AIシミュレーションで、地方分散型が望ましいと導き出された根拠の一つは、全国の都道府県の中で「東京が群を抜いて出生率が低い」という事象でした。つまり、日本のGDPを牽引しているはずの東京が、中長期的には労働人口を減らしGDPを下げる要因になっている。
「Japan as No.1」と呼ばれていた時代は、人口が増えていく=生産や消費のパイが自然と増えていくからこそ、大都市にあらゆるリソースを集中させ経済成長を最優先することがすべての問題を解決してくれるという発想でした。しかし、その成功体験はもはや今の時代のお手本にはならないのです。
私は、人口減少時代は個人がのびのびと自由に多様な幸福を追求すべき時代だと考えています。人生100年時代と言われていますが、”生涯現役”とは何も一生労働を強いられることではないはず。
学生を見ていても、人口減少時代の若者は都心一極集中の負の側面に気づき、ローカル志向を持つ人が増えています。特に地元志向の強い高学歴層が増えたのは、上の世代との明らかな違いでしょう。
「人口減少社会は希望だ」京都大学広井教授が考える、成熟社会に生きる私たちのこれから
リクルート
https://www.recruit.co.jp/blog/guesttalk/20200406_431.html
私たちは人口減少というテーマを、ネガティブな側面だけで捉えていないだろうか。「成長社会」から「成熟社会」へと移行した今、新たに訪れるチャンスについて考える
厚生労働白書によれば、日本の人口は、2008年をピークに減り続けている。このまま進むと2050年には1億人を切る見通しで、医療・年金・介護といった現行の社会保障システムにも大きく影響する。そのせいか、人口減少と聞くと厳しい未来を想像する人が多い。
そうした世の中の論調に一石を投じたのが、京都大学こころの研究センター 広井良典教授。2019年に上梓した『人口減少社会のデザイン』では、「日本の人口はある程度減少してもよい」と論じ、現代を未来への転換期と捉えて様々な観点から「持続可能な社会」へと進む道を提言している。そこで今回は、広井教授が捉える人口減少社会の本質を伺い、これからの時代にどう向き合うべきかのヒントを探った。
歴史的に見ると、人口が急激に増大した20世紀は特殊な時代
――はじめに、広井先生が「日本の人口はある程度は減少しても良い」と論じられた背景を教えてください。
歴史的に見れば人口が右肩上がりに上昇を続けてきたこの100年間は、むしろ特殊な時代でした。日本の人口は、794年に都が平安京に遷都して以降、ほぼ横ばいで推移していました。江戸時代に入り若干人口は増えたものの、3,000万人程度に落ち着き再び横ばいに。それが明治時代から急激に増加をはじめ、太平洋戦争時に一時的に減少しましたが、戦後の復興と高度経済成長期に再び爆発的に増加。グラフにすると、ほぼ垂直に伸びているような図になります。
また、他の先進国と比較しても、私は日本が1億数千万人でなければならない合理性はないと考えています。例えば、イギリス・フランス・イタリアはいずれも人口6,000万人程度で、ドイツは8,000万人。国土の面積が異なるため単純比較はできないものの、1億人を割るから国が維持できなくなるとは必ずしも言えません。
――現代の私たちが人口減少に危機感を覚えるのは、高度経済成長期を前提に考えているからで、大局的に見てみると、むしろ近年の人口規模の方が珍しい状態にあると。
もちろん、減り続けるべきでもないですよ。2018年の日本の合計特殊出生率は1.42。このまま少子化が進めば、若者が少なく高齢者が多い社会構造が続き、様々な問題に発展します。国として出生率を上げる取り組みは必要でしょう。ただ、どんな手を打ったとしても、今すぐ急激に上昇するとは考えにくい。出生率がゆるやかに上昇し、やがて人口が下げ止まって横ばいになる時代を目指しつつ、当面は人口が減少していくことを前提に社会を考えるべきでしょう。
――急激な人口増加が特殊な時代だったと捉えると、むしろ人口が減ることで解消される問題もあるのではないでしょうか。
そうですね。人口減少は、日本が高度経済成長期に生んでしまった”歪み”を解消するチャンスです。たとえば、東京一極集中。地方から東京への人口移動がもっとも大きかったのは1960年代で、”集団就職”という言葉が象徴するように、全国から多くの若者が東京に働きに出ていき、地方は過疎化。現代の地域格差を引き起こしました。
