(福澤の手簡)
拝啓仕候。陳は過日、瘠我慢之説と題したる草稿一冊を呈し候。或は御一讀も被成下候哉。其節申上候通り、何れ是は時節を見計、世に公にする積に候得共、尚熟考仕候に、書中或は事實の間違は有之間敷哉、又は立論之旨に付、御意見は有之間敷哉、若しこれあらば、無御伏臓被仰聞被下度、小生の本心は漫に他を攻撃して樂しむものにあらず、唯多年來、心に釋然たらざるものを記して輿論に質し、天下後世の爲めにせんとするまでの事なれば、當局の御本人に於て云々の御説もあらば拝承致し度、何卒御漏し奉願候。要用のみ重て申上候。匆々頓首。
(勝の答書)
從古當路者、古今一世之人物にあらざれば、衆賢之批評に當る者あらず。不計も拙老先年之行爲に於て、御議論數百言御指摘、實に慙愧に不堪ず、御深志忝存候。
行藏は我に存す、毀譽は他人の主張、我に與からず我に關せずと存候。各人え御示御座候とも毛頭異存無之候。御差越之御草稿は拝受いたし度、御許容可被下候也。
(榎本の答書)
拝復。過日御示被下候貴著瘠我慢中、事實相違之廉並に小生之所見もあらば云々との御意致拝承候。昨今別而多忙に付、いづれ其中愚見可申述候。先は不取敢囘音如此に候也。
痩我慢の説
by 福澤諭吉
立國は私なり、公に非ざるなり。地球面の人類、その數、億のみならず、山海天然の境界に隔てられて、各處に群を成し各處に相分るるは止むを得ずと雖も、各處におのおの衣食の富源あれば、之に依て生活を遂ぐ可し。又、或は各地の固有に有餘不足あらんには、互に之を交易するも可なり。即ち天與の恩惠にして、耕して食ひ、製造して用ひ、交易して便利を達す。人生の所望この外にある可らず。何ぞ必ずしも區々たる人爲の國を分て、人爲の境界を定むることを須ひんや。況んや其國を分て隣國と境界を爭ふに於てをや。況んや隣の不幸を顧みずして自から利せんとするに於てをや。況んや其國に一個の首領を立て、之を君として仰ぎ、之を主として事へ、其君主の爲めに衆人の生命財産を空うするが如きに於てをや。況んや一國中に尚ほ幾多の小區域を分ち、毎區の人民おのおの一個の長者を戴て之に服從するのみか、常に隣區と競爭して利害を殊にするに於てをや。
都て是れ人間の私情に生じたることにして、天然の公道に非ずと雖も、開闢以來今日に至るまで、世界中の事相を觀るに、各種の人民相分れて一群を成し、其一群中に言語文字を共にし、歴史口碑を共にし、婚姻相通じ、交際相親しみ、飲食衣服の物、都て其趣を同うして、自から苦樂を共にするときは、復た離散すること能はず。即ち國を立て又政府を設る所以にして、既に一國の名を成すときは、人民はますます之に固着して自他の分を明にし、他國他政府に對しては、恰も痛痒相感ぜざるが如くなるのみならず、陰陽表裏、共に自家の利益榮譽を主張して、殆んど至らざる所なく、其これを主張することいよいよ盛なる者に附するに、忠君愛國等の名を以てして、國民最上の美徳と稱するこそ不思議なれ。
故に、忠君愛國の文字は、哲學流に解すれば、純乎たる人類の私情なれども、今日までの世界の事情に於ては、之を稱して美徳と云はざるを得ず。即ち哲學の私情は立國の公道にして、此公道公徳の公認せらるるは、啻に一國に於て然るのみならず、其國中に幾多の小區域あるときは、毎區必ず特色の利害に制せられ、外に對するの私を以て内の爲めにするの公道と認めざるはなし。例へば西洋各國相對し、日本と支那朝鮮と相接して、互に利害を異にするは勿論、日本國中に於て、封建の時代に幕府を中央に戴て三百藩を分つときは、各藩相互に自家の利害榮辱を重んじ、一毫の微も他に譲らずして、其競爭の極は、他を損じても自から利せんとしたるが如き事實を見ても、之を證す可し。
扨、この立國立政府の公道を行はんとするに當り、平時に在ては差したる艱難もなしと雖も、時勢の變遷に從て國の盛衰なきを得ず。其衰勢に及んでは、迚も自家の地歩を維持するに足らず、廢滅の數、既に明なりと雖も、尚ほ萬一の僥倖を期して窟することを爲さず、實際に力尽きて然る後に斃るるは、是亦人情の然らしむる所にして、其趣を喩へて云へば、父母の大病に囘復の望なしとは知りながらも、實際の臨終に至るまで、醫薬の手當を怠らざるが如し。是れも哲學流にて云へば、等しく死する病人なれば、望なき囘復を謀るが爲め、徒に病苦を長くするよりも、モルヒネなど與へて、臨終を安樂にするこそ智なるが如くなれども、子と爲りて考ふれば、億萬中の一を僥倖しても、故らに父母の死を促がすが如きは情に於て忍びざる所なり。
左れば、自國の衰頽に際し、敵に對して固より勝算なき場合にても、千辛萬苦、力のあらん限りを尽し、いよいよ勝敗の極に至りて、始めて和を講ずるか、若しくは死を決するは、立國の公道にして、國民が國に報ずるの義務と稱す可きものなり。即ち俗に云ふ瘠我慢なれども、強弱相對して苟も弱者の地位を保つものは、單に此瘠我慢に依らざるはなし。啻に戰爭の勝敗のみに限らず、平生の國交際に於ても、瘠我慢の一義は決して之を忘る可らず。歐州にて、和蘭、白耳義の如き小國が、佛獨の間に介在して、小政府を維持するよりも、大國に合併するこそ安樂なる可けれども、尚ほ其獨立を張て動かざるは小國の瘠我慢にして、我慢、能く國の榮譽を保つものと云ふ可し。
