「蓮の花はな」
ものやさしい声でおもかさまが言っている。めずらしいことに家族の会話にはいってきたのだ。
亀太郎がはっと座り直した。
「あい、蓮の花はな」
全員が耳を集中した。
「蓮の花は、あかつきの、最初の光にひらくとばえ。音立てて」
「音立てて、でござりやすか」
「菩薩さまのおらいますような音さてて、花びらが一枚ずつひらく」
「花びらが一枚ずつ」
「一枚ずつ、中に菩薩さまがおらいます」
白象に乗った菩薩さまの絵が床の間にあった。父が時おり、おもかさまは「常の人とはちがう」といって敬うことがこの時わかった気がした。
葭の渚
by 石牟礼道子
祖母・おもかさま
2024年1月19日(金)
みっちんが見た大人の世界
今週の書物/
『椿の海の記』
石牟礼道子著、朝日新聞社、1976年刊
1968年に厚生省が水俣病の原因はチッソ水俣工場の廃液に含まれるメチル水銀化合物だと発表した。1969年には石牟礼道子の『苦海浄土』が出版され、水俣病が大きな問題になってゆく。水俣病の患者たちはチッソ水俣支社に行き、会って話し合うことを求めるのだが、支社のお偉いさんたちは「要望は本社に伝える」というばかり。らちがあかないと思った患者たちが上京し、むしろ旗を掲げてチッソ本社前に座り込んだ。
20歳になるかならないかの私は、その光景を何回も目にしている。その一年前に市ヶ谷の自衛隊の前を通りかかり、バルコニーで演説する三島由紀夫を目にしてはいたが、その記憶よりも、水俣病患者の座り込みの記憶のほうが、はるかに鮮明だ。
座り込みをした人たちの多くは患者ではなく、そのほとんどが、水俣からやってきた若くはない支援者たちと、長髪にジーンズ姿の東京の若い支援者たちだった。当時の丸の内を歩くサラリーマンやOLたちの身なりがとてもよかったためか、座り込む人たちの「決してきれいとはいえない身なり」は際立っていた。
水俣からやってきた支援者たちのなかに石牟礼道子もいた。ひとりだけ目立つ女性がいたが、私にはそれが石牟礼道子だという認識はなかった。『朝日ジャーナル』に載っていた写真などで見るかぎり、石牟礼道子の容貌は 特に目を惹くようなものではない。それでも石牟礼道子は、人の目を惹いた。
石牟礼道子は、よく、巫女のような女性だったと言われる。自分の使命を知っているようで、世の中のために力を尽くそうとし、感受性が強く、あらゆるものと無意識に共感してし、直感的に物事をとらえ、まっすぐに行動を起こす。根拠も理由もないのに、何をしたいかだけははっきりしているので、言動には揺るぎがない。そんなことから巫女のようだと言われてきたようだ。
ただ私には、石牟礼道子は、なぜか目が離せない、とても不思議な存在に映る。シャーマンが人を惑わすときのような微笑みを浮かべ、場末の酒場の女が男を見るような目で人を見る。集まった人たちに手料理を振る舞い、会話には積極的に加わらないのに、いつもみんなの中心にいる。そんな人が、目立たないわけがない。
石牟礼道子は、尾関章さんの『めぐりあう書物たち』にも2週続けて取り上げられた。
である。2回とも『苦海浄土』についてだ。この2回はとても面白い。石牟礼道子は感性の人で、尾関章さんは論理の人。論理の人が,感性の人が書いた本の書評をしたのだから、面白くないはずがない。
石牟礼道子の「取材」は、面白い。自動車で移動する人たちを自転車で追いかけ、挨拶もせずに現場に上がり込む。メモは取らないし、録音もしない。あとで証拠を見せろとか、根拠はなにかと聞かれても、何も持っていない。頼りは自分が感じだことと、自分が覚えていること。そして大学や図書館に残された資料。それで十分なのだ。
皇后雅子の祖父で当時チッソの社長であった江頭豊が患者のところをまわったときのことを、石牟礼道子は克明に書いているのだが、石牟礼道子にとっては、本当にそのような会話が交わされたのかどうかよりも、その場の空気がどうだったのかとか、江頭豊がどのような人間だったのかということのほうがずっと大事。それが文章になるのだから大変だ。実際、当時のチッソ水俣工場長で後に水俣市長を4期も務めた橋本彦七のことを書いた文章にはたくさんの棘が秘められる。
丸の内に出て来て、聳え立つビルを見て、まるで卒塔婆のようだと書く感性。江頭豊や橋本彦七を醜いと見て取る直感。あの顔、あの表情、あの声、あの仕草。反権力と見えながら、上皇后美智子といとも容易く近づいてしまう。男にとって、これほど手強い女はいないだろう。
で今週は、その石牟礼道子がまだ幼い「みっちん」だった頃のことを書いた一冊を読む。『椿の海の記』(石牟礼道子著、朝日新聞社、1976年刊)だ。著者は1927年生まれ。代表作の『苦海浄土』があまりにも有名なためか、他の作品が顧みられることは少ないが、『椿の海の記』『あやとりの記』『葭の渚』といった「みっちん」シリーズ、そして『西南役伝説』のような歴史物、『食べごしらえおままごと』のような料理に関する本、そして詩集から自伝まで、著作の範囲は驚くほど広い。『椿の海の記』は、そのなかでも石牟礼道子らしさが濃くあらわれ物語で、「みっちん」と大人との絡みのなかに描かれる石牟礼道子の自然観・文明観が読みどころだ。
中身に入ろう。
書き出しからこの調子だ。これを4歳の「みっちん」が見て、そして感じたことだと言われても「はい、そうですか」とは、いかない。私には、子どもの頃はもちろん、大人になってもそんな感性は育たなかった。
歩いてゆく途中、
というように、石牟礼道子の父親の声がずうっと耳についてくる。現実というよりも、夢に近い。
言葉には、
数には、
季節には、
宇宙には、
というように、感性だけの、しかし的確な文章があてられる。
天草は
と描かれ、死んだ十六女郎には、
という文章が用意されている。
「みっちん」は、幼くはない。幼い「みっちん」の目を借りて、口を借りて、手を借りて、石牟礼道子が描き出す人間と自然。豊富な海の幸や山の幸をいただくシーンもふんだんに描かれる。
といった具合だ。「みっちん」にとっても、「みっちん」の祖母の「おもかさま」にとっても、そして物語に出てくるすべての大人たちにとっても、豊かな自然はとても身近だ。メチル水銀化合物に穢される以前の水俣の、なんと清々しいことか。
「みっちん」が私たちの親の世代だとすれば、「おもかさま」の世代はその二代前。近代というものがまだ入りこんでいない、前近代的な地方色の色濃い世代だ。だから「みっちん」と「おもかさま」の世界には、今の日本からは考えられない前近代的な空気が漂っている。それが「みっちん」シリーズの魅力になっているのだろう。
ここで、ふと、気がついたのだが、どうも私には石牟礼道子の批評ができないようだ。ただただ、文章を切り張りしているだけではないか。
もう、この「書評」は、止めたほうがいいだろう。最後に気に入っている文章を載せて終わりにしよう。
私にはこんな文章は書けない。
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