経済と言えば「資本主義」、政治と言えば「民主主義」。勝者を放置して徹底的に勝たせるのがうまい資本主義は、それゆえ格差と敗者も生み出してしまう。生まれてしまった弱者に声を与える仕組みが民主主義だ。暴れ馬・資本主義に民主主義という手綱を掛け合わせることで、世界の半分は営まれてきた。
二人三脚の片足・民主主義が、しかし、重症である。ネットを使って草の根グローバル民主主義の夢を実現するはずだった中東の多国民主化運動「アラブの春」は一瞬だけ火花を散らして挫折した。むしろネットが拡散する煽動やフェイクニュースは陰謀論が選挙を侵食。北南米やギャグのような暴言を連発するポピュリスト政治家が増殖し、芸人と政治家の境界があいまいになった。
ただの印象論ではない。今世紀に入ってからの20年強の経済を見ると、民主主義的な国ほど、経済成長が低迷しつづけている。
平時だけではない。コロナ禍の20~21年にも、民主国家ほどコロナで人が亡くなり、経済の失墜も大きかった。08~09年のリーマンショックでも、危機に陥った国はことごとく民主国家だった。「民主主義の失われた20年」とでも呼ぶべき様相である。
なぜ民主国家は失敗するのか? ヒントはネットやSNSの浸透とともに進んだ民主主義の「劣化」である。劣化を象徴するヘイトスピーチやポピュリズム的政治言動、政治的イデオロギーの分断(二極化)などを見てみよう。すると、そうした民主主義の劣化が今世紀に入ってから世界的に進んでいること、そしてその劣化の加速度が特に速いのが民主国家であることがわかった。
加速する劣化と連動して、民主国家の経済も閉鎖的で近視眼的になってきた。民主国家ほど未来に向けた資本投資が鈍り、自国第一主義的貿易政策が強まって輸出も輸入も滞っている。これらの要因が組み合わさって民主主義の失われた20年が引き起こされたようなのだ。
22世紀の民主主義 選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる
by 成田悠輔
若者が選挙に行って世代交代を促し、政治の目を未来へと差し向けさせよう。選挙のたびにそんな話を聞く。
だが、断言する。若者が選挙に行って「政治参加」したくらいでは何も変わらない。今の日本人の平均年齢は48歳くらいで、30歳未満の人口は全体の26%。全有権者に占める30歳未満の有権者の割合は13.1%。21年の衆議院選挙における全投票者に占める30歳未満の投票者の割合にいたっては8.6%でしかない。若者は超超マイノリティである。若者の投票率が上がって60~70代と同じくらい選挙に行くようになっても、今は超超マイノリティの若者が超マイノリティになるだけ。選挙で負けるマイノリティであることは変わらない。
若者自身の行動も追い打ちをかける。日本の若者の投票先は高齢者の投票先とほとんど変わらないという事実だ。20~30代の自民党支持率は、60~70代とほとんど同じかむしろ高い。ということは、若者たちが選挙に行ったところで選挙結果は変わらないし、政治家にプレッシャーを与えることもできない 。
もっと言えば、今の日本の政治や社会は、若者の政治参加や選挙に行くといった生ぬるい行動で変わるような、そんな甘っちょろい状況にない。数十年びくともしない慢性の停滞と危機に陥っており、それをひっくり返すのは錆びついて沈みゆく昭和の豪華客船を水中から引き揚げるような大事業だ。
具体的には、若者しか投票・立候補できない選挙区を作り出すとか、若者が反乱を起こして一定以上の年齢の人から(被)選挙権を奪い取るといった革命である。あるいは、この国を諦めた若者が新しい独立国を建設する。そんな出来損ないの小説のような稲妻が炸裂しないと、日本の政治や社会を覆う雲が晴れることはない。
私たちには悪い癖がある。今ある選挙や政治というゲームにどう参加してどうプレイするか? そればかり考えがちだという癖だ。だが、そう考えた時点で負けが決まっている。「若者よ選挙に行こう」といった広告キャンペーンに巻き込まれている時点で、老人たちの手のひらの上でファイティングポーズを取らされているだけだ、ということに気づかなければならない。
