人工システムは、自然のシステムと比べると、驚くほど単純である。単純であることをもってよしとする風潮が人間の間に見られるのは、人間の思考能力の限界の低さを示すものであって、別にそれが本質的によいからなのではない。もっとも、そう誤解している人が多いというのも不幸な事実である。
ニューヨーク大停電はなぜ起こったか。配電のチャネルが単純すぎたからである。
少ないチャネルで、単純なシステムを作ることにも、それなりの利益がある。効率をあげやすいことである。
たとえば、人間の食物獲得のためのシステムを考えてみる。狩猟採集時代には、自然が配置した生物群集の中から、食べられるものを選びとるという手間をかけなければならなかった。それには驚くほどの労力が必要で、他のすべての動物たちのように生活時間のほとんどすべてを、食物獲得のために費やさねばならなかった。食物獲得のむずかしさが人間の繁殖を押え、狩猟採集時代の地球上の総人口は、500万人程度でしかなかったと推定されている。
農耕と牧畜の発明は、特殊な場所を設定して人間に可食の生物群集をそこに集めて管理するという発想からきている。人間の可食性によって、作物と雑草、野獣と家畜とを区別し、その片方のみで構成される人為的な生物群集を作ったのが田畑であり、牧場である。
農耕牧畜の開始によって、食物獲得に関しては驚くほど効率がよくなった。この二つの技術を人類がわが物とすることによって、総人口は500万から8600万にふくれあがったのである。そして、食物獲得のために費やしていた時間が少なくなったおかげで余暇が生まれ、余暇から文化と文明が生まれ、文化と文明はさらに効率よいシステムづくりをめざし……という“悪循環”が、効率至上主義の現代文明を生み出したといえる。
核ミサイル発射のシステムはなぜ複雑なのか……「管理しやすい単純さ」を目指す“効率至上主義”の危うさ
『新装版 思考の技術』(中公新書ラクレ)
立花 隆
新興感染症の流行と相次ぐ異常気象。生態系への介入が引き起こす「自然の逆襲」が加速化している。私たちは自然とどのように付き合えばよいのか? 知の巨人・立花隆さんは、デビュー作『思考の技術』の中で、私たちに重要なヒントを教えてくれている。「自然と折り合いをつけるために我々が学ぶべきものは、生態学(エコロジー)の思考技術である」と。
色褪せない立花隆さんの透徹なる思考力。50年間読み継がれてきた名著が提唱するものとは――。
※本稿は、立花隆著『新装版 思考の技術』(中公新書ラクレ)の一部を、再編集したものです。
https://bunshun.jp/articles/-/39718
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「効率至上主義の現代文明」が生まれるまで
人工システムは、自然のシステムと比べると、驚くほど単純である。単純であることをもってよしとする風潮が人間の間に見られるのは、人間の思考能力の限界の低さを示すものであって、別にそれが本質的によいからなのではない。もっとも、そう誤解している人が多いというのも不幸な事実である。
ニューヨーク大停電はなぜ起こったか。配電のチャネルが単純すぎたからである。
少ないチャネルで、単純なシステムを作ることにも、それなりの利益がある。効率をあげやすいことである。
たとえば、人間の食物獲得のためのシステムを考えてみる。狩猟採集時代には、自然が配置した生物群集の中から、食べられるものを選びとるという手間をかけなければならなかった。それには驚くほどの労力が必要で、他のすべての動物たちのように生活時間のほとんどすべてを、食物獲得のために費やさねばならなかった。食物獲得のむずかしさが人間の繁殖を押え、狩猟採集時代の地球上の総人口は、500万人程度でしかなかったと推定されている。
農耕と牧畜の発明は、特殊な場所を設定して人間に可食の生物群集をそこに集めて管理するという発想からきている。人間の可食性によって、作物と雑草、野獣と家畜とを区別し、その片方のみで構成される人為的な生物群集を作ったのが田畑であり、牧場である。
農耕牧畜の開始によって、食物獲得に関しては驚くほど効率がよくなった。この二つの技術を人類がわが物とすることによって、総人口は500万から8600万にふくれあがったのである。そして、食物獲得のために費やしていた時間が少なくなったおかげで余暇が生まれ、余暇から文化と文明が生まれ、文化と文明はさらに効率よいシステムづくりをめざし……という“悪循環”が、効率至上主義の現代文明を生み出したといえる。