この課題に対して、私も参加した日立京大ラボの研究では、AIを活用した「2050年の日本の持続可能性」についてシミュレーションを実施しました。そこでは「社会を都市集中型か地方分散型のいずれに進めるか。それが日本の未来にとってもっとも本質的な分岐点になる」という結果が出ています。
それと同時に、格差・健康・幸福度といった観点で見ると、地方分散型の方が望ましいという予測がはじき出されました。このことからも、人口減少時代は都市集中型の社会モデルを見直すチャンスだととらえています。
一致団結で山登りをしていた時代から、山頂の平原で自由に遊ぶ時代へ
――広井先生は、日本が人口増加期に都市集中型の社会を加速させ、高度経済成長を実現したことを、「集団で一本の道を上る時代だった」と例えられています。人口減少時代に突入した今の社会で「多様性」が重視されはじめたことは、この一本道とは真逆の現象ですが、この状況をどうお感じですか。
人口増加期は、「みんなで一致団結して経済的な豊かさを実現する」という時代で、集団で山の頂上へ急いで上るようなものでした。それに対して、人口減少時代はいわば山頂に上った後の時代だと考えられます。
山の頂上にたどり着いたのなら、各自が好きなように過ごしても良いし、下り道は360度の方向に開かれており,道は人それぞれですよね。今の日本は、成長社会の先にある「ポスト成長社会」や「成熟社会」とも呼ばれる時代に移行しているのです。
「多様性」という言葉が近年よく言われますが、現状は「なぜ多様性が大切なのか」を深く考えないままに動いている印象が強い。周りがそう言っているから、海外ではそうだからと動いてしまうのは、まさしく人口増加時代に一本道を上ることで生まれた”同調圧力”です。「忖度」「空気を読む」などといった言葉が流行するように、今はまだ人口増加時代の価値観から人々が完全には解放されていない、過渡期なのでしょう。
真に多様性を認め合えるように、私たちの価値観が変わるにはどうしたら良いでしょうか。
希望を込めて言えば、現代の若者たちの「ゆるく繋がる」動きに注目しています。つまり集団の枠を越えて人と人が個人として繋がっていく。家族や学校・会社といった既存の集団だけでない、新しいコミュニティが百花繚乱のように生まれています。
家と仕事の往復だけだった人口増加時代とは明らかに異なる動きで、様々なコミュニティに属することは多様な価値観の肯定にも繋がるはずでしょう。また、これは日本とりわけ人口過密な東京都心で顕著な「社会的孤立」を解消するヒントだとも考えられます。
――たしかに、東京は人が多く物理的には近いはずなのに、マンションの住人同士でも挨拶をしないほど繋がりは希薄ですね。
これも人口増加時代が生んだ現象で、なぜなら戦後の日本人が信じてきた心の拠り所は、経済成長ただ1点だったからです。それが、会社の終身雇用が崩れ従来の共同体が流動化したときに、集団の枠を越えて人と共感しあえるような他の心の拠り所を持っていないから、より一層孤立してしまうんです。
――どうしたら集団の枠を越えて繋がれるような心の拠り所を持てますか。
今日本の各地で個人・NPO・企業が連携した地域再生の動きが出ていますよね。彼らは持続可能な社会を実現するためという、従来の利益至上主義ではない思想でコミュニティを形成しています。
そうした集団の枠を越えたつながりや拠り所を考える場合に、私は「自然」がひとつのポイントになると思っています。これは、日本で古来より存在していた自然信仰とも共通点が多い。私は「鎮守の森コミュニティプロジェクト」という企画をささやかながら進めていて、「鎮守の森コミュニティ研究所」を運営しています。
「八百万(やおよろず)の神様」という発想ですが、いわゆるパワースポットへの関心もあってか、各地の神社などを訪れると、意外にも高齢世代より若者の姿を多く見かけます。人口減少時代とはそうした伝統文化をもう一度発見していく時代でもあると思います。
経済的な豊かさだけを追求しても、結果的に豊かになれない時代
――今のお話にもあったように、SDGsをはじめ「持続可能性社会」への転換の必要性がここ数年で強く叫ばれるようになりました。その一方で、人口増加期の価値観のもとに育った私たちは、分かってはいても経済的な豊さや利便性を優先しがちです。それが人口減少を悲観的にとらえることにも繋がっていると感じるのですが、こうした発想を転換するにはどうしたら良いでしょうか。
