自分の命は、祖先からお預かりしている命であり、また、将来に伝えるべき命でもある。決して自分だけのものではない。日本人は、永くこう考えてきたのだ。しかし最近は、こう考えていない日本人が実は多いのではないだろうか。自分は自分、親は親、子どもは子ども――それぞれが独立した人格であると考える日本人が多数なのではないだろうか。
これは、よく考えてみれば不思議なことなのだ。先人たちが永く伝えてきたことを止めてしまう。本来こんなことはあってはならないことではないだろうか。なぜかと言えば、私たちは永く”中今“を生きるという生き方を続ける中で、そうすることが快適であるという情報が遺伝子に刻み込まれているはずである。
それに反して生きるのは、我々日本人には、辛いことかも知れないからだ。
“中今”を生きる
by 宮田修
月刊誌『武道』
2012年9月号
Vol.550
命は先祖から代々、リレーのようにつながっている。その中の今の命。受け継いだ命を、自分で縮めてはいけない。次に伝える命なんです。
命は、自分のもののようであって、借り物。先祖から受け継いで、それを次に受け渡し、伝えるものなんです。
過ぎ去った過去を悔やまず、これからの未来を思い悩まず、今、この一瞬一瞬を大切に生き抜く。
はるか神代の昔から、続いてきた時の流れの中で、今、この時を、意識し、尊重する。
抜萃のつづり その七十二
宮脇保博編集
クマヒラ/熊平製作所
(2013/01/29)
(sk)
残念ながら、「そうすることが快適であるという情報」は、私の遺伝子には刻み込まれていない。
私には、「それぞれが独立した人格であると考える」というほうが、快適だ。
宮田修は「我々日本人」などと言うけれど、はたして「日本人」のことを、そしてその歴史を、どれだけ知っているというのだろう。
自分が日本人だと、なぜ言えるのか。自分の親をたどっていけば、朝鮮人にたどり着くかもしれないし、中国人にたどり着くかもしれない。エスキモーかもしれないし、ポリネシア人かもしれない。
江戸時代の終わりに、江戸は空っぽになった。その空っぽの場所に東京が作られ、ついでに歴史や伝統が作られ、日本が作られた。たまたまそこにいた人が日本人だということになった。ただそれだけのことなのではないか。
日本人の遺伝子などというものは、どこにもない。私は日本のパスポートを持っているが、私の遺伝子はエスキモーと、ポリネシア人と、そして朝鮮や中国の人たちから来ていると感じている。
私は親のことも、子のことも、そうは身近に感じていない。私には、同世代を生きる人たちのほうが、よっぽど身近に感じられる。