また知識を得る事は、ある意味で足枷を嵌める様なものかも知れません。
知ってしまったが故に思考が制限されてしまう事は珍しくありません。
例えば”先入観”や”偏見”を持つ事に直接繋がってもゆく訳です。
確証がなくても、疑いだけで人は相手を断罪する事もあるのです。
天真爛漫な子供が大人になるにつれて大人しくなる事も、
その裏返した表現だと言えるのではないでしょうか。
知識を得るからこそ大人になる訳ですが、
それは一方で本来持っている力を失う事も意味しています。
誰とでも仲良くなれた魔法を大人は失う事の方が多くはないでしょうか。
知識の足枷
by 松本浩舜
http://blog.livedoor.jp/hongaku_ji/archives/36612479.html
また知識を得る事は、ある意味で足枷を嵌める様なものかも知れません。
知ってしまったが故に思考が制限されてしまう事は珍しくありません。
例えば”先入観”や”偏見”を持つ事に直接繋がってもゆく訳です。
確証がなくても、疑いだけで人は相手を断罪する事もあるのです。
天真爛漫な子供が大人になるにつれて大人しくなる事も、
その裏返した表現だと言えるのではないでしょうか。
知識を得るからこそ大人になる訳ですが、
それは一方で本来持っている力を失う事も意味しています。
誰とでも仲良くなれた魔法を大人は失う事の方が多くはないでしょうか。
膨大にある仏教、或いは禅的な示唆は、あくまで補足に過ぎません。
それらはとても重要な示唆に富んでいる一方で、
必ずしも必要不可欠な関門ではありません。
人が正しく生きる前ではほとんど蛇足に過ぎないのです。
“病”が治りさえすれば、それ以上の”薬”は不要なのです。
ですから知識は言ってみれば薬です。
知識自慢は薬自慢に過ぎず、依存症の様なものかも知れません。
薬が幾ら沢山あっても病に効き目がなければ意味がありません。
同様に仏教的、禅的知識が幾らあっても救われなければ仕方がないのです。
そして薬がそうである様に、知識も反って毒になる事があります。
知識があるからこそ”先入観”や”偏見”に縛られて、
自分を守る事に精一杯になるのかも知れません。