人口増加時代に構築された社会モデルのバラドックスを、私たち自身が自覚した方が良いでしょうね。先に挙げた日立京大ラボのAIシミュレーションで、地方分散型が望ましいと導き出された根拠の一つは、全国の都道府県の中で「東京が群を抜いて出生率が低い」という事象でした。つまり、日本のGDPを牽引しているはずの東京が、中長期的には労働人口を減らしGDPを下げる要因になっている。
「Japan as No.1」と呼ばれていた時代は、人口が増えていく=生産や消費のパイが自然と増えていくからこそ、大都市にあらゆるリソースを集中させ経済成長を最優先することがすべての問題を解決してくれるという発想でした。しかし、その成功体験はもはや今の時代のお手本にはならないのです。
――経済的な豊かさのみを追求すると、巡り巡って経済が低迷する。一つのゴールに向かってみんなで走ってきた時代とは大きな違いですね。
そうですね。私はそういった意味でも、人口減少時代は個人がのびのびと自由に多様な幸福を追求すべき時代だと考えています。また、人生100年時代と言われていますが、”生涯現役”とは何も一生労働を強いられることではないはず。会社人間という発想にとらわれず、ライフステージの移り変わりとともに各自がいろんな活動に進んでいくような、”ハッピーリタイアメント”がもっと広がってもいいはずです。
また学生を見ていても、人口減少時代の若者は都心一極集中の負の側面に気づき、ローカル志向を持つ人が増えています。特に地元志向の強い高学歴層が増えたのは、上の世代との明らかな違いでしょう。かつては都心から地方への移住といえば50~60代が中心でしたが、最近では20~30代の希望者が増えています。こうした点を含めて、人生における個人の自由度が広がり肯定されるのが、人口減少時代にあるべき幸福の形ではないでしょうか。
人口減少社会のデザイン
by 広井良典
「都市集中型」か、「地方分散型」か。
東京一極集中・地方衰退→格差拡大→財政は改善?
地方への人口分散→格差縮小・幸福感増大→財政は悪化?
果たして、第3の道はあるのか。
2050年、日本は持続可能か?
「日立京大ラボ」のAIが導き出した未来シナリオと選択とは。
借金の先送り、格差拡大、社会的孤立の進行・・・…
転換を図るための10の論点と提言。
「集団で一本の道を登る時代」―昭和
「失われた30年」 ―平成
そして、「人口減少社会」 ―令和 が始まった
「拡大・成長」という「成功体験」幻想を追い続け、「先送り」されてきた、「持続可能な社会」モデルを探る。
社会保障や環境、医療、都市・地域に関する政策研究から、時間、ケア、死生観等をめぐる哲学的考察まで、ジャンルを横断した研究や発言を続けてきた第一人者による10の論点と提言
1 将来世代への借金のツケ回しを早急に解消
2 「人生前半の社会保障」、若い世代への支援強化
3 「多極集中」社会の実現と、「歩いて楽しめる」まちづくり
4 「都市と農村の持続可能な相互依存」を実現する様々な再分配システムの導入
5 企業行動ないし経営理念の軸足は「拡大・成長」から「持続可能性」へ
6 「生命」を軸とした「ポスト情報化」分散型社会システムの構想
7 21世紀「グローバル定常型社会」のフロントランナー日本としての発信
8 環境・福祉・経済が調和した「持続可能な福祉社会」モデルの実現
9 「福祉思想」の再構築、“鎮守の森”に近代的「個人」を融合した「倫理」の確立
10 人類史「3度目の定常化」時代、新たな「地球倫理」の創発と深化
「政府の借金」というと、どこか“他人事”のように感じる人も多いのだが、要するに、私たちは医療や年金、福祉などの社会保障の「給付」は求めるが、それに必要なだけのお金(=税や社会保険料)を払おうとせず、その結果、将来世代に膨大な借金をツケとして回しているのだ。
これは、持続可能性という観点からも真っ先に注目すべき事実だろう。そしてそれは世代間の公平という観点、あるいは“子や孫に借金を残すのは避けるべきだ”という、日本人が本来もっていた(はずの)倫理から見ても、最優先で取り組むべき課題だと私は思う。
加えて、日本がこうしたことを続けてきた背景には、アベノミクスにも象徴されるように、“増税などを急がなくても、やがて「景気」が回復して経済が成長していくから、税収はやがて自ずと増え借金も減っていく”という、高度経済成長時代に染みついた発想を今も根強く引きずっているという点があるだろう。
