プリズンホテル(浅田次郎) 1 Reply 1 「おめえでさえ世間様から 先生なんて呼ばれるんだぜ。 この俺がリゾートホテルのひとつやふたつ ブッ建てたって、何のフシギもあるめえ」 ――仲蔵親分は偏屈な小説家に向かって言った。
shinichi Post author29/07/2022 at 6:36 am プリズンホテル by 浅田次郎 気の遠くなるほど退屈な読経が終わって、参会者が住職に導かれて墓に向かったあと、ぼくは富江の襟首をつまんで本堂の縁側に連れ出した。 そこが寺でなくて、父の七回忌の席でなかったら、ぼくはたぶんいつものように富江を殴りとばしていたことだろう。 ぼくは子供のころからずっと、この齢の違わぬ義母を呪っていた。殴っても殴っても、殴り足らぬほど憎んでいた。 そんな言い方をすると、何だか通りいっぺんの苦労話のようで、ぼくがいわゆる継母にいじめ抜かれて育ったように聞こえるかもしれないが、あいにく富江に継子いじめをするような甲斐性はない。 富江はグズでノロマでブスで、齢より十歳も老けて見える。実際はぼくとひとまわりしか違わないから、今年ようやく四十七だというのに、見ようによっては六十のババアにも見えるのだ。 決して大げさな表現ではない。ぼくと富江の二人で住むマンションを訪ねた出版社の連中は、ほぼ例外なく実の母親と勘ちがいするのだから、そのおそろしい老けこみようがぼくひとりの思いこみでないことは確かだ。 もとは父の経営していた町工場の女工兼女中であったものが、どういう成り行きかよくは知らんが父の後添いに収まった。ぼくが九つの時であったから、富江ははたちかそこいらで嫁に来たことになる。 ところがそのころのぼくの目に、富江はやはり三十すぎに見えた。たぶん誰が見てもそうだったんじゃないかと思う。 ひどい東北訛りで、斜視で、化粧ッ気なんか全然なくて、ぼくや父のそれと区別のつかないぐらいでかいパンツをはいていた。いちど間違えて学校にはいて行き、小便をするときに初めてそうと気付いたときのおぞましさといったらなかった。生涯わすれ得ぬ青春の痛手だった。 以来、ぼくはぼくの身の上に起こるすべての災難を、富江のせいにするようになった。いや、正しくはそうと決めた。 本堂の縁側からは、庭つづきの駐車場が望まれた。あじさいの生け垣に囲まれて、仲オジの白い乗用車がひときわ目につく。 「なんでおじさんを呼んだんだ」 ぼくは肩越しに親指を立てて車を指さし、富江を詰問した。斜視のまなこを昔のセルロイド人形のようにオロオロと動かして、しばらく言葉を探してから、富江は小声で答えた。 「だって、仲蔵さんしか身内がいないから。他人ばかりじゃあんまりみっともないと思って……」 「みっともないのは、おまえだよ」 と、ぼくは拳で富江の額をゴツゴツと小突きながら言った。「だいたい今どき法事なんてやることないんだ。うまい理由をつけて、工場の同窓会でもやる気だったんじゃないか」 「そんなことないよ孝ちゃん。みんなお父さんの世話になった人ばかりじゃないの……」 仲オジの乗用車には、人相の悪い若い衆が二人、ひとりはセッセと車を磨いており、年長らしいもうひとりは携帯電話で何やら良からぬ話をしている。 「まあ、それはいいとして。だが、あの仲オジとは一生付き合うなっていうのは、オヤジの遺言だ。たとえ血のつながりはあっても、ヤクザはヤクザだぞって、オヤジはいつも言っていた」 「でも、仲蔵さんももう齢だし、孝ちゃんにとってもたったひとりのおじさんでしょう。だから……」 「おまえな」、とぼくは尻すぼみになる富江の言葉を遮った。富江がぼくに対して口応えをするのは珍しいことだ。ぼくの胸のあたりまでしかない、しみだらけの首根っこを掴んで、ぼくは言った。 「あのな、おまえまた血圧高いんじゃないか。オラ、首揉んでやるから早いとこ血管切っちまえ。オヤジも待ってるぞ」 「やめてよ孝ちゃん」、と富江はちっとも色気のないしぐさで身をかわした。 Reply ↓
