羽越列藩同盟に同盟させた主導者となり、秋田戦争において指導的な立場にあったが、戦後は敗戦の責を負い、明治2年6月23日、盛岡・報恩寺において刎首された。介錯は、楢山佐渡の教えを受けた「戸田一心流」皆伝者・江釣子源吉が執行したという。享年39。
楢山佐渡は、盛岡藩主南部氏の一門で家老職を務める家柄であった楢山家に生まれ、22歳で家老になるが、嘉永6年(1853年)、総勢3万5千人とも言われる江戸時代最大規模の一揆である三閉伊一揆が起きる。楢山佐渡は当時隠居として藩政の実権を握る利済に諫言したため一度罷免されるが、江戸幕府老中の阿部正弘の計らいで再勤し、最終的には仙台藩とうまく交渉をして、一揆をとりまとめることに成功する。佐渡は仙台藩に幕府への届出を猶予してもらうよう願い出る使者を発し、日本史に残る農民運動となった一揆も終止符を打ち、楢山佐渡は盛岡藩の危機を救った。ただ、このために楢山佐渡は仙台藩に借りができたと見る人もいる。
一方で、一揆側の要求の一つであった先代藩主の利義の復帰及び帰国を退けたので、利済の傀儡として立てられた藩主の利剛は楢山に借りが出来ることになる。
一揆騒動後に主席家老として、藩財政の建て直しはじめ制度改革を行なうが穏健派であり、人員削減などの急激な改革を行う改革急進派の家老東政図(中務)と対立した。その急進的な施策により最終的には東は失脚する。
1868年京都御所警備のために鳥羽・伏見の戦いが終わった直後の京都に赴任する。京都滞在中、西郷隆盛や岩倉具視、桂小五郎ら新政府側の人々と接触する。新政府側の意見のばらつきを感じ、また、西郷隆盛と接触した際には下級武士と車座になり上下の差別無く食事をとる様子を見て、新政府になった際の自分の立場に危機感を覚える。このため、新政府と対抗する意志を固め奥羽越列藩同盟への加盟を決意したとも言われる。
これに異をとなえたのが、御用人の目時隆之進と目付役の中嶋源蔵だった。彼らは何度か佐渡と膝を交えて討論をしたが、ついにその意見が入れられないと悟ると、目時は長州藩邸へ走った。また同盟に断固反対の立場を取った中嶋を、楢山らは奸臣と呼んだ。中嶋は自身の死をもって楢山をいさめようと切腹をする。中嶋の行動も空しく、楢山は新政府に対抗する道を選んだ。
楢山は6月、海路帰国の途につき仙台に上陸する。大部分の随行者は、そのまま盛岡に直行させ自らは仙台藩家老、但木土佐と会見した。「奥羽同盟の一角すでに崩れたが、我々は一蓮托生…」と互いの決意を確かめ合って帰途についたと伝えられている。元々盛岡藩と仙台藩は仲が良いわけではなく、この行為を楢山の伊一揆での「借り」を返す行為だと見なす者もいる。
盛岡藩内部でも勤王思想が強い者が多かった。藩の大評定で遠野南部家は強硬に新政府側につくことを主張した。また、八戸南部家も勤王思想が強く、密かに秋田藩と通じており、両藩とも戦闘に参加していない。また、謹慎中の東政図は奥羽列藩同盟に最も強く反対をした。
楢山佐渡は帰国後、これら藩内の反対派を押さえ、藩論を奥羽列藩同盟への参加継続で一致させた。
奥羽列藩同盟から離脱し新政府側についた秋田藩を攻めた秋田戦争では、楢山佐渡は勇ましく盛岡藩兵の総指揮をとった。大館城を落城させ、久保田城を目指した楢山佐渡だが、要衝のきみまち阪で最新のアームストロング砲で武装し、西洋式の訓練を受けた佐賀藩兵らの到着により、状況は一変する。藩境まで押し返され、そこで膠着状態になるが、次々に奥羽列藩同盟の同盟藩が離脱する状況に、ついに盛岡藩も降伏を選択した。
南部兵は、撤退の際に秋田藩の各地の集落を焼き討ちにしている。このため、これらの地区では盛岡藩や楢山佐渡に対する恨みが明治後期まで残っていたと言われる。
奥羽越列藩同盟を組んだ各藩は責を問われ、藩主に代わり、仙台藩家老の但木土佐、会津藩家老の萱野権兵衛も同様に刎首された。
奥羽越列藩同盟という仙台藩中心の組織を早期に見切り、途中から官軍に参加した秋田藩、津軽藩が論功行賞を受ける一方で、盛岡藩は白石への減転封を課せられるなど、後世にわたって長く苦難の道を歩んだ。
1889年(明治22年)に家名復興。1917年(大正6年)9月8日、盛岡において戊辰戦争殉難者50年祭が開かれた。楢山佐渡と同様に盛岡藩家老の家に生まれた政友会総裁・原敬は祭主として列席し、「戊辰戦役は政見の異同のみ」とした祭文を読み上げ、盛岡藩とそれに関わる賊軍・朝敵の汚名に対し抗議の意を示した。