端的に言えば、かつて「ジャパン・アズ・ナンパーワン」とまで言われた“成功体験”に由来する、「経済成長がすべての問題を解決してくれる」という思考様式である。本書のテーマである「人口減少社会のデザイン」において重要なのは、まさにこうした「拡大・成長」型の思考、あるいは“短期的な損得”のみにとらわれ長期的な持続可能性を後回しにする発想の枠組みから抜け出していくことにある。
。。。
高度成長期を通じて貧困世帯は一貫して減っていったわけだが、90年代の半ばというのが日本社会のある種の転換期のような時代となっており、1995年を谷として生活保護を受ける人の割合は増加に転じ、その後も着実に増えていった。
ある意味でこれは氷山の一角であり、生活保護に至らずとも、生活が困窮していたり、あるいは非正規雇用を含めて雇用が不安定であったりする層が着実に増加している。また、本書の中であらためてくわしく見ていくように、日本においては若者に対する社会保障その他の支援が国際的に見てきわめて手薄であることも手伝って、特に若い世代の雇用や生活が不安定になっている。そしてそのことが未婚化・晩婚化の背景ともなり、それが出生率の低下につながり、人口減少をさらに加速させるという、悪循環が生まれている。「人口の持続可能性」をめぐる困難と、かつて“一億総中流”と呼ばれた構造の侵食が並行して進んでいるのである。
。。。
現在の日本は持続可能性という点において相当深刻な状況にある。そして、「2050年、日本は持続可能か」という問いをテーマとして設定した場合、現在のような政策や対応を続けていれば、日本は「持続可能シナリオ」よりも「破局シナリオ」に至る蓋然性が高いのではないか。
「破局シナリオ」とはあえて強い表現を使ったものだが、その主旨は、以上に指摘したような点を含め、財政破綻、人口減少加速(←出生率低下←若者困窮)、格差・貧困拡大、失業率上昇(AIによる代替を含む)、地方都市空洞化&シャッター通り化、買物難民拡大、農業空洞化等々といった一連の事象が複合的に生じるということである。上記のように、昨今のような政策基調のもとではこれらが生じる蓋然性は相当程度高いと思われるし、実際、このテーマで学生にレポートを書かせたことがあるが、日本社会の持続可能性について悲観的な見通しを記すものが予想以上に多かった。
。。。
2050年に向けた未来シナリオとして主に「都市集中型」と「地方分散型」のグループがあり、その概要は以下のようになる。
(a)都市集中型シナリオ
主に都市の企業が主導する技術革新によって、人口の都市への一極集中が進行し、地方は衰退する。出生率の低下と格差の拡大がさらに進行し、個人の健康寿命や幸福感は低下する一方で、政府支出の都市への集中によって政府の財政は持ち直す。
(b)地方分散型シナリオ
地方へ人口分散が起こり、出生率が持ち直して格差が縮小し、個人の健康寿命や幸福感も増大する。ただし、次項以降に述べるように、地方分散シナリオは、政府の財政あるいは環境(CO2排出量など)を悪化させる可能性を含むため、このシナリオを真に持続可能なものとするには、細心の注意が必要となる。
。。。
私はアメリカに80年代の終わり2年間と2001年の計3年ほど暮らしたが(ボストン)、アメリカの都市の場合、まず街が完全に自動車中心にできており、歩いて楽しめる空間や商店街的なものが非常に少ない。しかも貧富の差の大きさを背景に治安が悪いこともあって、中心部には(窓ガラスが割れたまま放置されているなど)荒廃したエリアやごみが散乱しているようなエリアが多く見られ、またヨーロッパに比べてカフェ的空間などのいわゆる「サード・プレイス(職場と自宅以外の居場所)」も少なく、街の“くつろいだ楽しさ”や“ゆったりした落ち着き”が欠如していると感じられることが多い。
日本の場合、第二次大戦後は道路整備や流通政策を含め“官民挙げて”アメリカをモデルに都市や地域をつくってきた面が大きいこともあり、その結果、残念ながらアメリカ同様に街が完全に自動車中心となり、また中心部が空洞化している間合いが多いのが現状だ。
。。。
重要なことは、これは「人口減少」が必然的にもたらす帰結なのではなく、公共政策や経済社会システムのありようの問題であるという認識である。
