語呂合わせ「1192(いいくに)つくろう」で、鎌倉幕府が成立した年号を覚えた人は多いはず。しかし、現在の中学歴史教科書の多くは、鎌倉幕府の成立が、1192年ではなく1185年に変わっている。語呂合わせなら「1185(いいはこ)つくろう鎌倉幕府」ということになる。
東京書籍などによると、92年は源頼朝が征夷大将軍に就いた年。頼朝は85年、軍事・行政官「守護」や、税金集めなどをする「地頭」を任命する権利を得、幕府の制度を整えたのだという。
社会編集部副編集長の和田直久さんは「実質的に幕府が成立したのが85年。92年は征夷大将軍という『名』を得て名実ともに幕府が完成した年と考えられます」と話す。
中学校の歴史 1192は違うの?鎌倉幕府成立
朝日新聞デジタル
2008年02月28日
http://www.asahi.com/edu/student/kyoukashow/TKY200802270241.html
語呂合わせ「1192(いいくに)つくろう」で、鎌倉幕府が成立した年号を覚えた人は多いはず。しかし、現在の中学歴史教科書の多くは、鎌倉幕府の成立が、1192年ではなく1185年に変わっている。語呂合わせなら「1185(いいはこ)つくろう鎌倉幕府」ということになる。
東京書籍などによると、92年は源頼朝が征夷大将軍に就いた年。頼朝は85年、軍事・行政官「守護」や、税金集めなどをする「地頭」を任命する権利を得、幕府の制度を整えたのだという。
社会編集部副編集長の和田直久さんは「実質的に幕府が成立したのが85年。92年は征夷大将軍という『名』を得て名実ともに幕府が完成した年と考えられます」と話す。
この変化を東京書籍の教科書でたどると――、
1955年=1192年、頼朝は朝廷から征夷大将軍に任じられ、鎌倉に幕府という政府をおいた
66年=1192年、頼朝は朝廷から征夷大将軍に任じられ、ここに鎌倉幕府による武家政治がかたちのうえでも整った
現在の06年版=頼朝は朝廷に強くせまり、国ごとに守護、荘園や公領ごとに地頭を置くことを認めさせ、鎌倉幕府を開いて武家政治を開始しました。……1192年に征夷大将軍に任じられた頼朝は……
「変化の背景を知ると、もっと歴史を好きになります」
鎌倉幕府成立は1192年と1185年のどちらが入試では正解なの?
知って得する!?情報発信サイト
http://sittoku-hassin.com/archives/1061.html
私が勉強していた頃は、当然にして鎌倉幕府の成立は1192年だったのですが、今では1185年に始まったとされているんですって!
NHK高校講座
日本史
第10回 第2章 武家社会の形成と生活文化のめばえ 鎌倉幕府の誕生
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/resume010.html
鎌倉幕府の成立時期は一体いつなのか、頼朝の足跡を辿ってそれぞれの説を見ていきます。
1. 1180年
頼朝は鎌倉に居を構え、軍事・警察機構となる侍所(さむらいどころ)を設置します。そして南関東と東海道東部の実質的支配権を手に入れた、この時を鎌倉幕府の成立とする説があります。
2. 1183年
この年、頼朝の東国支配権が、朝廷から事実上の承認を受けました。
3. 1184年
頼朝は鎌倉に公文所(政所(まんどころ))と、裁判所である問注所を設けます。
公文所(くもんじょ)は、財政を担当する機関でした。
4. 1185年
頼朝と義経の対立は次第に深まっていきます。そして義経追討のため諸国に軍事・警察権を握るための守護を、荘園などに地頭を置く権限を朝廷に認めさせます。
5. 1190年
奥州を征服した後に、朝廷から「右近衛大将(うこのえたいしょう)」という地位を任じられた時という説もあります。
6.1192年
頼朝が征夷大将軍に任命された年です。
東京大学史料編纂所 教授の本郷 和人 先生「将軍の政府」を重視すれば5・6の説が鎌倉幕府成立年に
鎌倉幕府の成立時期には、なぜ様々な説があるのでしょうか。
今回も東京大学史料編纂所 教授の本郷 和人 先生に話をうかがいます。
もし「将軍の政府」が幕府であるという点を重視すると、5・6番の説が、幕府成立の年になります。
特に6番の説は、征夷大将軍に就任した、そのため将軍の政府が出来たという考え方になります。
これが「いい国作ろう源頼朝」や「いい国作ろう鎌倉幕府」という語呂合わせの根拠になっています。
しかし幕府というものの性格は、「将軍の政府」という側面だけではないといいます。
「軍事政権」を重視すると幕府の成立年は1~4
頼朝の軍事政権がどのように成立したかを見たときに、1~4番の説が大事になると本郷先生は話します。
この「軍事政権」という点を重視する場合、1番の説については、鎌倉に軍事政権の基礎が出来たという事実が重要視されます。
4番の説については、守護・地頭の任命によって、武士の勢力が全国に広がったということが根拠になっています。つまり、このときに鎌倉幕府が日本全国に支配の権限を広げたと言えます。
現在は、これが決定的だったのではないかと考える学者が増えているといいます。そのため「いいはこ(=1185)作ろう源頼朝」という語呂合わせもできています。
このように「幕府」の解釈によって、成立年もこれだけ変わってしまうということが分かります。
今回は鎌倉幕府の誕生について学んで来ましたが、さらに、頼朝・義経の対立の理由について本郷先生に話をうかがいます。
先生によると、この兄弟の対立には後白河による、「この兄弟を割ってやろう」という思惑があったといいます。
封建制度は、将軍が自分の家来に土地を与えて家来にするというものでした。一方、少し形を変えた封建制度と言うべきものが他にあります。当時の武士にとって、とても大事なものに官職(肩書き)がありました。当時の武士は肩書きを与えられる事によって主人に仕えました。
本郷先生 それは最終的には、頼朝が征夷大将軍を貰うという話になります。義経も実は、後白河から検非違使という肩書きを、頼朝の許可無く貰ってしまうんです。そうなると、義経は後白河にお仕えしなくちゃいけない。要するに、頼朝の家来でもあるけれど後白河の家来でもあるということになって、家来としてどちらに仕えるのかという話になってしまいます。そうすると鎌倉にできたばかりの武士の政権は、弱体化してしまいます。だから頼朝は、「必ず私に許可を得なさい」と言っていたんだけれど、義経が勝手に貰っちゃった。
高橋館長 それを許すと、他の人たちにも示しがつかない。
本郷先生 そう。そこに目を付けたのが後白河でした。義経は軍事的な天才だったので、部下にしておいて頼朝にぶつければ、今度は源氏を倒せる。源氏を使って平家を倒した後は、源氏を仲間割れさせて力をそぐ。
土保 ずるがしこいですね。
高橋館長 問題の後白河さんは、いつ亡くなるんですか?
本郷先生 1192年。
高橋館長 (後白河が)亡くなったから、(朝廷から)征夷大将軍に任命されるんですか?
本郷先生 その通り。後白河は鎌倉に政権が出来るのは嫌だったんです。だから、頼朝が「征夷大将軍にして下さい」と言っても、ダメだと言って許さなかった。
高橋館長 そういうことか~。本郷先生ありがとうございました。