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効率化を重視した単純システムの危うさ
政治の面では、効率至上主義の単純システムへの指向が、中央集権的統治機構となってあらわれている。経済、社会のあらゆる面で、管理しやすい単純システムへの指向が見られる。
それがすべて誤りだったというのではない。しかし、効率と管理のしやすさを得るために、システムの安定性が犠牲にされているのだということを忘れてはいけない。そして、安定性の犠牲にも限界があり、効率の追求もその限界内にとどめなければならない。
政治の面でいえば、きわめて能率が悪い代わりに、絶対的に安定しているのは、アナーキーな社会である。アナーキーな社会では、政変の起こりようがない。その対極にあるのが独裁制である。独裁制は、単なる宮廷革命によってくつがえすことができる。
チャネルが少ない単純システムは、それがうまく働いている場合はいいが、どこかに狂いが生じてくると、故障したチャネルの機能を他のチャネルがすぐに引き継いでくれないので、システム全体が破壊されてしまう。ファシズムは国家全体を狂気にまきこみ、全体主義という単純システムを作りあげる。そしてその全国家的単一システムが倒れるときには、社会全体がまきこまれて破滅の危機に瀕することになる。これに対して、チャネルが多いシステムでは、一本や二本のチャネルがおかしくなっても、システム全体はびくともしない。
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効率とスピードを落としても安全性を重視して作っていくべき
親会社を一つにしぼっている下請工場と、数社と取引きしている下請工場とでは、その親会社がうまくいっている間は、前者のほうがうまい商売をできるかもしれない。しかし、不況で親会社が苦しくなれば、そのしわ寄せをもろに受けることになる。同じことが、あらゆる企業の取引先、取引銀行などについてもいえる。健全な経済人は本能的に安定性確保の必要性を知っているから、複数のチャネルを持つようにしている。
企業のレベルでは常識であることが、国家のレベルでは行われていない。たとえば、日本の金外貨保有はドル一辺倒で、アメリカ経済と一蓮托生の関係にある。
核ミサイル発射のシステムは、偶発戦争を避けるために、スピード第一よりは、安全第一のために、わざと効率を悪くしている。それは、ミサイルによる偶発戦争が、人類滅亡を意味するという危機の認識が正しくなされているからであろう。
しかし、よく目を開いてみれば、同じような危機はほかにもある。たとえば、農作物の収穫効率をあげるために、生物社会を農薬によって一元化しようとすることによってもたらされる危機も同様に重大なのである。公害のほとんどすべては、効率至上主義から起きている。
これから文明のたどるべき方向は、より複雑で、より多様なシステムを、効率とスピードを落としても安全性を重視して作っていく方向にあるのではないだろうか。
自然にとっては、人間も生物システムの一つのチャネルにすぎない。人間が自滅しても自然は困らない。自然のシステムには、いつでもそれにとって代わるべきチャネルが用意されているからである。人間は自然なしではやっていけないが、自然は人間なしでやっていけるのである。
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人工システムでは、まだまだフィードバックが不足しすぎている
フィードバックとは、アウトプットの一部をインプットに戻してやって、インプットの調節をはかることである。
食物連鎖も、150万種の生物が共存するためのフィードバック機構が累積したものとみなすことができる。ある生物が多くなる。すると食物が足りなくなるので、餓死者が出る。それによって、数が元に戻る。
そのように、自然界では、ミクロのレベルからマクロのレベルにいたるまで、あらゆるシステムがフィードバック機構によって自動調節されている。
これがあるから、自然は安定している。ところが、人工システムでは、まだまだフィードバックが不足しすぎている。
工場内のシステムで用いられている技術を利用すれば、河川の汚染が限度以上になれば、自動的に廃水の放出をストップさせるとか、大気中の亜硫酸ガス濃度がある程度以上になれば、工場のボイラーの火が消えるとかいう装置は簡単に作れるはずである。
働きすぎた人間は自動的に休息させられ、儲けすぎた人間は自動的に浪費せざるをえなくなるというようなフィードバック装置があってもいいような気がする。