研究に最低限求められるのは、「正しさ」です。求められる手続きや妥当性を満たしていなければ、リジェクトの対象になってしまいます。
では、正しければいいのかというと、正しさは「衛生要因」なのです。マイナス評価には繋がれど、プラスにはならない。正しくなければツッコまれるけど、正しくても「だから何」「当然でしょ」って言われてしまう。。。
研究に最低限求められるのは、「正しさ」です。求められる手続きや妥当性を満たしていなければ、リジェクトの対象になってしまいます。
では、正しければいいのかというと、正しさは「衛生要因」なのです。マイナス評価には繋がれど、プラスにはならない。正しくなければツッコまれるけど、正しくても「だから何」「当然でしょ」って言われてしまう。。。
アブダクションに向けて(結):AIはおもしろがれない
by 舟津昌平(Shohei FUNATSU)
https://note.com/funa_mng/n/n6c9e5e41b778
前回は、定性研究法で有名な川喜田二郎が、実はかなり早い段階でアブダクションに注目していたことに触れました。
今回は、このnoteのいちおうの完結編として、アブダクションがなぜ重要/必要か?という話をしたいと思います(ちなみに、シリーズものいくつか書いてますが、完結するの初めてやわ)。
研究はおもしろくあれ
話を(前)に戻し、かつ結論を先取りすると、演繹と帰納どちらか「だけ」で推論や論理展開をしたら、どうなるか。おそらく、「当たり前の話」しか見えてこないのです。だから、アブダクションは、研究にとって重要になる。
って、どういうこと?
これは、アカデミックのトレーニングを受けていないとピンとこないかと思いますが、研究論文には「新規性」が必須です。そして、新規性は、「おもしろさ」と密接に繋がっている。
とあるところで、とある研究に対する以下のような講評を聞いたことがあります。
講評は続きます。
研究に最低限求められるのは、「正しさ」です。求められる手続きや妥当性を満たしていなければ、リジェクトの対象になってしまいます。
では、正しければいいのかというと、正しさは「衛生要因」なのです。マイナス評価には繋がれど、プラスにはならない。正しくなければツッコまれるけど、正しくても「だから何」「当然でしょ」って言われてしまう、という性質をもつのが、研究なのです。
この点は、たとえば受験勉強とは明確に異なる点。受験勉強では模範解答を必死に覚えて復唱できるよう努力しますが、研究は、みんなが辿り着くし知っていることを答えても、何の評価も得られないのです。
単なる「統計」とも、異なっている。職業柄(?)、政府統計やコンサルのレポートを読むことが多いんですが、それらは、たしかによくできている。きちんとまとめてあって見やすいし。でも、たまに勘違いされますが、それらも、研究そのものではない。そこに「理論」と「新規性」がないといけないのです。それらは新規性の種にはなり得ますが、研究そのものではない。
つまり、研究は、おもしろさがないといけないのです。おもしろいやんけ、とオーディエンスに思わせないといけない。アブダクションは、その点で「おもしろさ創造法」として非常に優秀なのです。
バカな→なるほど
で、次は、おもしろいって何やねん、となるわけですが。これはなかなか暗黙的で定性的で難問です。著名な学者だとカール・ワイクが著書で「おもしろさの定式化」をしたりはしていますが、有名なおもしろさフレームワークとして「バカな→なるほど」を紹介します。
おそらく、一般の経営学やアカデミックの語彙よりは有名なフレーズのはず。元は、元神戸大の吉原先生が書いた同名の著書を、一橋大の楠木先生(超売れっ子です)が取り上げて有名になったという経緯だと認識しています。
バカな→なるほどフレームワークは、非常に単純明快です。良い研究なるものは、「バカな」と「なるほど」を備えているのだと。つまり、バカな:常識を裏切る要素がある。と、なるほど:それを裏付ける論理がある。
そして、バカな→なるほどと思わせる研究には、必ず新規性とおもしろさがあります。バカなと思わせる指摘には新しさがあるはずだし、バカな→なるほどの過程では、知的好奇心が刺激されているはずだから、です。
で、実は、バカな→なるほど、は、アブダクションの要素を多分に孕んでいます。アブダクション自体がバカな→なるほどの構図でできている。
アブダクションはいかに
(やや変形した)アブダクションの例として、以下の文献を紹介します。院生時代に読んで率直に「おもしろい」と思った論文です。なお、このnoteの文脈に合わせるため、内容は意訳ぎみです。
この論文の要旨、かつおもしろい点は、「イノベーションを阻害すると言われている官僚制組織の要素が、イノベーションを促進(というかは下支え)していたことを明らかにした」ことです。
これをアブダクションの枠組みから考えましょう。
純粋に演繹的推論をするなら、この時点でXは「無視すべき例外」か「誤った事象」となり得ます。
余談ですが、この前紫綬褒章を受章された沼上幹先生「行為の経営学」はなかなかすごい本で、たとえば、この点非常に鋭い指摘があります(かなり意訳した私のまとめ)。
常識Aを信奉するがゆえに、例外Xを無視するということが我々には起きやすく、結果として常識Aの修正が起きづらくなるのです。例外Xはアブダクションの出発点なのに。
話を戻すと、これについて反対に純粋な帰納的推論をするなら、「縦のヒエラルキーが強いほど、イノベーションが起こりやすい」という規則Aの真逆の規則を見出すことになります。が、これは経験的にも、どうやら規則として成立しない。例外Xから純帰納で立論しようとすると、真逆のおかしな論理展開にしかならない、ということです。
つまり、事象Xが観測された時点で、純演繹も純帰納も手詰まりとなるはずなのです。ここでアブダクションが登場します。
これが、「バカな」と「なるほど」の生み出し方であると。
アブダクション推論に成功すると何がよいのかというと、おもしろいのです。我々が抱える常識的規則Aを裏切る事象Xが発見されている。この時点でおもしろい。さらに、その規則Aを修正するような規則が提示されている。これは、知的な発見でもあり、規則の精緻化(≒理論的貢献)でもあります。
つまり、アブダクションとは、規則発見の過程でおもしろさを見出す技法なのです。だから、良い研究をしたければアブダクションが有力な武器になってくる。
AIはおもしろがれない
ところで、私にアブダクションやってくれと仰った先生は、AI関連の学会で「AIにできなくて人間にできるのがアブダクションだ」という議論を聞いて、アブダクションに興味を持ったそうです。この正しさとおもしろさの分類軸でいえば、この命題はしっくりきます。AIは「おもしろがれない」。AIは「バカな!」って言わないのです(このフレーズは、私的に最高の名文のひとつである藤原正彦氏の『AIは死なない』のオマージュです)。
バカな!となるほど!って思えないと、論文査読はできない。だとすれば、AIに査読はできないでしょうね。
本稿、とりあえずまとめきろうとして色々言葉足らずで雑に書いた自覚があり、皆様のフィードバックをお待ちしております。
最後に、ええ感じの結論で〆ます。AIはおもしろがれない。研究者にAIに代替されない仕事があるとしたら、研究者はおもしろがれるからであって、その有力な手法にアブダクションがあるのだ、というお話でした。