戦後の日本社会は、高度成長期の前半期には「工業化」という方向を国是とし、農村から都市への人口大移動を促すような政策を行っていった。
地方都市の中心市街地や商店街にとって決定的だったのは、1980年代ないし90年代以降の政策展開であり、建設省(当時)の道路・交通政策に通産省(当時)の流通政策も加わる形で、アメリカン・モデルをなぞるように“郊外ショッピング・モール型”の都市・地域像が志向されていった。
皮肉なことに現在の日本の地方都市の空洞化は、国の政策の“失敗”の帰結なのではなく、むしろ政策の“成功”、つまり政策が思い描いたような都市・地域像が実現していった結果という側面をもっている。
島と重ねる『人口減少社会のデザイン』【特集|離れていてもつながりあえる集まれ!島想い】
ritokei(離島経済新聞社)
https://ritokei.com/pickup/k34_17
日本に約400島余りある有人島のほとんどは1955年以降、人々が減り続け、2040年には現在の半数近くまで減少する予測もある。経済や文化、暮らしの灯がゆらぐ島もあるなか、島や日本、あるいは世界の持続可能性を追究する論に島々を重ねてみたい。ここでは『人口減少社会のデザイン』を紐解きながら、著者である京都大学教授の広井良典氏にお話を伺った。
島と重ねて考える『人口減少社会のデザイン』
2050年、日本は持続可能か? そんな疑問を起点に行われた研究が2017年に公開され反響を呼んだ。
それは、日本が持続可能であるために、今後とられるべき政策のヒントをAI(人工知能)が2万通りの将来シミュレーションから導き出すというもの(※)。『人口減少社会のデザイン』は、同研究に携わる広井良典氏が、独自の視点で日本の課題や未来への展望を記す。
※ 日立京大ラボが行なった「AIの活用により持続可能な日本の未来に向けた政策を提言」
もとは都市や地域における公共政策や社会保障、死生観をめぐる哲学的考察など幅広い分野で研究を行ってきた広井氏。多様なテーマで社会を見つめるなか、浮き上がってきたのは、先進諸国の中でも随一に高い「社会的孤立」に悩む人々や、地方に増える空き家やシャッター通り、農村の空洞化や人口減少、少子化など。出口のないトンネルを進むような今の日本は、皮肉にも「国の政策の“失敗”ではなく“成功”が生んだ姿」であると広井氏は指摘する。
「これまでの政策が目指した、いわば郊外ショッピングモール型の都市や地域のありようと現状の評価を冷静に分析し、直視しなければ、新たな展望は開けません」という広井氏は、一方で「希望をこめて言えば、私たちは政策の転換を通じて、より望ましい都市や地域のあり方を実現していける」と語る。
では、前述のAIは望ましい未来をどのように示したのだろう。人口や地域の持続可能性、格差や健康、文化面から総合的に未来の持続可能性を判断したAIは、日本が目指すべき道を「地方分散型の未来」と示した。「私自身、意外だったのは『東京一極集中に象徴されるような日本の未来』と『地方分散型の未来』という選択肢が、未来を持続可能にするための本質的な分岐であったことです」。
ちなみに、地方分散を進めるにも「持続可能な方法とそうでない方法」があり、持続可能な地方分散の例としてドイツの町村が挙げられる。「日本では人口20万人以下の地方都市は空洞化しシャッター通りになっていますが、ドイツは人口1〜5万人の町やそれ以下の規模の村にもにぎわいがある。そのにぎわいは実は日本でも昔は見られたものです」。
広井氏はより良い地方分散のイメージを「多極集中」という言葉で言い表す。想像するなら、日本列島の各地に「極」を持つコミュニティが点在し、それぞれの極に人が集い、にぎわう姿。その一つひとつに個性豊かな風土があり、社会的孤立とは対極の人と人のつながりや支え合いが存在する、持続可能な社会である。
広井氏は日本を持続可能にしていく方法を同著に記すが、なかでも「都市と農村の非対称性に対して、持続可能な相互依存のために再分配の新しい仕組みが必要」である点は、島の未来づくりに重ねたい。
岡山の商店街に生まれ、父親の実家が農家だったという広井氏は、ふるさとの姿と重ねながら「都市と農村の関係は、放っておくと農水産物が安く買い叩かれて都市が有利になる不等価交換の関係にある」という現実を語る。「財政的には都市が自立しているように見えますが、マテリアルフロー(※)から見ると都市は農山漁村に依存しているので、この状況が続けば持続可能にはなりません」。
