エリートという言葉に嫌悪感を持つ人は多い。でも私としては、もともとエリートという言葉は、何らかラッキーなものを持つ人は、その力を他の人たちのために活かしていくことができる人たちである、というところから来た言葉であることにこだわった。
それに、全ての人に「グローバルに働ける人材になれ!」というのは、ちょっと嘘ではないか、と思ったのだ。全ての日本人が、多様な文化的背景を持つ人々と働いて、その彼らの能力を活かして、仕事をしていくことが出来るわけではない。努力は必要だが、その努力が出来る環境にある人、小さな頃から教育の機会を与えられた人、若いときからグローバルな環境で働くことが出来て、その力がついている人のほうが、グローバルに活躍するのにはギャップが少ないだろう。
ノブリス・オブリージュという言葉があるように、教育や仕事の上での機会を与えられ、グローバルに働く能力がある人は、その力を発揮してグローバルに活躍することで、そうでない人の雇用を生み出したり、社会的基盤を支える屋台骨としての日本経済に貢献したりすることが求められるのではないか。
グローバルな環境で働くことを楽しいと思うグローバル・エリートたちが増えることが、ひいては日本経済の再成長につながっていくと思っている。
グローバル・エリートの時代 個人が国家を超え、日本の未来をつくる
by 倉本由香利
「エリート」という言葉に嫌悪感を持つ人は多いらしく、このタイトルが決まった後も、「エリート」という言葉の部分に引っかかる方、「そういう面白い内容だったら何故エリートという言葉を使ったの?」といって下さる方、たくさんの人にあった。でも私としては、もともと「エリート」という言葉は、何らかラッキーなものを持つ人は、その力を他の人たちのために活かしていくことができる人たちである、というところから来た言葉であることにこだわった。
それに、全ての人に「グローバルに働ける人材になれ!」というのは、ちょっと嘘ではないか、と思ったのだ。全ての日本人が、多様な文化的背景を持つ人々と働いて、その彼らの能力を活かして、仕事をしていくことが出来るわけではない。努力は必要だが、その努力が出来る環境にある人、小さな頃から教育の機会を与えられた人、若いときからグローバルな環境で働くことが出来て、その力がついている人のほうが、グローバルに活躍するのにはギャップが少ないだろう。
ノブリス・オブリージュ(noblesse oblige : 何らかの特権を持つ人々は持たない人々に対して貢献をしなくてはならないという考え方)という言葉があるように、教育や仕事の上での機会を与えられ、グローバルに働く能力がある人は、その力を発揮してグローバルに活躍する(グローバルに出稼ぎする)ことで、そうでない人との雇用を生み出したり、社会的基盤を支える屋台骨としての日本経済に貢献したりすることが求められるのではないか、と思っている。言ってみれば「現代版出稼ぎ」を、その能力がある人がやるべきだと思っている、ということだ。
それから「グローバル・エリート」はこの現代社会においては、そこまで選ばれた存在ではない。先ほども書いたように、別に「リーダー」である必要はなく、色んな文化の人たちと抵抗なく働けて、日本の技術やサービスをトレーニングしたり、広めたり、営業したり、新興国の人たちの力を活かして何かを作ったり、そういうことが出来る人全般を指している。豊かな国である日本には、努力さえすれば、そういうことが出来るポテンシャルを持つ人がたくさんいる。
もっとも、グローバル・エリートたち自身は、別に「ノブレス・オブリージュ」みたいな義務感を持って働く必要は必ずしもない。いろんな国の人たちに出会って、苦労しながらも色んな学びを得ていくのは楽しいことだ。そうやってグローバルな環境で働くことを楽しいと思うグローバル・エリートたちが増えることが、ひいては日本経済の再成長につながっていくと思っている。
優等生の考えることは、いつも、どこでも、同じ。