我封建の時代、百萬石の大藩に隣して一萬石の大名あるも、大名は即ち大名にして毫も譲る所なかりしも、畢竟、瘠我慢の然らしむる所にして、又、事柄は異なれども、天下の政權、武門に歸し、帝室は有れども無きが如くなりしこと何百年、この時に當りて臨時の處分を謀りたらば、公武合体等、種々の便利法もありしならんと雖も、帝室にして能く其地位を守り、幾艱難の其間にも至尊犯す可らざるの一義を貫き、例へば彼の有名なる中山大納言が東下したるとき、将軍家を目して吾妻の代官と放言したりと云ふが如き、當時の時勢より見れば、瘠我慢に相違なしと雖も、其瘠我慢こそ帝室の重きを成したる由縁なれ。
又、古來、士風の美を云へば、三河武士の右に出る者はある可らず。其人々に就て品評すれば、文に武に、智に勇に、おのおの長ずる所を殊にすれども、戰國割拠の時に當りて、徳川の旗下に屬し、能く自他の分を明にして二念あることなく、理にも非にも、唯徳川家の主公あるを知て他を見ず、如何なる非運に際して辛苦を嘗るも、曾て落胆することなく、家の爲め主公の爲めとあれば、必敗必死を眼前に見て尚ほ勇進するの一事は、三河武士全体の特色、徳川家の家風なるが如し。是即ち宗祖家康公が小身より起りて四方を經營し、遂に天下の大權を掌握したる所以にして、其家の開運は瘠我慢の賜なりと云ふ可し。
左れば、瘠我慢の一主義は、固より人の私情に出ることにして、冷淡なる數理より論ずるときは、殆んど児戯に等しと云はるるも、辯解に辭なきが如くなれども、世界古今の實際に於て、所謂國家なるものを目的に定めて、之を維持保存せんとする者は、此主義に由らざるはなし。我封建の時代に諸藩の相互に競爭して士氣を養ふたるも、此主義に由り、封建既に廢して一統の大日本帝國と爲り、更に眼界を廣くして、文明世界に獨立の体面を張らんとするも、此主義に由らざる可らず。故に人間社會の事物、今日の風にてあらん限りは、外面の体裁に文野の變遷こそある可けれ、百千年の後に至るまでも、一片の瘠我慢は立國の大本として之を重んじ、いよいよますます之を培養して、其原素の發達を助くること緊要なる可し。
即ち國家風教の貴き所以にして、例へば、南宋の時に、廟議、主戰と講和と二派に分れ、主戰論者は大抵皆擯けられて、或は身を殺したる者もありしに、天下後世の評論は、講和者の不義を惡んで、主戰者の孤忠を憐まざる者なし。事の實際を云へば、弱宋の大事既に去り、百戰必敗は固より疑ふ可きにあらず、寧ろ恥を忍んで一日も趙氏の祀を存したるこそ利益なるに似たれども、後世の國を治る者が、經綸を重んじて士氣を養はんとするには、講和論者の姑息を排して、主戰論者の瘠我慢を取らざる可らず。是即ち兩者が今に至るまで臭芳の名を殊にする所以なる可し。
然るに爰に遺憾なるは、我日本國に於て、今を去ること二十餘年、王政維新の事起りて、其際不幸にも、此大切なる瘠我慢の一大義を害したることあり。即ち徳川家の末路に、家臣の一部分が、早く大事の去るを悟り、敵に向て曾て抵抗を試みず、只管和を講じて、自から家を解きたるは、日本の經濟に於て一時の利益を成したりと雖も、數百千年養ひ得たる我日本武士の氣風を傷ふたるの不利は、決して少々ならず。得を以て損を償ふに足らざるものと云ふ可し。
抑も維新の事は、帝室の名義ありと雖も、其實は二、三の強藩が徳川に敵したるものより外ならず。此時に當りて、徳川家の一類に三河武士の舊風あらんには、伏見の敗餘、江戸に歸るも、更に佐幕の諸藩に令して再擧を謀り、再擧三擧、遂に成らざれば、退て江戸城を守り、假令ひ一日にても家の運命を長くして尚ほ萬一を僥倖し、いよいよ策竭るに至りて城を枕に討死するのみ。即ち前に云へる如く、父母の大病に一日の長命を祈るものに異ならず。斯ありてこそ瘠我慢の主義も全きものと云ふ可けれ。
然るに彼の講和論者たる勝安房氏の輩は、幕府の武士用ふ可らずと云ひ、薩長兵の鋒、敵す可らずと云ひ、社會の安寧、害す可らずと云ひ、主公の身の上、危しと云ひ、或は言を大にして、墻に鬩ぐの禍は外交の策にあらずなど、百方周旋するのみならず、時としては身を危うすることあるも、之を憚らずして和議を説き、遂に江戸解城と爲り、徳川七十萬石の新封と爲りて、無事に局を結びたり。實に不可思議千萬なる事相にして、當時或る外人の評に、凡そ生あるものは、其死に垂んとして抵抗を試みざるはなし、蠢爾たる昆蟲が百貫目の鐵槌に撃たるるときにても、尚ほ其足を張て抵抗の状を爲すの常なるに、二百七十年の大政府が、二、三強藩の兵力に對して毫も敵對の意なく、唯一向に和を講じ哀を乞うて止まずとは、古今世界中に未だ其例を見ずとて、窃に冷笑したるも謂れなきに非ず。 蓋し勝氏輩の所見は、内亂の戰爭を以て、無上の災害、無益の勞費と認め、味方に勝算なき限りは、速に和して速に事を収るに若かずとの數理を信じたるものより外ならず。