>草森紳一 (II)

>

……目的を自ら見いだすのでなく、他よりあたえなければ生きることのできない大半の人間は、「銭」を神とできずば、あらたなる「神」を欲しがる弱さをもっている。そのほうが、生きやすいからだ。毛沢東が、その弊を知りつつ、あえて自らの神格化を許したのは、数えあげることができぬ位、たくさん理由があるにしても、民衆が生きやすくなるという一面がある。いわば、愚民政策なのである。
……根っからの唯物論者などいない。さきに唯心論があって、あとで唯物論がある。唯物論がさきということはない。つまり「天帝」が、毛沢東にかぎらず、さきにインプットされている。だから、もともと彼の中に眠っているものであり、彼やインテリよりも、唯物論者になりきれないでいる大衆をひっぱりこむためには、故意に神秘主義的な言葉を用いることもあった。「魂」などという言葉は、文革のスローガンに乱舞した。
……真っ赤な太陽、毛沢東、毛沢東思想、革命、大義。これらは、いっさいの惨酷を肯定し、あきらめを要求する。大会の写真などを見ると、観衆がニヤニヤしているのに気づく。これは人間の惨酷な側面をあらわしているというより、むしろ「あきらめ」からきた中途半端さのしるしとしての表情である。
……権力下の笑い話は、抵抗の精神という大仰なものでなく、むしろ調和の感覚である。笑わなければ、息が詰まりそうで、地上に立っていられないので、しかたなく笑うのである。だから、調和というより、むしろ平衡本能ともいうべきものである。それも、あくまでひそかにである。
……「なぜ、人々はこんな怪物のようになってしまったのだろう?」と疑問を発している。それは、案外、簡単なことなのかもしれない。はじめは、処世術、忠誠心、嫉妬、恐怖がそうさせるが、最終的には、人間のうちにあるもっと根源的な防衛の機能(本能)がそうさせ、一種の快楽にまで押しあげてしまうにすぎないのではないか。

One thought on “>草森紳一 (II)

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *