緑が丘の旧邸の頃は、家の奥で先生 (三島由紀夫) の、「お母さまあ」と呼びかける声がしたり、母堂が風邪気味の先生の喉に薬を塗ろうと追いかけるのを、お手伝いさんの背を楯に逃げ廻ったり、雅びな少年の名残が、家の中まで鬱蒼とした感じの、小暗い隅に影を落としている気配があったのだが、馬込の新邸はガラリと変わった。
緑が丘の旧邸の頃は、家の奥で先生 (三島由紀夫) の、「お母さまあ」と呼びかける声がしたり、母堂が風邪気味の先生の喉に薬を塗ろうと追いかけるのを、お手伝いさんの背を楯に逃げ廻ったり、雅びな少年の名残が、家の中まで鬱蒼とした感じの、小暗い隅に影を落としている気配があったのだが、馬込の新邸はガラリと変わった。
作家の風景
by 小島千加子
小島千加子は「新潮」の編集者(1948年-1988年)として数々の作家と関わりを持った。
三島由紀夫とも「金閣寺」連載(1955年)の頃から最後(1970年)まで深く関わった。
三島の最後の原稿を受け取った編集者として知られている。
三島由紀夫は、1959年4月にあの有名な馬込の「大森鹿鳴館」に引越すまで、東京都目黒区緑が丘2丁目に住んでいた。
引越しの前年、1958年6月に画家杉山寧の娘瑤子と結婚した時には、本籍を兵庫県印南郡志方町上富木から東京都目黒区緑ヶ丘2丁目に移している。
四谷の三島邸がそうだったように、緑が丘の三島邸も坂の上にあり、玄関左横にあった和室には様々な人たちが寝泊まりしたようだ。その部屋はその後改装され、「西田幾多郎全集」などの並ぶ、立派な書斎になっていた。
『潮騒』(1954年) 、『金閣寺』(1955年)、『鹿鳴館 (戯曲)』(1956年)、『美徳のよろめき』(1957年)などはすべてこの緑が丘2丁目の家で書かれた。
この三島が住んでいた家は、25年ほど前に取り壊された。今はそこに、何軒もの家が建っている。