美術品の値段は一般には分かりにくいものですが、それでも値段が付けられるメカニズムがあります。例えばオークションカタログには作品のほか、作品の種類やサイズ、制作年などに加え、過去の展覧会会場やかつての所有者名、どういう文献で批評されたかなどの情報が書かれて、それらが値段を決めるファクターになります。親戚の方がご祝儀で買ってくれるより有名なコレクターが買ってくれるほうが、あるいは展覧会をするなら地方の無名の美術館でなく NY の MOMA での展覧会のほうがアーティストにとって作品にとっていいことです。つまり、アート界の価値を決める人たち、美術館に支えられてこそ値段はあがるのです。それは、美術史の中での位置づけに関わることで、美術史的に重要だからこの値段が付くという考え方です。
世界の中の日本のアート
by 辛美沙
http://www.k-system.net/butsugaku/pdf/167_report.pdf
中国人アーティストが日本人と違うと思うのはお金に対する感覚です。中国人はなんのためらいもなく、誰もが自分の価値や値段をよく把握して活動しています。日本人が、「アートは崇高なのでお金の話はダメ」という感じでもじもじしていると、「いったい何が問題なの?」という感じです。
美術品の値段は一般には分かりにくいものですが、それでも値段が付けられるメカニズムがあります。例えばオークションカタログには作品のほか、作品の種類やサイズ、制作年などに加え、過去の展覧会会場やかつての所有者名、どういう文献で批評されたかなどの情報が書かれて、それらが値段を決めるファクターになります。親戚の方がご祝儀で買ってくれるより有名なコレクターが買ってくれるほうが、あるいは展覧会をするなら地方の無名の美術館でなく NY の MOMA での展覧会のほうがアーティストにとって作品にとっていいことです。つまり、アート界の価値を決める人たち、美術館に支えられてこそ値段はあがるのです。それは、美術史の中での位置づけに関わることで、美術史的に重要だからこの値段が付くという考え方です。
ところが、中国アートの場合は、「この作品はすばらしい、なぜなら 10 億円だから」と、まるっきり逆のプロセスで価値が決まって行きます。数字はユニバーサルな言語なので、これはある意味、非常に分かりやすく、多くの人に作品の価値が一瞬にして伝わります。作品に高い値段がつくのはアーティストにとっても大きな自信になります。
北京に中央美術学院という、芸大のような学校がありますが、競争率は何倍くらいだと思いますか? ちなみに芸大は油画科で 30 倍ほどですが、なんと 6000 倍なんです。すでにロールモデルがいるので、「自分も 10 億円プレイヤーになるぞ」と思う人が多いのでしょう。これだけ見ても、日本がいかに負けているかが分かります。
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日本のアートが勝てないのは作品に言説がないことも一因です。もともとアートとは西洋美術のことであり、アートという概念をもたない東洋人はただ輸入し見よう見まねで油絵を描くしかなく、いわゆる言葉で表現するものがないのです。そんな中、一人で乗り込んでいったのが、村上隆さんではないかと思いますが、彼の展覧会を見ると、「肉を食べていない人が、肉食の人に立ち向かう。まるでアメリカの B29 に竹やりで応戦するようなもの」と感じてしまいます。村上さんを批判しているわけではありません。哀しいかな、私たち日本人にはどうしようもない壁があるのです。
【書評】
「らしい」建築批判 飯島 洋一 著
[評者]高島直之=武蔵野美術大教授
http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2014101902000173.html
生活支える目的置き去り
書名の「らしい」とは、ある建築家が独特の表現スタイルをもっていることにおいて、その作家「らしい」独自性を指す。その「らしさ」がブランドとなり世界の富裕層に流通して設計依頼が集中し、ついには人々の生活世界の基盤を支えるはずの建築本来の目的を忘却していくとしたら…。
その具体例として、二〇一二年に決定した新国立競技場設計競技の最優秀賞の建築家ザハ・ハディドの案を挙げる。著者は、それが建築予定地の環境に適していないこと、この構造で実現すると予算をはるかに超えるのみならず、維持費が掛かり過ぎることを指摘する。ではなぜ選ばれたかといえば、五輪祭典にかなうスター建築家の「らしい」デザインを審査員たちが求めたからで、その後に五輪東京招致が決定したのも、ハディド案がそのための強力な売りモノになったからだという。
この個性的で「らしい」表現の出発には、伝統から離れて前衛的な表現を試みた二十世紀前半のモダン建築家がいたが、彼らには、規格化を推し進めて安価で質の高い住宅を大量に提供しようとする社会変革家としての精神があった。しかし現代の「らしい」建築家たちはそれを喪失し世俗的な趣味性に陥っている、と著者はいう。この変貌をたどるために歴史学での、また建築史におけるモダニズム論を多くの文献によって検証している。
ここでは、建築を「技術と普遍性」から捉えるのか、あるいは「独創と唯美性」に仮託するのかという、歴史的な背景をもつ対立構図が浮かび上がってくる。東日本大震災での仮設住宅にいまも八万人以上が暮らしている現在において、本書の批判は説得性に満ちている。建築界内部の話題に終わらせずに、一般の人々の中で議論されることを願うものである。
ハディドのほか、安藤忠雄、伊東豊雄、SANAA、フランク・ゲーリー、石上純也、レム・コールハースらの作品が俎上(そじょう)にあげられている。