shinichi Post author30/01/2016 at 9:01 pm 静嘉堂文庫美術館 リニューアルオープン展 第2弾 「茶の湯の美、煎茶の美」 2016年1月23日(土)~3月21日(月・振休) http://www.seikado.or.jp/exhibition/index.html 静嘉堂所蔵の茶道具(茶の湯の道具)と煎茶器コレクション、その双方から名品を精選し、一堂に公開する展覧会です。煎茶器の多数公開は15年ぶりとなります。 茶道具では、国宝・曜変天目、重文・油滴天目に始まり、千利休所持で伊達家伝来の青磁鯱耳花入や墨跡など、大名家伝来の名品を中心に、また天下人の手から手へと伝わった付藻茄子、松本(紹鷗)茄子 等、大名物と称される茶入も出品となります。 国内有数とされる煎茶器コレクションからは、江戸~明治時代にかけて文人たちに愛玩された、中国宜興窯製の茶銚(急須)の名品、染付の茗碗(煎茶碗)、錫製の茶心壺(茶葉の容器)などが、中国やインド舶来の華やかな織物や更紗の仕覆(名器の袋)、敷物とともに並びます。 中国から請来され、わが国に大きな影響を与えた二つの喫茶文化 ― “茶の湯”と“煎茶”‐その美の粋が展示室に集います。どうぞお楽しみ下さい。 Reply ↓
shinichi Post author30/01/2016 at 9:32 pm (sk) 展示室の壁に架けられた「国宝『曜変天目』を説明するパネル」の前に大勢の人たちが集まる。それなのに、展示室の中央にある「曜変天目」の前にはひとりもいない。「実物」よりも「実物の説明」のほうに興味を持つ人たちを見ながら、私は不思議な感覚にとらわれた。 バーチャルに慣らされた私たちは、もう誰もリアルを見ようとはしない。リアルの持つ深い色も、リアルの放つ鈍い光も、もう誰の目にも入らない。誰もその素晴らしい実物を見ようとはしない。もっともらしい説明よりも実物のほうがずっといいのに、みんな説明の字を追い続ける。 国宝でも重要文化財でもない展示物の前を、人は真面目な顔をして通りすぎる。南宋時代に作られた緑がかった青磁茶碗の高台のあまりの小ささに、そしてそのなんともいえない美しさに、気づく人はいない。その茶碗を手に取った人の感激は、手に取らなければわからないのかもしれない。それでも「下から見上げれば」と思う。しゃがんだり、かがんだりすれば、その茶碗が違って見えるのに。誰もそんな行儀の悪いことはしない。 村田珠光が素晴らしいと言った、やはり南宋時代に作られた緑色を感じさせない青磁茶碗を横から見れば、なんともいえない何本もの線が目に入る。でも、その茶碗を横から見ようとする人はいない。もしかしたら「わび・さび」のなにかを考えるきっかけになるかもしれないその茶碗の前を、足を止め、眺め、次に行く。 古田織部が切ったという竹でできた花入の前も、みんなただただ通りすぎる。竹の節をそのままに残し花入にしようという、節を底にして水を溜めそこに花を活けようという、そんなイキに、誰も興味を持たない。ただ一回の茶会のために用意した花入が、後世に残され、美術館に飾られるという皮肉を、誰も不思議だとは思わない。 人の目を喜ばせるのは、「国宝」とか「重要文化財」とかいう張り紙であり、学芸員の説明文であり、パンフレットの写真なのだということに驚き、感動と失望とを同時に抱いた。そして、私の感覚が他の人たちと違ということに、違いすぎるということに改めて気づき、下を向いた。 考えてみれば、茶の湯の美といい、煎茶の美といっても、飾られているものはすべて、金持ちのためのものばかり。人が飢えに苦しむなかで、一杯の茶を楽しむ人たち。その美は、あたりまえだけれども、はかない。 これからまた貧富の差が広がり、新しく金持ちになった人たちが新しい文化を担う。悪い時代にこそ文化が栄える。そういう意味で、来るべき新しい時代は、暗く明るい。そしてまた時が経ち、金持ちが消え、文化の残骸が残る。 Reply ↓