※ 特定の地域で一定の期間内に投入される物質の総量、地域内での物質の流れ、地域外への物質の総排出量を集計したもの
つまり、島を含む日本各地の農村が細れば日本の持続可能性は低くなり、反対に、島を含む農村が活気づけば日本の持続可能性も高まるというわけだ。では、そのために何が必要かといえば、広井氏はそのひとつを「都市と農村の持続可能な相互依存を実現するさまざまな再分配システムの導入」という。
具体例を挙げるなら、近年定着しつつあるクラウドファンディングやふるさと納税、産直ECサイトなどもそのひとつかもしれない。広井氏も「特産物の販売サイトの中には、いわば国内版フェアトレードと呼べるようなエシカルコンシューミング(※)もありますね」と話し、都市と農村という優劣のつきやすい場所に住む人同士が、フェアに支え合える新しい仕組みに期待する。
※ 社会や環境に配慮した購買行動
離島地域には詳しくないと話す広井氏だが、数年前から交流のある島の若者たちとのやりとりを通じて「島の方がオンラインを使いこなしていることに驚いた」と言う。「コロナ禍でオンラインが浸透し、遠隔でもコミュニケーションがとりやすくなったので、以前に比べて不便さやデメリットは解消されるでしょう」。ただし、「ITは(人と人のつながりを)加速させているかもしれませんが、それは手段であって、より重要なのは、集団で(東京一極集中のような)一方向へ向かうのではない価値観が強まっていること。ITはそれらを補助するものです」。
ICTは、島外の世界との間に海が隔たる離島地域を支える期待の技術であり、コロナ禍によって、人と人が直接ふれあえない状況も支えてくれた。それらは都市と農村の「再分配システム」ともなりうるが、人々が直接つながり、支え合えることのバランスも欠いてはならない。なぜなら、広井氏曰く、人と人とのつながりの質こそが、人間の「幸せ」に直結するからだ。
同書には国や地域における人々の平均的な「幸福度」を左右する要因として、「コミュニティのあり方(人と人との関係性やつながりの質)」「平等度ないし格差(所得・資産の分配のあり方)」「自然環境とのつながり」「精神性、宗教的なよりどころ等」の4つが紹介されている。大小あれど、これらは日本の島々には比較的多く存在しているのではないだろうか。人間の幸せと、島と日本の持続可能性はいずれもイコールである。そのために必要な事柄を、同書は教えてくれる。
2024年4月5日(金)
来るべき社会
今週の書物/
『人口減少社会のデザイン』
広井良則著、東洋経済新報社、2019年刊
もう10数年前にポール・ケネディが書いた「世界中で最も魅力のない求人広告」が、いま読んでも面白い。
というように、日本の経営と改革という不可能なミッションが書いてある。そんなことは誰もやりたがらないかと思いきや、日本の内閣総理大臣になりたいという政治家は多い。
予算の多くは借金の返済と社会保障に費やされ、まともなことをしようにも手段がない。利率が上がれば政府の借金がかさむから、中央銀行は利率を上げることができない。過疎化が進んでいるとかシャッター通りが増えているというようなことは、もはやニュースではないし、経済再生という言葉はただの呪文と化している。
「追いつけ追い越せ」だった日本は、いつの間にか「追いつかれ追い越され」になり、少子高齢化の中、意味のない国の支出が増大し続けている。高度経済成長が再び訪れることはないし、一億総中流は幻想でしかなかった。低成長が続き、中間層でさえ暮らしを確保することに汲々としている。。
若い人たちのなかに、国のことに興味を持つ人は少ない。「国のため」などと言う発想は、もう誰も持たない。欲望も少ない。結婚をしない、子供を産まない、消費をしない。家もクルマも欲しがらない。米屋や八百屋が消え、酒屋や本屋が減っていったように、デパートやスーパーも危機に瀕している。不動産業者やクルマのディーラーが消えてゆくのも時間の問題だろう。
多くの人たちが、産業の衰退を、それぞれの会社の実力のせいだとは思いたくないし、教育が時代に合わないせいだとも思いたくないし、ましてや政策の失敗だとは思いたくないから、が産業の衰退の原因を、人口の減少のせいにする。人口減少で経済が縮小する。人口減少で労働力が不足する。人口減少で社会保障制度が維持できなくなる。なんでもかんでも人口減少のせいになる。