手のひらの上でいかに華麗に舞って、いかに考え抜いて選挙に行って、「#投票に行こう」とSNSに投稿したところで、今の選挙の仕組みで若者が超マイノリティである以上、結果は変わらない。ただの心のガス抜きだ。それを言ってはいけないと言われるけれど、事実なのでしょうがない。
これは冷笑ではない。もっと大事なことに目を向けようという呼びかけだ。何がもっと大事なのか? 選挙や政治、そして民主主義というゲームのルール自体をどう作り変えるか考えることだ。ルールを変えること、つまりちょっとした革命である。
革命を100とすれば、選挙に行くとか国会議員になるというのは、1とか5とかの焼け石に水程度。何も変えないことが約束されている。中途半端なガス抜きで問題をぼやけさせるくらいなら、部屋でカフェラテでも飲みながらゲームでもやっている方が楽しいし、コスパもいいんじゃないかと思う。
「民主主義と資本主義」奇妙な連携が破たんする日
もはやお荷物?民主主義はどうなってしまうのか
by 成田悠輔
https://toyokeizai.net/articles/-/608484
奇妙な提携である「資本主義」と「民主主義」
人類を突き動かすのは主義(ism)である。経済と言えば「資本主義」、政治と言えば「民主主義」。嵐の前の静けさかと思うほどかつてない安全と豊かさの泡に包まれた欧米や日本にここ半世紀ほどの間に生まれた者にとって、子どもの頃から何千回と聞かされて、もはや犬も食わない合言葉だろう。
2つを抱き合わせて民主資本主義(democratic capitalism)や市場民主主義(market democracy)と呼ぶことも多い。
だが、ちょっと考えるとこの提携は奇妙である。ふんわりと言って、資本主義は強者が閉じていく仕組み、民主主義は弱者に開かれていく仕組みだからだ。
ざっくりと言って、資本主義経済では少数の賢い強者が作り出した事業がマスから資源を吸い上げる。事業やそこから生まれた利益を私的所有権で囲い込み、資本市場の複利の力を利かせて貧者を置いてけぼりにする。
戦争や疫病、革命がなければ、富める者がますます富む。平時の資本主義のこの経験則を描いたものにはピケティ『21世紀の資本*1』からシャイデル『暴力と不平等の人類史*2』まで枚挙にいとまがない。そんな強者や異常値に駆動される仕組みが資本主義だ。
民主主義はその逆である。そもそも民主主義とは何か? 民主主義(democracy)の語源はギリシア語のdēmokratíaで、「民衆」や「人民」などを意味するdêmosと、「権力」や「支配」などを意味するkrátosを組み合わせたものだという*3。「人民権力」「民衆支配」といった意味になる。
民衆支配はさまざまな部品からなる。1つは、異質な考えや利害を持つ人々や組織が政治に参入でき、互いに競争したり交渉したり妥協したりしながら過剰な権力集中を抑制する仕組みだ。これを象徴するのが執行/行政府(政府)・立法府(国会)・司法府(最高裁)や無数の監視機関への権限の分散だ。
もう1つの部品が選挙になる。自由で公正な普通選挙を通じて有権者の意思(民意)が政策決定者を縛ることで、民衆が支配する。横から監視し、下から突き上げる諸力が憲法に規定され、簡単にはその仕組みが解除できない状態になっているのが民主主義の典型的な形だ。
どんな天才もバカも、ビリオネアも無職パラサイトも、選挙で与えられるのは同じ1票。情弱でも貧乏でも「だってそう思うんだもん」で一発逆転を起こせるのが民主主義の強みであり弱みである。
平均値や中央値が大事になる。その結果、たとえば年金生活者が投票者のほぼ半数を占める今の日本で民主主義をやると*4、老人っぽい好みへの忖度が物事を突き動かしていくように見える。白髪染めやカツラの通販が妙に多いお昼のテレビ番組と似ている。
民主主義と資本主義を混ぜる理由
逆行して足を引っ張り合うように見える民主主義と資本主義。なぜ水と油を混ぜるのだろう?