其口に説く所を聞けば、主公の安危、又は外交の利害など云ふと雖も、其心術の底を叩て之を極むるときは、彼の哲學流の一種にして、人事國事に瘠我慢は無益なりとて、古來、日本國の上流社會に最も重んずる所の一大主義を、曖昧模糊の間に瞞着したる者なりと評して、之に答ふる辭はなかる可し。一時の豪氣は以て懦夫の胆を驚かすに足り、一場の詭言は以て少年輩の心を籠絡するに足ると雖も、具眼卓識の君子は終に斯く可らず惘ふ可らざるなり。 左れば、當時、積弱の幕府に勝算なきは、我輩も勝氏と共に之を知ると雖も、士風維持の一方より論ずるときは、國家存亡の危急に迫りて勝算の有無は言ふ可き限りに非ず。況んや必勝を算して敗し、必敗を期して勝つの事例も少なからざるに於てをや。然るを勝氏は予め必敗を期し、其未だ實際に敗れざるに先んじて、自から自家の大權を投棄し、只管平和を買はんとて勉めたる者なれば、兵亂の爲めに人を殺し財を散ずるの禍をば輕くしたりと雖も、立國の要素たる瘠我慢の士風を傷ふたるの責は免かる可らず。殺人散財は一時の禍にして、士風の維持は萬世の要なり。此を典して彼を買ふ、其功罪相償ふや否や、容易に斷定す可き問題に非ざるなり。 或は云ふ、王政維新の成敗は内國の事にして、云はば兄弟朋友間の爭ひのみ、當時東西相敵したりと雖も、其實は敵にして敵に非ず、兎に角に幕府が最後の死力を張らずして其政府を解きたるは、時勢に応じて好き手際なりとて、妙に説を作すものあれども、一場の遁辭口實たるに過ぎず。内國の事にても、朋友間の事にても、既に事端を發するときは、敵は即ち敵なり。然るに今その敵に敵するは、無益なり、無謀なり、國家の損亡なりとて、専ら平和無事に誘導したる其士人を率ゐて、一朝敵國外患の至るに當り、能く其士氣を振うて極端の苦辛に堪へしむるの術ある可きや。内に瘠我慢なきものは、外に對しても亦然らざるを得ず。之を筆にするも不祥ながら、億萬一にも我日本國民が外敵に逢うて、時勢を見計らひ、手際好く自から解散するが如きあらば、之を何とか言はん。然り而して幕府解散の始末は、内國の事に相違なしと雖も、自から一例を作りたるものと云ふ可し。 然りと雖も、勝氏も亦人傑なり。當時幕府内部の物論を排して、旗下の士の激昂を鎮め、一身を犠牲にして政府を解き、以て王政維新の成功を易くして、之が爲めに人の生命を救ひ、財産を安全ならしめたる其功徳は、少なからずと云ふ可し。此點に就ては、我輩も氏の事業を輕々看過するものにあらざれども、獨り怪しむ可きは、氏が維新の朝に、曩きの敵國の士人と並立て、得々名利の地位に居るの一事なり(世に所謂大義名分より論ずるときは、日本國人は都て帝室の臣民にして、其同胞臣民の間に敵も味方もある可らずと雖も、事の實際は決して然らず。幕府の末年に、強藩の士人等が事を擧げて中央政府に敵し、其これに敵するの際に帝室の名義を奉じ、幕政の組織を改めて王政の古に復したる其擧を名けて、王政維新と稱することなれば、帝室をば政治社外の高處に仰ぎ奉りて一樣に其恩徳に浴しながら、下界に居て相爭ふ者あるときは、敵味方の區別なきを得ず。事實に掩ふ可らざる所のものなればなり。故に本文、敵國の語、或は不穏なりとて説を作するものもあらんなれども、當時の實際より立論すれば、敵の字を用ひざる可らず)。
東洋和漢の舊筆法に從へば、氏の如きは、到底終を全うす可き人に非ず。漢の高祖が丁公を戮し、清の康熙帝が明末の遺臣を擯斥し、日本にては織田信長が武田勝頼の奸臣、即ち其主人を織田に賣らんとしたる小山田義國の輩を誅し、豐臣秀吉が織田信孝の賊臣桑田彦右衛門の擧動を悦ばず、不忠不義者、世の見懲しにせよとて、之を信孝の幕前に磔にしたるが如き、是等の事例は實に枚擧に遑あらず。
騒擾の際に敵味方相對し、其敵の中に謀臣ありて平和の説を唱へ、假令ひ弐心を抱かざるも、味方に利する所あれば、其時には之を奇貨として、私に其人を厚遇すれども、干戈既に収まりて、戰勝の主領が、社會の秩序を重んじ、新政府の基礎を固くして、百年の計を爲すに當りては、一國の公道の爲めに私情を去り、曩きに奇貨とし重んじたる彼の敵國の人物を目して不臣不忠と唱へ、之を擯斥して近づけざるのみか、時としては殺戮することさへ少なからず。誠に無慙なる次第なれども、自から經世の一法として、忍んで之を斷行することなる可し。
即ち東洋諸國専制流の慣手段にして、勝氏の如きも、斯る専制治風の時代に在らば、或は同樣の奇禍に罹りて、新政府の諸臣を警しむるの具に供せられたることもあらんなれども、幸にして明治政府には専制の君主なく、政權は維新功臣の手に在りて、其主義とする所、都て文明國の顰に傚ひ、一切萬事寛大を主として、此敵方の人物を擯斥せざるのみか、一時の奇貨も永日の正貨に變化し、舊幕府の舊風を脱して、新政府の新貴顕と爲り、愉快に世を渡りて、曾て怪しむ者なきこそ、古來未曾有の奇相なれ。