都合よく災害がくれば、産業の衰退は災害のせいになるのだろうが、災害はそうは都合よくやってこない。とりあえず、人口減少がスケープゴートになり続ける。でも、人口減少は、ほんとうにそんなに悪いことなのだろうか。
そもそも、人口減少は日本だけに起きるわけではない。韓国や中国の人口はすでに減り始めているし、近い将来にインドネシアやインドでさえ人口が減り始める。人口は一旦減り始めると、とめどなく減り続ける。世界中で、人口はどんどん減る。
減ってゆくのを悪いこととしてとらえて抵抗しても、減るものは減る。移民を受け入れても、うまくはいかない。たくさん働いても、努力しても、人口減少は止まらない。抵抗しても無駄。減ってゆくのを受け入れるしかないのだ。
受け入れるしかないのなら、人口減少を悪いこととして捉えたりせず、よいこととして捉える。増えているときに沁みついてしまった論理を見直し、新しい論理を見つける。企業の収益は増えて行かない。パイは大きくならない。税収は減り続ける。公務員の数は減り続ける。そういったことを受け入れる。
仕事はAIに任せ、あまり働かない。努力しない。競争しない。バランスをとることに重点を置く。そんな変化が必要なのかもしれない。私たちが慣れ親しんだ社会が、まったく違う社会になるのかもしれない。
で今週は「人口減少に関する漠然とした考えを、はっきりしたものにしてくれるかもしれない」一冊を読む。『人口減少社会のデザイン』(広井良則著、東洋経済新報社、2019年刊)だ。人口減少社会をポジティブに捉えた本ということで、手に取った。拡大や成長にこだわらず、持続可能な社会を目指すために、何をしていったらいいのか。それを提言というかたちで書いた本だという。
書いてあることは、そう難しくない。複雑でもない。にもかかわらず、すんなりとは受け入れられない。なぜか? それは、私たちが身に着けてしまった「あたりまえ」を根底から覆されるから。私たちがやってきたことと正反対のことをしろと言われるから。そして、未知の世界に入っていくことが不安だから。いや、全部違う。何かが違うのだ。
広井良則は、私たちの「増税などを急がなくても、やがて「景気」が回復して経済が成長していくから、税収はやがて自ずと増え借金も減っていく」という考えが間違っていると言う。高度経済成長時代に染みついた考え方を今でも根強く引きずっているというのだ。私たちは「経済成長がすべての問題を解決してくれる」という思考様式から抜け出せていない。そんな論理展開はしごくまっとうだ。
広井良典の「10の提言」は以下のようなものだ。
それぞれの論点について「ふむふむ」と思いながら読み続けたが、はて、これで、本当に持続可能な社会が実現するのだろうかと考えると、まことに心もとない。なぜだろうか?
まず、国の政策というものについての過剰な評価がある。広井良典は「高度成長期の前半期には工業化を国是とする政策によって、農村から都市への人口大移動が起こった」とか「1990年代以降の政策によって、地方都市の空洞化が起こった」というような論理展開をするが、農村から都市への人口移動や地方都市の空洞化の原因は国の政策なのだろうか。私には、国の政策がそんなに大きな力を持っているとは思えない。
次に、デジタルトランスフォーメーションについての記述がないことがある。AI 、ブロックチェーン、ビッグデータ、IoTといった技術革新をビジネスに結びつけることができなければ、これからの競争からは脱落してゆかざるを得ない。技術革新についてゆくことが出来る人がいなければ、その社会に将来はない。
デジタルトランスフォーメーションがなくても、それに代わるものがあればいいのだが、それもない。そもそも、培養肉を積極的に取り入れていくのかどうか、細胞農業を容認するのかどうか、そういうことが、はっきりしていない。「近代的個人を融合した倫理」とか「定常化時代に合った新たな地球倫理」などと「倫理」をいうのなら、遺伝子操作を認めるのか認めないのかを、まず、はっきりしてほしい。
iPS細胞の倫理的・法的・社会的問題を議論し尽くすことなく、iPS細胞のいい面ばかりに目を向けていっていいのだろうか。同じことが培養肉についても細胞農業についても言える。社会が倫理的合意なしで間違った方向に進めば、待っているのは破滅だ。
日本の社会が今必要としているのは、広井良典が本のなかで書いているような綺麗ごとの倫理ではなく、もっと根源的な生命倫理であり、倫理に関する社会的合意ではないだろうか。