静嘉堂文庫美術館
リニューアルオープン展 第2弾 「茶の湯の美、煎茶の美」
2016年1月23日(土)~3月21日(月・振休)
http://www.seikado.or.jp/exhibition/index.html
静嘉堂所蔵の茶道具(茶の湯の道具)と煎茶器コレクション、その双方から名品を精選し、一堂に公開する展覧会です。煎茶器の多数公開は15年ぶりとなります。
茶道具では、国宝・曜変天目、重文・油滴天目に始まり、千利休所持で伊達家伝来の青磁鯱耳花入や墨跡など、大名家伝来の名品を中心に、また天下人の手から手へと伝わった付藻茄子、松本(紹鷗)茄子 等、大名物と称される茶入も出品となります。
国内有数とされる煎茶器コレクションからは、江戸~明治時代にかけて文人たちに愛玩された、中国宜興窯製の茶銚(急須)の名品、染付の茗碗(煎茶碗)、錫製の茶心壺(茶葉の容器)などが、中国やインド舶来の華やかな織物や更紗の仕覆(名器の袋)、敷物とともに並びます。
中国から請来され、わが国に大きな影響を与えた二つの喫茶文化 ― “茶の湯”と“煎茶”‐その美の粋が展示室に集います。どうぞお楽しみ下さい。
(sk)
展示室の壁に架けられた「国宝『曜変天目』を説明するパネル」の前に大勢の人たちが集まる。それなのに、展示室の中央にある「曜変天目」の前にはひとりもいない。「実物」よりも「実物の説明」のほうに興味を持つ人たちを見ながら、私は不思議な感覚にとらわれた。
バーチャルに慣らされた私たちは、もう誰もリアルを見ようとはしない。リアルの持つ深い色も、リアルの放つ鈍い光も、もう誰の目にも入らない。誰もその素晴らしい実物を見ようとはしない。もっともらしい説明よりも実物のほうがずっといいのに、みんな説明の字を追い続ける。
国宝でも重要文化財でもない展示物の前を、人は真面目な顔をして通りすぎる。南宋時代に作られた緑がかった青磁茶碗の高台のあまりの小ささに、そしてそのなんともいえない美しさに、気づく人はいない。その茶碗を手に取った人の感激は、手に取らなければわからないのかもしれない。それでも「下から見上げれば」と思う。しゃがんだり、かがんだりすれば、その茶碗が違って見えるのに。誰もそんな行儀の悪いことはしない。
村田珠光が素晴らしいと言った、やはり南宋時代に作られた緑色を感じさせない青磁茶碗を横から見れば、なんともいえない何本もの線が目に入る。でも、その茶碗を横から見ようとする人はいない。もしかしたら「わび・さび」のなにかを考えるきっかけになるかもしれないその茶碗の前を、足を止め、眺め、次に行く。
古田織部が切ったという竹でできた花入の前も、みんなただただ通りすぎる。竹の節をそのままに残し花入にしようという、節を底にして水を溜めそこに花を活けようという、そんなイキに、誰も興味を持たない。ただ一回の茶会のために用意した花入が、後世に残され、美術館に飾られるという皮肉を、誰も不思議だとは思わない。
人の目を喜ばせるのは、「国宝」とか「重要文化財」とかいう張り紙であり、学芸員の説明文であり、パンフレットの写真なのだということに驚き、感動と失望とを同時に抱いた。そして、私の感覚が他の人たちと違ということに、違いすぎるということに改めて気づき、下を向いた。
考えてみれば、茶の湯の美といい、煎茶の美といっても、飾られているものはすべて、金持ちのためのものばかり。人が飢えに苦しむなかで、一杯の茶を楽しむ人たち。その美は、あたりまえだけれども、はかない。
これからまた貧富の差が広がり、新しく金持ちになった人たちが新しい文化を担う。悪い時代にこそ文化が栄える。そういう意味で、来るべき新しい時代は、暗く明るい。そしてまた時が経ち、金持ちが消え、文化の残骸が残る。