我輩は此一段に至りて、勝氏の私の爲めには甚だ氣の毒なる次第なれども、聊か諸望の筋なきを得ず。其次第は前に云へる如く、氏の尽力を以て穏に舊政府を解き、由て以て殺人散財の禍を免かれたる其功は、奇にして大なりと雖も、一方より觀察を下すときは、敵味方相對して未だ兵を交へず、早く自から勝算なきを悟りて謹慎するが如き、表面には官軍に向て云々の口實ありと雖も、其内實は徳川政府が其幕下たる、二、三の強藩に敵するの勇氣なく、勝敗をも試みずして降參したるものなれば、三河武士の精神に背くのみならず、我日本國民に固有する瘠我慢の大主義を破り、以て立國の根本たる士氣を弛めたるの罪は遁る可らず。一時の兵禍を免かれしめたると、萬世の士氣を傷つけたると、其功罪相償ふ可きや。
天下後世に定論もある可きなれば、氏の爲めに謀れば、假令ひ今日の文明流に從て維新後に幸に身を全うすることを得たるも、自から省みて、我立國の爲めに至大至重なる上流士人の氣風を害したるの罪を引き、維新前後の吾身の擧動は一時の權道なり、權りに和議を講じて圓滑に事を纏めたるは、唯その時の兵禍を恐れて、人民を塗炭に救はんが爲めのみなれども、本來立國の要は瘠我慢の一義に在り、況んや今後敵國外患の變なきを期す可らざるに於てをや、斯る大切の場合に臨んでは、兵禍は恐るるに足らず、天下後世、國を立てて外に交はらんとする者は、努々吾維新の擧動を學んで權道に就く可らず、俗に云ふ武士の風上にも置かれぬとは即ち吾一身の事なり、後世子孫これを再演する勿れ、との意を示して、斷然政府の寵遇を辭し、官爵を棄て利祿を抛ち、單身去て其跡を隱すこともあらんには、世間の人も始めて其誠の在る所を知りて其清操に服し、舊政府放解の始末も、真に氏の功名に歸すると同時に、一方には世教萬分の一を維持するに足る可し。
即ち我輩の所望なれども、今その然らずして、恰も國家の功臣を以て傲然自から居るが如き、必ずしも窮窟なる三河武士の筆法を以て彈劾するを須たず、世界立國の常情に訴へて愧るなきを得ず。啻に氏の私の爲めに惜しむのみならず、士人社會風教の爲めに深く悲しむ可き所のものなり。
又、勝氏と同時に榎本武揚なる人あり。是亦、序ながら一言せざるを得ず。此人は幕府の末年に、勝氏と意見を異にし、飽くまでも徳川の政府を維持せんとして力を尽し、政府の軍艦數艘を率ゐて箱館に脱走し、西軍に抗して奮戰したれども、遂に窮して降參したる者なり。此時に當り、徳川政府は伏見の一敗、復た戰ふの意なく、只管、哀を乞ふのみにして、人心既に瓦解し、其勝算なきは固より明白なる所なれども、榎本氏の擧は、所謂武士の意氣地、即ち瘠我慢にして、其方寸の中には窃に必敗を期しながらも、武士道の爲めに敢て一戰を試みたることなれば、幕臣又諸藩士中の佐幕党は、氏を総督として之に随從し、都て其命令に從て進退を共にし、北海の水戰、箱館の籠城、その決死苦戰の忠勇は、天晴の振舞にして、日本魂の風教上より論じて、之を勝氏の始末に比すれば、年を同うして語る可らず。
然るに脱走の兵、常に利あらずして、勢漸く迫り、又如何ともす可らざるに至りて、総督を始め一部分の人々は、最早これまでなりと覺悟を改めて、敵の軍門に降り、捕はれて東京に護送せられたるこそ、運の拙きものなれども、成敗は兵家の常にして、固より咎む可きにあらず。新政府に於ても、其罪を惡んで其人を惡まず、死一等を減じて之を放免したるは、文明の寛典と云ふ可し。氏の擧動も、政府の處分も、共に天下の一美談にして、間然す可らずと雖も、氏が放免の後に更に青雲の志を起し、新政府の朝に立つの一段に至りては、我輩の感服すること能はざる所のものなり。
敵に降りて其敵に仕ふるの事例は、古來希有にあらず。殊に政府の新陳變更するに當りて、前政府の士人等が自立の資を失ひ、糊口の爲めに新政府に職を奉ずるが如きは、世界古今普通の談にして、毫も怪しむに足らず、又その人を非難すべきにあらずと雖も、榎本氏の一身は、此普通の例を以て掩ふ可らざるの事故あるが如し。即ち其事故とは、日本武士の人情、是れなり。氏は新政府に出身して、啻に口を糊するのみならず、累遷立身して、特派公使に任ぜられ、又遂に大臣にまで昇進し、晴雨の志、達し得て目出度しと雖も、顧みて往事を囘想するときは情に堪へざるものなきを得ず。
當時、決死の士を糾合して、北海の一隅に苦戰を戰ひ、北風競はずして遂に降參したるは、是非なき次第なれども、脱走の諸士は最初より氏を首領として之を恃み、氏の爲めに苦戰し、氏の爲めに戰死したるに、首領にして降參とあれば、假令ひ同意の者あるも、不同意の者は恰も見捨てられたる姿にして、其落胆失望は云ふまでもなく、況して既に戰死したる者に於てをや。死者若し靈あらば、必ず地下に大不平を鳴らすことならん。
傅へ聞く、箱館の五稜郭開城のとき、総督榎本氏より部下に内意を傳へて、共に降參せんことを勸告せしに、一部分の人は之を聞て大に怒り、元來今囘の擧は戰勝を期したるに非ず、唯武門の習として、一死以て二百五十年の恩に報るのみ、総督若し生を欲せば出でて降參せよ、我等は我等の武士道に斃れんのみとて、憤戰止まらず、其中には父子諸共に切死したる人もありしと云ふ。