この本を読んで、人口減少に対する私の考えが大きく変わった。広井良典が書いたこととはだいぶ違うのだが、著者が意図しない方向に読者が導かれるというのも、読書の醍醐味だろう。以下にこの本のおかげで持つに至った私の考えを書く。
人口減少は必要だ。可能だ。そして間違いなくいいことだ。でも、うまく減少してゆくのは容易ではない。飢餓や貧困や疫病による大量死亡を避けることができるか。水や食糧をめぐっての紛争や戦争を避けることができるか。労働力の不足、社会保障の財政破綻、経済のマイナス成長などをひとつひとつ解決しながら、持続可能な人口になるまでの何百年もの減少期間をどう生き延びてゆくのか。それは決して容易なことではないはずだ。
人口増加も簡単ではない。例えば、サハラ以南のアフリカでは、今でも人口が増加し続け、そのせいで食料が不足し、ほとんどの子供が満足な教育を受けられず、成人しても仕事が見つからず、社会は安定から程遠い。誰も環境の保護とか人権の擁護などを考える余裕を持っていない。
人口減少も人口増加も容易ではない。要は人口減少や人口増加にどう向き合っていくか、どう対処してゆくかだ。
人口減少は避けられそうにない。だとしたら、どういう社会システムを作ってゆくのかを真剣に考えなければいけない。人口増加に合った社会システムが、人口減少に合うわけがない。だから、まったく違う社会システムを編み出さなければならない。それは「歩いて楽しめるまちづくり」などということではない。
人口減少とともに私たちが直面している危機は、とても大きい。広井良典の「10の提言」のような、まるで日本の学生たちが考えそうな提言では、とても乗り越えられないくらいような危機が迫っている。人口減少を甘く見てはいけない。
(追記)
内閣府や厚生労働省のウェブページを見ていると、「人口減少克服」とか「少子化対策」とかいう言葉が多く出でくるが、そのほとんどが「人口減少に歯止めをかける」と「生活基盤を維持する」いう意味あいを持っている。まるで「人口減少の流れを止めろ」という号令が聞こえてくるようだが、「産めよ殖やせよ」の号令に似て、気持ち悪いことこの上ない。「国家主義が薄れ、人口が減少してゆく」なかで、「国家主義を復活させ、人口をもう一度増加させよう」というのは、時代錯誤ではないか。
国家主義の時代が終わりにきているということを受け入れ、人口減少を受け入れる。そういう態度や考え方に立って政策を立案してゆかなければ、何も解決できない。政治や行政の立場からは、なかなか出てこない考え方かもしれないが、「人口減少社会においては、全体主義的な考え方がとても危険だ」ということは、多くの人口学の専門家が指摘している。
幸いなことに、今の若い人たちは、「国が強いか」「国が豊かか」というようなことにはあまり興味を示さない。若い人の興味は「自分に何ができるか」「自分が暮らしていけるか」ということにあり、「社会のために」と考える人はいても「国のために」と考える人は少ない。政治や行政が何を言っても、全体主義的な傾向は薄れていくといっていいだろう。
だとすれば、なおさら、人口減少時代に合った政策が必要になってくるのではないか。人口減少時代に合った教育や経済システムは、今の教育や経済システムとは違うはずだ。「人口減少に歯止めをかける」や「生活基盤を維持する」というような政策ではなく、「富の分配を再構築する」や「働く意味を問い直す」というような政策を立案していかなければ、将来は見えてこない。
(追記2: 尾関さんへ)
尾関さんが長年にわたりなさってきていた「一週間に一度、書評を発表する」ということが、どれだけ大変なことか。自分でやってみて、その大変さがわかりました。
読み始めた時に考えていたことと、読んでいるときに考えたことと、そして読んだ後に考えたこととが混じり合い、収拾がつかなくなくなったり。。 焦点が定まらず、話題があちこちに飛んでしまったり。。 そんなことがあっても、読んだ後の数日では、それを整えることができない。推敲する時間がないどころか、文章に手を入れる時間すらない。
尾関さんは、そんなことを、いとも簡単にやってきた。そう思うと、自然と頭が下がります。
早く「めぐりあう書物たち」を再開し、また私たちを楽しませてください。心からのお願いです。
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