プリズンホテル
by 浅田次郎
気の遠くなるほど退屈な読経が終わって、参会者が住職に導かれて墓に向かったあと、ぼくは富江の襟首をつまんで本堂の縁側に連れ出した。
そこが寺でなくて、父の七回忌の席でなかったら、ぼくはたぶんいつものように富江を殴りとばしていたことだろう。
ぼくは子供のころからずっと、この齢の違わぬ義母を呪っていた。殴っても殴っても、殴り足らぬほど憎んでいた。
そんな言い方をすると、何だか通りいっぺんの苦労話のようで、ぼくがいわゆる継母にいじめ抜かれて育ったように聞こえるかもしれないが、あいにく富江に継子いじめをするような甲斐性はない。
富江はグズでノロマでブスで、齢より十歳も老けて見える。実際はぼくとひとまわりしか違わないから、今年ようやく四十七だというのに、見ようによっては六十のババアにも見えるのだ。
決して大げさな表現ではない。ぼくと富江の二人で住むマンションを訪ねた出版社の連中は、ほぼ例外なく実の母親と勘ちがいするのだから、そのおそろしい老けこみようがぼくひとりの思いこみでないことは確かだ。
もとは父の経営していた町工場の女工兼女中であったものが、どういう成り行きかよくは知らんが父の後添いに収まった。ぼくが九つの時であったから、富江ははたちかそこいらで嫁に来たことになる。
ところがそのころのぼくの目に、富江はやはり三十すぎに見えた。たぶん誰が見てもそうだったんじゃないかと思う。
ひどい東北訛りで、斜視で、化粧ッ気なんか全然なくて、ぼくや父のそれと区別のつかないぐらいでかいパンツをはいていた。いちど間違えて学校にはいて行き、小便をするときに初めてそうと気付いたときのおぞましさといったらなかった。生涯わすれ得ぬ青春の痛手だった。
以来、ぼくはぼくの身の上に起こるすべての災難を、富江のせいにするようになった。いや、正しくはそうと決めた。
本堂の縁側からは、庭つづきの駐車場が望まれた。あじさいの生け垣に囲まれて、仲オジの白い乗用車がひときわ目につく。
「なんでおじさんを呼んだんだ」
ぼくは肩越しに親指を立てて車を指さし、富江を詰問した。斜視のまなこを昔のセルロイド人形のようにオロオロと動かして、しばらく言葉を探してから、富江は小声で答えた。
「だって、仲蔵さんしか身内がいないから。他人ばかりじゃあんまりみっともないと思って……」
「みっともないのは、おまえだよ」
と、ぼくは拳で富江の額をゴツゴツと小突きながら言った。「だいたい今どき法事なんてやることないんだ。うまい理由をつけて、工場の同窓会でもやる気だったんじゃないか」
「そんなことないよ孝ちゃん。みんなお父さんの世話になった人ばかりじゃないの……」
仲オジの乗用車には、人相の悪い若い衆が二人、ひとりはセッセと車を磨いており、年長らしいもうひとりは携帯電話で何やら良からぬ話をしている。
「まあ、それはいいとして。だが、あの仲オジとは一生付き合うなっていうのは、オヤジの遺言だ。たとえ血のつながりはあっても、ヤクザはヤクザだぞって、オヤジはいつも言っていた」
「でも、仲蔵さんももう齢だし、孝ちゃんにとってもたったひとりのおじさんでしょう。だから……」
「おまえな」、とぼくは尻すぼみになる富江の言葉を遮った。富江がぼくに対して口応えをするのは珍しいことだ。ぼくの胸のあたりまでしかない、しみだらけの首根っこを掴んで、ぼくは言った。
「あのな、おまえまた血圧高いんじゃないか。オラ、首揉んでやるから早いとこ血管切っちまえ。オヤジも待ってるぞ」
「やめてよ孝ちゃん」、と富江はちっとも色気のないしぐさで身をかわした。