烏江水淺騅能逝、一片義心不`可`東とは、往古漢楚の戰に、楚軍振はず、項羽が走りて烏江の畔に至りしとき、或人は、尚ほ江を渡りて再擧の望なきにあらずとて、其死を留めたりしかども、羽は之を聽かず、初め江東の子弟八千を率ゐて西し、幾囘の苦戰に戰没して今は一人の殘る者なし、斯る失敗の後に至り、何の面目か復た江東に還りて死者の父兄を見んとて、自尽したる其時の心情を詩句に冩したるものなり。
漢楚軍談のむかしと明治の今日とは、世態固より同じからず。三千年前の項羽を以て、今日の榎本氏を責るは、殆んど無稽なるに似たれども、萬古不變は人生の心情にして、氏が維新の朝に青雲の志を遂げて富貴得々たりと雖も、時に顧みて箱館の舊を思ひ、當時随行部下の諸士が戰没し負傷したる慘状より、爾來家に殘りし父母兄弟が、死者の死を悲しむと共に、自身の方向に迷うて路傍に彷徨するの事實を、想像し聞見するときは、男子の鐵腸も之が爲めに寸斷せざるを得ず。夜雨秋寒うして眠就らず殘灯明滅獨り思ふの時には、或は死靈生靈、無數の暗鬼を出現して、眼中に分明なることもある可し。
蓋し氏の本心は、今日に至るまでも此種の脱走士人を見捨てたるに非ず、其擧を美として其死を憐まざるに非ず。今、一證を示さんに、駿州清見寺内に石碑あり、此碑は、前年幕府の軍艦咸臨丸が、清水港に撃たれたるときに、戰没したる春山辯造以下脱走士の爲めに建てたるものにして、碑の背面に食人之食者死人之事の九字を大書して榎本武揚と記し、公衆の觀に任して憚る所なきをみれば、其心事の大概は窮知るに足る可し。即ち氏は曾て徳川家の食を食む者にして、不幸にして自分は徳川の事に死するの機會を失ふたれども、他人の之に死するものあるを見れば、慷慨惆悵、自から禁ずる能はず、欽慕の餘り遂に右の文字をも石に刻したることならん。
既に他人の忠勇を嘉みするときは、同時に自から省みて聊か不愉快を感ずるも亦、人生の至情に免かる可らざる所なれば、其心事を推察するに、時としては目下の富貴に安じて、安樂豪奢、餘念なき折柄、又、時としては舊時の慘状を懷うて、慙愧の念を催ほし、一喜一憂、一哀一樂、來往常ならずして、身を終るまで圓滿の安心快樂はある可らざることならん。左れば我輩を以て氏の爲めに謀るに、人の食を食むの故を以て、必ずしも其人の事に死す可しと、勸告するにはあらざれども、人情の一點より、他に對して常に遠慮するところなきを得ず。
古來の習慣に從へば、凡そ此種の人は、遁世出家して死者の菩提を弔ふの例もあれども、今の世間の風潮にて、出家落飾も不似合とならば、唯その身を社會の暗處に隱して其生活を質素にし、一切萬事、控目にして、世間の耳目に触れざるの覺悟こそ本意なれ。
之を要するに、維新の際、脱走の一擧に失敗したるは、氏が政治上の死にして、假令ひ其肉体の身は死せざるも、最早政治上に再生す可らざるものと觀念して、唯一身を慎み、一は以て同行戰死者の靈を弔して、又其遺族の人々の不幸不平を慰め、又、一には、凡そ何事に限らず、大擧して其首領の地位に在る者は、成敗共に責に任じて、決して之を遁る可らず、成れば其榮譽を専らにし敗すれば其苦難に當るとの主義を明にするは、士流社會の風教上に大切なることなる可し。即ち是れ、我輩が榎本氏の出處に就き所望の一點にして、獨り氏の一身の爲めのみにあらず、國家百年の謀に於て、士風消長の爲めに輕々看過す可らざる處のものなり。
以上の立言は、我輩が、勝、榎本の二氏に向て攻撃を試みたるに非ず。謹んで筆鋒を寛にして、苛酷の文字を用ひず、以て其人の名譽を保護するのみか、實際に於ても、其智謀忠勇の功名をば飽くまでも認る者なれども、凡そ人生の行路に、富貴を取れば功名を失ひ、功名を全うせんとするときは富貴を棄てざる可らざるの場合あり。二氏の如きは、正しく此局に當る者にして、勝氏が和議を主張して幕府を解きたるは、誠に手際よき智謀の功名なれども、之を解きて主家の廢滅したる其廢滅の因縁が、偶ま以て一舊臣の爲めに富貴を得せしむるの方便と爲りたる姿にては、假令ひ其富貴は自から求めずして天外より授けられたるにもせよ、三河武士の末流たる徳川一類の身として考ふれば、折角の功名手柄も、世間の見る所にて、光を失はざるを得ず。
榎本氏が主戰論を執りて脱走し、遂に力尽きて降りたるまでは、幕臣の本分に背かず、忠勇の功名、美なりと雖も、降參放免の後に、更に青雲の志を發して、新政府の朝に富貴を求め得たるは、曩に其忠勇を共にしたる戰死者負傷者より、爾來の流浪者貧窮者に至るまで、都て同擧同行の人々に對して、聊か慙愧の情なきを得ず。是亦その功名の價を損ずる所のものにして、要するに二氏の富貴こそ其身の功名を空うするの媒介なれば、今尚ほ晩からず、二氏共に斷然世を遁れて維新以來の非を改め、以て既得の功名を全うせんことを祈るのみ。天下後世に其名を芳にするも臭にするも、心事の決斷如何に在り、力めざる可らざるなり。
然りと雖も人心の微弱、或は我輩の言に從ふこと能はざるの事情もある可し。是亦止むを得ざる次第なれども、兎に角に、明治年間に此文字を記して、二氏を論評したる者ありと云へば、亦以て後世士人の風を維持することもあらんか、拙筆亦徒勞に非ざるなり。
