西行 4 Replies 心なき 身にもあはれは 知られけり しぎたつ沢の 秋の夕暮 願はくは 花のもとにて 春死なむ その如月の 望月のころ 津の国の なにはの春は 夢なれや 蘆の枯葉に 風わたるなり 山里は 秋のすゑにぞ 思ひしる 悲しかりけり 木がらしの風
shinichi Post author06/03/2013 at 1:28 pm ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ (山家集) ねかはくは はなのもとにて 春しなん そのきさらきの 望月の比 (続古今和歌集) Reply ↓
shinichi Post author06/03/2013 at 1:28 pm 西行 千人万首 http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/saigyo.html Reply ↓
shinichi Post author06/03/2013 at 1:28 pm http://ja.wikipedia.org/wiki/西行 http://ja.wikipedia.org/wiki/死生観 中世はまた「わび」「さび」という日本独自の美学上の概念を生んだ時代でもあった。ここでは、当時は少数派であったものの後世へ影響力が大きかった隠者文学における死生観を扱う[22]。 隠者とは俗世との交わりを避け隠遁する者達で、西行、鴨長明、吉田兼好(近世ではあるが松尾芭蕉も)が代表的な隠者文学者とされる。隠者の環境は厳しいところがあり、最低限の草庵での閑寂がその場であったがそれに安まらず旅に出る者も多かった。動機は強い無常観であり精神生活を支えるものは美と信仰であったという[23]。彼らは旅の中でわびしい花鳥風月を多く詠み、芭蕉は『笈の小文』のなかで「鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化へかへれとなり」と述べる。この造化とは造物神によって創られた森羅万象、大自然の意である。 美の観念は言葉に説明しがたい性質のものであるが西行の句を例に挙げてみる。 「(A)津の国のなにはの春は夢なれや (B)蘆の枯葉に風わたるなり」 (A)でなには(難波)の春のように一切は夢であると感じること (B)その一切は夢だということを蘆(あし)の枯葉のさびしさに象徴させて感じること この二つを合わせることで蘆の枯葉に一切万有のさびしさが感じられる風情を帯びるわけである。 さび系の美とは万有の悲しみ(無常)を美の中に(具体的には一木一草などに)見ること[24]であったがその行き着いたところは死への美的安心であった。それは以下の句に表れている。 願はくは 花のもとにて 春死なむ その如月の 望月のころ 西行 中世文学研究者の石田吉貞によると「わび」は隠者生活の物質的側面、わびしい質朴さを基調とするものから出、「さび」は前述したように無常をものの中に見出しそこに美を感じ取るものであるという。 Reply ↓
shinichi Post author06/03/2013 at 1:29 pm 町人を中心とした死生観 江戸時代は武家の開いた幕府であったが、参勤交代などで武士の経済力が弱まり相対的に町人の立場が強くなると彼らを中心とした文化の興隆を見ることとなる。この時期での変遷は、「浮世」という用例の変化に象徴的に表れている。浮世絵で有名なこの言葉はもと「憂世」と書き、前述した仏教の穢土のように否定的なニュアンスを持っていたが、江戸時代になると「儚いから」厭う、というものが転じてどうせ「儚いのなら」刹那の間は楽しく過ごそうという用法に変わっていく。いわゆる浮世享楽であるがこの源泉としては『閑吟集』で歌われている恋歌が、時代こそ遡るものの武士や僧ではない庶民の心を表した点で近いと考えられる。『閑吟集』の精神をよく表しているのは なにせうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ というものがあり近世に入っての用法でも 夢の浮世をぬめろやれ、遊べや狂へ皆人 仮名草子、『恨之介』(作者不詳、17世紀初頭) という表現が見え(「ぬめろやれ」は「浮かれ歩け」というような意味)、近世の恋愛文学でも浮世はたびたび使われる(「浮世」には男女の仲という意味や、当世風のという意味もあり浮世絵はこの用い方)。この延長上に「心中」という観念はある。著名なものに近松門左衛門の『曽根崎心中』があり、お初の心境として「色に焦がれて死なうなら、しんぞこの身はなり次第」つまり恋に焦がれて死ぬのであればこの身はどうなってもかまわない、と描写される。 Reply ↓
ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ
(山家集)
ねかはくは はなのもとにて 春しなん そのきさらきの 望月の比
(続古今和歌集)
西行 千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/saigyo.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/西行
http://ja.wikipedia.org/wiki/死生観
中世はまた「わび」「さび」という日本独自の美学上の概念を生んだ時代でもあった。ここでは、当時は少数派であったものの後世へ影響力が大きかった隠者文学における死生観を扱う[22]。
隠者とは俗世との交わりを避け隠遁する者達で、西行、鴨長明、吉田兼好(近世ではあるが松尾芭蕉も)が代表的な隠者文学者とされる。隠者の環境は厳しいところがあり、最低限の草庵での閑寂がその場であったがそれに安まらず旅に出る者も多かった。動機は強い無常観であり精神生活を支えるものは美と信仰であったという[23]。彼らは旅の中でわびしい花鳥風月を多く詠み、芭蕉は『笈の小文』のなかで「鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化へかへれとなり」と述べる。この造化とは造物神によって創られた森羅万象、大自然の意である。
美の観念は言葉に説明しがたい性質のものであるが西行の句を例に挙げてみる。
「(A)津の国のなにはの春は夢なれや (B)蘆の枯葉に風わたるなり」
(A)でなには(難波)の春のように一切は夢であると感じること
(B)その一切は夢だということを蘆(あし)の枯葉のさびしさに象徴させて感じること
この二つを合わせることで蘆の枯葉に一切万有のさびしさが感じられる風情を帯びるわけである。
さび系の美とは万有の悲しみ(無常)を美の中に(具体的には一木一草などに)見ること[24]であったがその行き着いたところは死への美的安心であった。それは以下の句に表れている。
願はくは 花のもとにて 春死なむ その如月の 望月のころ 西行
中世文学研究者の石田吉貞によると「わび」は隠者生活の物質的側面、わびしい質朴さを基調とするものから出、「さび」は前述したように無常をものの中に見出しそこに美を感じ取るものであるという。
町人を中心とした死生観
江戸時代は武家の開いた幕府であったが、参勤交代などで武士の経済力が弱まり相対的に町人の立場が強くなると彼らを中心とした文化の興隆を見ることとなる。この時期での変遷は、「浮世」という用例の変化に象徴的に表れている。浮世絵で有名なこの言葉はもと「憂世」と書き、前述した仏教の穢土のように否定的なニュアンスを持っていたが、江戸時代になると「儚いから」厭う、というものが転じてどうせ「儚いのなら」刹那の間は楽しく過ごそうという用法に変わっていく。いわゆる浮世享楽であるがこの源泉としては『閑吟集』で歌われている恋歌が、時代こそ遡るものの武士や僧ではない庶民の心を表した点で近いと考えられる。『閑吟集』の精神をよく表しているのは
なにせうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ
というものがあり近世に入っての用法でも
夢の浮世をぬめろやれ、遊べや狂へ皆人 仮名草子、『恨之介』(作者不詳、17世紀初頭)
という表現が見え(「ぬめろやれ」は「浮かれ歩け」というような意味)、近世の恋愛文学でも浮世はたびたび使われる(「浮世」には男女の仲という意味や、当世風のという意味もあり浮世絵はこの用い方)。この延長上に「心中」という観念はある。著名なものに近松門左衛門の『曽根崎心中』があり、お初の心境として「色に焦がれて死なうなら、しんぞこの身はなり次第」つまり恋に焦がれて死ぬのであればこの身はどうなってもかまわない、と描写される。