人類は世の初めから気づいていた。人の能力や運や資源がおぞましく不平等なこと。そして厄介なことに、技術や知識や事業の革新局面においてこそ不平等が大活躍すること。したがって過激な不平などを否定するなら、それは進歩と繁栄を否定し、技術革新を否定する、仮想現実に等しいことを。
何らかの科学技術の開発にちょっとでも携わったことのある者なら知っているように、最高品質の研究者やエンジニアの創造性と生産性は凡人1000人分を飛び越える。
実直な資本主義的市場競争は、能力や運や資源の格差をさらなる格差に変換する。そんな世界は、つらい。そこに富める者がますます富む複利の魔力が組み合わされば、格差は時間とともに深まる一方で、ますますつらい。このつらさを忘れるために人が引っ張り出してきた鎮痛剤が、凡人に開かれた民主主義なのだろう*5。
これに近い見方は民主主義のはじまりからずっとある。たとえば、生まれたばかりの民主主義を観察したプラトンが書いた『国家』だ*6。
貧富の差が拡がりすぎると、貧乏人は金持ちに対する反乱を企てる。反乱に勝利した貧乏な大衆が支配権を握ったとき立ち上がる政治制度が民主国家だ。そしてプラトンは、こういう民主化は優秀者に支配された理想国家の堕落だと考えた。プラトンの師ソクラテスを死刑に処したのが民主国家だったことからもわかるように。
民主主義の建前めいた美しい理想主義的考え方は、したがって、凡人たちの嫉妬の正当化とも言える。近代民主主義の画期性は、甘い建前をただの建前にとどめず、かといって建前を本音にするように人を洗脳する無理ゲーに挑むのでもなく、皆が合意したということになぜかなっている社会契約として、建前を既定のルールにしてしまった点にある*7。
暴れ馬・資本主義をなだめる民主主義という手綱……その躁うつ的拮抗が普通選挙普及以後のここ数十年の民主社会の模式図だった。
資本主義はパイの成長を担当し、民主主義は作られたパイの分配を担当しているとナイーブに整理してもいい。単純すぎるが、単純すぎる整理には単純すぎるがゆえのメリットがある。
もつれる二人三脚:民主主義というお荷物
しかし、躁うつのバランスが崩れてただの躁になりかけている。資本主義が加速する一方、民主主義が重症に見えるからだ。
今世紀の政治は、勃興するインターネットやSNSを通じた草の根グローバル民主主義を夢見ながらはじまった。日本でも、2000年代にはインターネットを通じた多人数双方向コミュニケーションが直接民主主義の究極形を実現するといった希望にあふれた展望がよく語られた。
だが、現実は残酷だった。ネットを通じた民衆動員で夢を実現するはずだった中東民主化運動「アラブの春」は一瞬だけ火花を散らして挫折し逆流した*8。
むしろネットが拡散するフェイクニュースや陰謀論やヘイトスピーチが選挙を侵食し、北南米や欧州でポピュリスト政治家が増殖したと広く信じられている*9。
トランプ前アメリカ大統領やブラジルのボルソナロ大統領などのお笑い芸人兼政治家たちが象徴だ。民主主義の敗北に次ぐ敗北。21世紀の21年間が与える印象だ。『民主主義の死に方』『民主主義の壊れ方』『権威主義の誘惑:民主政治の黄昏』といった本が、ふだんは控え目な見出ししか付けたがらない一流学者たちによって次々と英語圏で出版されたこともこの印象を強めている*10。
実際、民主主義は後退(backsliding)している。今世紀に入ってから非民主化・専制化する方向に政治制度を変える国が増え、専制国・非民主国に住む人のほうが多数派になっている。この傾向はこの5〜10年さらに加速している*11。
今や民主主義は世界のお荷物なのだろうか? それとも何かの偶然や、民主主義とは別の要因の責任を民主主義に被らせているだけなのだろうか?
民主主義的な国ほど、経済成長が低迷し続けている
民主主義こそ21世紀の経済を悩ませる問題児であるようだ。私とイェール大学の大学生・須藤亜佑美さんが独自に行ったデータ分析の発見である。世論に耳を傾ける民主主義的な国ほど、今世紀に入ってから経済成長が低迷し続けている。
…
こういった話、つまり「世論に耳を傾ける民主主義的な国ほど今世紀の経済成長が鈍い」という話をすると、すぐに上から目線のお叱りやクソリプが飛んでくる。「見せかけの相関で小躍りするなこの低脳が!」という怒号だ。確かに、相関は因果ではなく、民主主義と経済成長の間に負の相関関係があるからといって、民主主義が経済停滞を生み出しているとは限らない。
大陸・地域問わず非民主陣営の急成長が驚異的
しかし、さらに分析を行うことで、民主主義こそが失敗を引き起こしている原因だとわかってきた。図1で示した民主主義と経済成長の関係は、どうやらちゃんと因果関係でもあるようなのだ。ただ、その点を示す分析はちょっと専門的になる。
経済低迷のリーダーはもちろんわが国だが、日本だけではない。欧米や南米の民主国家のほとんども実は目くそ鼻くそで、地球全体から見ると経済が停滞している。
逆に、非民主陣営の急成長は驚異的である。爆伸びのリーダーは隣国だが、これも中国だけではない。中国に限らず、東南アジア・中東・アフリカなどの非民主国家の躍進も目覚ましい。
「民主世界の失われた20年」とでも言うべきこの現象は、中国とアメリカを分析から除いても、G7諸国を除いても成立するし、どの大陸・地域でも見られる。グローバルな現象である。