福沢諭吉と痩我慢の説
by Yagiken
http://yagiken.cocolog-nifty.com/yagiken_web_site/2011/08/post-b1f7.html
先日、京都駅の書店で「勝海舟と福沢諭吉」(日本経済新聞出版社2011年4月発刊)という本をみつけた。著者は歴史家の安藤優一郎氏で、福沢諭吉と勝海舟の思想の違いや、痩我慢の説をめぐる経緯が記されてあり、年来の疑問が解消したので、以下に紹介してみたい。
<痩我慢の説>
福沢諭吉は明治25(1892)年1月末に、勝海舟と榎本武揚あてに「痩我慢の説」と題した草稿を送り返書を求めた。この草稿は明治34(1901)年になって諭吉が主宰していた「時事新報」で公表されたから、その内容は知ることが出来、諭吉が海舟と武揚に何を言ったのかが明らかになった。
それによると、諭吉は、敵に対して勝算がない場合でも、力の限り抵抗することが痩我慢なのだという。そして、家のため、主人のためとあれば、必敗必死を眼前に見てもなお勇進して徳川家康を支えた三河武士の「士風の美」を痩我慢の賜物として賛美する。
そして明治維新という政権交代の本質は薩摩・長州藩と徳川家の権力闘争であるから、三河武士により構成される徳川家としては、佐幕派の諸藩と連携して徹底抗戦すべきであり、いよいよ万策尽きたら江戸城を枕に討ち死にするのみで、かくありてこそ痩我慢の精神が全うされると、諭吉は主張する。
ところが勝海舟は、幕臣は役に立たない、薩長藩士には敵わない、抗戦は社会の安寧を損なう、慶喜の一命を危険に晒す、外交上得策でないと理由を並べたてて平和裡に江戸城を明け渡してしまった。こんなことは世界でも類をみないことで外国人は冷笑したであろう、と海舟の講和策を非難する。
さらに海舟は内乱は無上の災害や無益な浪費を招くから、勝算のない限りは速やかに和すべしとしたが、その心底には痩我慢は無益なものという考えがあり、古来日本の上流社会が最も重視してきた痩我慢の精神に人々の目を向けさせないように仕向けたのだ、と諭吉は言う。
もちろん勝算がないことは諭吉自身もそう思っていたが、士風の維持の観点からは国家存亡の危急時に勝算の有無は言うべきでない、戦う前から必敗を期してひたすら講和を求めたことは、戦禍を被ることは少なかったかもしれないが、立国の要素たる痩我慢の士風を損なったのである、と海舟を糾弾する。
つまり諭吉は、「殺人散財は一時の禍にして、士風の維持(=痩我慢)は万世の要なり」という考え方であった。
もっとも諭吉は、勝氏もまた人傑なり、と述べ、人命を救い財産を守った功績は認めているが、独り怪しむべきは、氏が維新の朝に、さきの敵国の士人と並び立って、得々名利の地位に居るの一事なり、と指摘して、この頃枢密院顧問を務め伯爵となっていた海舟を、敵対していた官軍、つまり明治政府に仕えて名利をむさぼっていると弾劾する。
そして諭吉は、戦わずして和議を進めた海舟の行為は一時の方便であって、本来立国の要である痩我慢の精神からは許されるものではなく、武士の風上にも置けない。後世の者は決して維新の真似をしてはならないと自己批判して、現在の官職や栄誉を捨てて隠棲せよ。そうすれば世間も海舟の清廉さを評価し、維新時の決断も海舟の功名に帰するのだ、と海舟に迫る。
またこの頃、外務大臣を務めていて子爵となった榎本武揚にも諭吉の矛先は向かう。海舟と同じく敵国の明治政府に仕えて高位高官にのぼっていることを、その功績を無にするものだとして隠棲を求めている。後世に美名が伝わるかは自己の決断次第である、とお説教している。
<勝海舟と榎本武揚の返書>
明治25年1月末に出された書状は黙殺されたので、2月5日に再び諭吉は督促状を出した。痩我慢の説と称した草稿は後日公表するつもりだが間違いがあってはいけないし、ご意見あれば言ってほしい。本心は攻撃ではなく、多年来、心に釈然としないので、輿論に質し天下後世のためにせんとするものである、との趣旨であった。
2月6日付の海舟の返書は次のように認められている。
「古より路に当たる者、古今一世の人物にあらざれば、衆賢の批評に当たる者あらず。計らずも拙老先年の行為に於いて、御議論数百言御指摘、実に慙愧に堪えず、御深志忝く存じ候。行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存じ候。各人へ御示し御座候とも毛頭異存これなく候。御差し越しの御草稿は拝受いたしたく、御許容下さるべく候也。 福沢先生 安芳」
海舟のこの時の心境は「氷川清話」でも語られている。
「福沢がこの頃、痩我慢の説というのを書いて、おれや榎本など、維新の時の進退に就いて攻撃したのを送って来たよ。ソコで「批評は人の自由、行蔵は我に存す」云々の返書を出して、公表されても差し支えない事を言ってやったまでサ。福沢は学者だからネ。おれなどの通る道と道が違うよ。つまり「徳川幕府あるを知って日本あるを知らざるの徒は、まさにその如くなるべし。唯百年の日本を憂うるの士は、まさにかくの如くならざるべからず」サ。」
