秋山房雄, 武藤志真子, 中根孝子, 渡辺久子

食糧の欠乏に伴う社会的混乱時には、明らかに疫病とくに傷寒や痢病の発生率が上昇することが認められ、天明飢饉時の死亡も、その3/4以上が疫病死と考えられる。そして、この疫病死の危険度は、同一の藩内でも地域や階級により大きく異なり、人口密度の高い城下町でかえって被害が少ない。餓死も疫病の流行も飢饉から受けた打撃の大きさとの関連が強く、食糧の流通や配分さらには医療の供給という社会経済文化的状況ときり離しては考えられない。
江戸時代は、「閉じた国土」の中で、米という1人当り消費に限度のある長期保存のきかない食糧を経済の基本として、約3000万人の人口を維持してきた社会である。この社会で確立した直系単婚小家族を基礎とする米作中心の効率を無視した園地的精農主義は、日本の農業のみならず生活様式をも規定したように思われる。
飢饉時の応急的な食糧の分配に限るならば、米沢藩の如く成功をおさめた例もあり、大巾な人口減をくいとめる政治的対応の余地は残されていたといえる。米沢藩の例からみれば、飢饉対策の成功の要因は、(1)備荒貯蓄などに計画性があること、(2)実務的に迅速な措置をとること、(3)政治理念などの普及があること、の3点が最も重要であったと考えられる。
凶荒作はたしかに天災ではあるが、被害の程度は政治・経済・社会のあり方に大きく影響されており、この意味において天災はまた人災でもあったといえるのである。

One thought on “秋山房雄, 武藤志真子, 中根孝子, 渡辺久子

  1. shinichi Post author

    社会経済的背景との関連からみた天明の飢饉と疫病

    by 秋山房雄, 武藤志真子, 中根孝子, 渡辺久子

    https://www.jstage.jst.go.jp/article/jshhe1931/43/1-2/43_1-2_1/_pdf

    食糧の欠乏に伴う社会的混乱時には、明らかに疫病とくに傷寒や痢病の発生率が上昇することが認められ、天明飢饉時の死亡も、その3/4以上が疫病死と考えられる。そして、この疫病死の危険度は、同一の藩内でも地域や階級により大きく異なり、人口密度の高い城下町でかえって被害が少ない。すなわち、餓死のみならず疫病の流行もまた飢饉から受けた打撃の大きさとの関連が強く、食糧の流通や配分さらには医療の供給という社会経済文化的状況ときり離しては考えられない。

    江戸時代は、「閉じた国土」の中で、米という1人当り消費に限度のある長期保存のきかない食糧を経済の基本として、約3000万人の人口を維持してきた社会である。この社会で確立した直系単婚小家族を基礎とする米作中心の効率を無視した園地的精農主義は、日本の農業のみならず生活様式をも規定したように思われる。米以外の生産物を含む総生産量は、商業資本の蓄積からみても、時代とともに増加したと思われるにもかかわらず、人口が停滞していることは、上記のような社会経済体制の下での食糧の適切な配分には限界があったこと、およびこのような限界の中で小家族を維持しようとする努力のあらわれであったと考えられる。一方、飢饉時の大巾な人口減も人口の再生産を阻害した無視できない要因であると思われる。

    しかしながら、飢饉時の応急的な食糧の分配に限るならば、米沢藩の如く成功をおさめた例もあり、大巾な人口減をくいとめる政治的対応の余地は残されていたといえる。米沢藩の例からみれば、飢饉対策の成功の要因は、(1)備荒貯蓄などに計画性があること、(2)実務的に迅速な措置をとること、(3)政治理念などの普及があること、の3点が最も重要であったと考えられる。

    以上のことから、凶荒作はたしかに天災ではあるが、その被害の程度はこの天災に対応する、政治・経済・社会のあり方に大きく影響されており、この意味において天災はまた人災でもあったといえるのである。

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