つまり、徳川幕府しか見ない立場で理想を掲げる福沢と、百年先の日本を心配して講和を実践した自分とでは、全く考え方が違うと海舟は言いたかったようである。諭吉は海舟との論争を望んだのかもしれないが、海舟は同じ土俵に立つつもりはないと返したのであった。
一方の榎本武揚は2月5日付で返書を認めた。
「拝復。過日御示し下され候貴著痩我慢中、事実相違のかど並びに小生の所見もあらば云々(しかじか)との御意拝承致し候。昨今別して多忙に付き、いずれそのうち愚見申し述ぶべく候。先ずは取りあえず回音、此の如くに候也。 福沢諭吉様 武揚」
と、榎本武揚は多忙を理由に何も語っていないが、その心境は海舟と同じだったのではないかと、著者の安藤氏は推察している。
<痩我慢の説の公表>
諭吉は痩我慢の説を海舟と榎本に送る前に、官軍との講和や明治政府への出仕に批判的な意見をもつ2,3の親友に見せたという。その後、その中の一人から内容が漏れたことで、諭吉は明治34年元旦の「時事新報」に「痩我慢の説」を公表した。時事新報は紆余曲折を経て明治14年に諭吉が創刊した新聞である。
この公表は大きな反響を呼んだが、諭吉の意見に賛同する者がいる一方、反論も巻き起こった。実は海舟は明治32年1月に死去していたので、海舟自身からは反論できない状況であったが、徳富蘇峰が「国民新聞」に「痩我慢の説を読む」という記事を掲載し反論した。徳富蘇峰は海舟を信奉し慕っていたらしい。
蘇峰は、海舟が官軍との戦いを避けたのは、日本の内乱に外国勢力が干渉することを恐れたからだ、という海舟の持論を持ち出す。当時の親仏派の幕臣たちがフランスから援助を受け将軍の絶対君主化を目指したので、イギリスから援助を受け雄藩連合制を目指した薩長藩と対立しており、そこへロシアが参入機会を狙っていた構図を指摘した。
よって、幕府が薩長主体の官軍と戦端を開けば、外国が内乱に干渉するのは明らかで、海舟はその愚を犯さず江戸城を開城し明治維新への扉を開いたと、海舟の功績を称えることで蘇峰は反論した。
諭吉は蘇峰の記事内容を聞いて、すぐさま「時事新報」にその反論を掲載させるが、直後に脳溢血の発作を起こしてそのまま帰らぬ人となってしまった。
諭吉は、絶筆ともいうべき蘇峰への反論で、親仏派がフランスの資金援助を受けたのは軍備強化のためであって、明治政府が外国から資金を借りているのと何ら変わらないのだ、と主張し、そのリーダーである小栗上野介を三河武士の鑑であると賞賛し、外国の力を借りて国を売るという評価は決して甘受できないと、小栗を弁護している。
また外国の内政干渉についても、外国が関心を持っていたのは貿易上の利益だけで、兵乱により武器が売れることを喜んでいたに過ぎず、内乱に介入する意思などなかった、と主張している。さらにこの反論においても、海舟は隠棲すべきであったし、三河武士の末裔として晩節を汚すものであると、明治政府への出仕を咎めている。
しかし、海舟は既にこの世になく、諭吉もこの世を去ったので、この論争は未完に終わってしまった。
<幕臣だった諭吉>
痩我慢の説をめぐる経緯は上述のようなことであったが、「西洋事情」や「学問のすすめ」を著し、慶應義塾を創始した明治の教育者、啓蒙思想家としてのイメージが強い諭吉に、徳川家康に義理を立てて負け戦でも徹底抗戦すべし、かつての敵が作った組織に仕えるなどもってのほか、殺人散財は一時の禍などと唱えられると、正直違和感を覚えてしまう。
安藤本はこの違和感について、あまり知られていないが諭吉は幕臣の経歴があり、幕臣時代の軌跡を追っていけば至極当然の姿なのである、とする。以下に幕府倒壊までの諭吉の事績を追って見よう。
諭吉は天保5(1834)年、九州の譜代大名であった中津藩奥平家の家臣の子として大阪屋敷で生まれた。中津藩は蘭学が盛んであり、諭吉も嘉永7(1854)年に長崎へ行き、安政2(1855)年には大阪の緒方洪庵の適塾に入った。翌年23歳で家督を継ぎ、安政5(1858)年に藩命で江戸の中津藩屋敷で蘭学塾を開いた。
この頃諭吉は横浜の外国人居留地で蘭語が全く役に立たない体験をし英語修行を始める。安政7(1860)年には咸臨丸の渡米の際に副使の木村喜毅の従者として乗船が認められ、艦長を務めた海舟との接点ができる。しかし咸臨丸では、恩人の木村に対する海舟の態度や不和を見て、諭吉は海舟に不快感をもったらしい。
文久2(1862)年には幕府の遣欧使節団の一員として訪欧する。2年後の文久4年には幕臣に抜擢され、外交文書の翻訳掛となった。慶応2(1866)年には「西洋事情」を刊行しベストセラーになった。翌慶応3年には幕府の遣米使節団の一員として2度目の渡米をするが、渡米中の言動が問題視されて一時謹慎処分を受けたので、この頃から政治に距離をおき出したらしい。
慶応4(1868)年には塾を芝の新銭座に移し慶應義塾と命名した。この年、幕府は倒壊して明治となり、諭吉は徳川家にお暇願を出して帰商(翻訳業)の道を選ぶ。新政府からは何度も出仕要請を受けたが断った。
これ以降は良く知られている通り、諭吉は明治の教育界や言論界で民間の立場から重きをなして行くのである。
<将軍絶対君主論者だった幕臣の諭吉>
つまり諭吉は文久4(1864)年から幕府倒壊までの5年間は幕臣であった。この頃の諭吉の思想や国家感を示す資料として安藤本は、諭吉の「長州再征に関する建白書」を取り上げている。この建白書は、慶応2(1866)年に幕府が長州藩との戦争(第2次長州征伐)に踏み切ったが、将軍家茂の病死で幕府が苦戦していた頃に書かれたものである。
建白書の中で諭吉は、この当時提唱されていた大名同盟論の拡がりに警戒している。この論は、日本の政治体制は雄藩連合に移行すべきという論で、薩摩藩や英公使パークスがこの論であった。諭吉は長州藩が加担して欧州でこの論を展開すると、将軍を中心とする徳川幕府国家体制に対する国際社会の支持が下がることを危惧し、その防止策を提言している。
さらに諭吉は、内乱鎮圧に外国の力を借りて長州藩を取りつぶし、その上で異論ある大名も討伐して全日本封建制度を一変させて、将軍の威光を示すべきだと提言している。つまり将軍の大統領化を念頭においた郡県制度への道である。外国の力としては軍隊のみならず、外国からの戦費の借用も提言し、国債というものもあると紹介している。
この意見は、当時の幕府で主流を占めていた実務官僚たちの立場そのものであり、その代表格が勘定奉行の小栗上野介忠順であった。従って諭吉は、晩年に語った「福翁自伝」では幕府と距離をおいていたことを強調しているが、実際は、小栗忠順と同様の将軍絶対君主論の立場に近かったと、安藤本は指摘している。蘇峰の反論に対し諭吉が小栗を弁護したこともうなずけるわけである。
良く知られている通り、小栗忠順たちのフランスからの借款は外国の内政干渉を招くと批判して、アーネスト・サトウや英公使パークスに協力を求め、内乱を回避するために講和に持ち込んだのが勝海舟である。もともと雄藩連合の考え方は、海舟から西郷隆盛や坂本龍馬に伝授された思想であり、このことからも諭吉と海舟は相容れない国家思想をもっていたことが分かる。
しかし海舟は小栗忠順については、政敵であったにも関わらず、氷川清話の中で褒めている。
「小栗上野介は幕末の一人物だよ。あの人は、精力が人にすぐれて、計略に富み、世界の大勢にもほぼ通じて、しかも誠忠無二の徳川武士で、先祖の小栗又一によく似ていたよ。一口にいうと、あれは、三河武士の長所と短所とを両方備えておったのよ。しかし度量の狭かったのは、あの人のためには惜しかった。」と、意外にも、小栗を三河武士の鑑と讃えた諭吉に近い見方をしている。
<造られたイメージ>
文明開化と近代化の旗手としての福沢諭吉像と、晩年になって「痩我慢の説」で海舟の処し方を糾弾する福沢諭吉像の間に、何となく違和感を覚えるという、どうでも良い我が疑問であったが、学校で習った歴史や、「福翁自伝」などで得た知識では、どうやら諭吉の造られたイメージしか見ていないのだ、ということがよくわかった。
「福翁自伝」は明治30年頃、諭吉が65歳の時に、速記者に自分の経歴を口述して筆記させたもので、自伝文学の傑作とされている。ただ上記の建白書で述べたような国家思想や、海舟の新政府への仕官批判等については語っていない。新政府はひどい攘夷主義と思っていたから、西洋主義の自分は仕官しなかったと語っている。
海舟が新政府へ仕官した理由は「行蔵は我に存す」ということであろうが、諭吉が重視した士風の維持=「貞女は二夫に従わず、忠臣は二君に仕えず」のような価値観は馬鹿げたことと思っていたのかもしれない。徳川家の家臣と考えると諭吉流になるが、日本の国民と考えれば海舟や榎本流になってもおかしくない。
勝部真長編の勝海舟伝では、海舟は維新後、徳川の没落士族の救済に人知れず努力し、明治31年にとうとう主君慶喜を明治天皇に拝謁させることに成功し、「30年おれが突張ってきた」と言った後、1年後に死去したことが述べられている。
これは逆賊であった慶喜が名誉回復したことであり、腰抜け、大奸物、意気地なし、徳川を売る犬と罵られた江戸城無血開城という政治的責任を、こういう形で収めることを密かに思い、31年かかってそれを貫徹した。そのためには新政府の体制内に入り込むことが必要であった、と勝部真長は海舟の立場を支持している。
安藤優一郎氏は、海舟は江戸っ子の代表格として江戸を守った「江戸」の人、一方の諭吉は慶応義塾の創立者として近代化・文明開化を推進した「明治」の人との造られたイメージが強い。しかし、幕末から明治にかけて生きた人物の評価にはその全期間を通しての検証が必要で、それにより、改めて歴史の陥穽に気づかされるのだ、と締め括られている。