風は強いだけでなく、ぞっとするほどつめたかった。振りむいて空をみたさよは、思わず恐怖に襲われて声を立てるところだった。さよがこれから帰って行く新大橋の向う岸の町町は、日を浴びて白くかがやいているのに、あたけの北にひろがる町町の上の空は、見たこともない厚い鉛いろの雲に埋めつくされていた。そしてその一段低いところを、薄い黒雲が右に左に矢のように走り抜けているのだった。
あの橋さえわたってしまえば、と必死に走りながらさよは思った。だが橋にたどりつく一歩手前で、日が雲に隠れてあたりは夕方のように暗くなり、つづいて雷が光った。ほんの少し間を置いてからさよのまわりが一斉に固い音を立てはじめた。そしてそれはすぐに、耳がわんと鳴るほどの雨音をともなう豪雨になって、さよだけでない橋の上のひとびとに襲いかかってきた。
その雨の中に紫いろの光がひっきりなしに光り、雷鳴はずしずしと頭の上の空をゆるがした。「落ちたよ」と誰かが叫ぶ声がして、さよはおそろしさに足が竦むようだった。するとそのとき、びしょ濡れの身体に後ろから傘をさしかけた者がいた。
大はし夕立ち少女
in 『日暮れ竹河岸』
by 藤沢周平
日は変わりなく照っていたが、いつの間にか光が白っぽく変わり地上の物の影がうすくなっているのにさよは気づいた。河岸の道に出たときに、不意に強い風がうしろから吹きつけてきた。さよは身体をあおられて風呂敷包みを落としそうになり、あわてて包みを胸へ抱えこんだ。
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大はしあたけの夕立
by 歌川広重
甘味辛味 業界紙時代の藤沢周平
by 藤沢 周平, 徳永文一
いみじくも戦中戦後を思い出したのが、先日総武線は亀戸駅前でメシを喰ったときの話。
恰幅すぐれ、容貌いかつい立派な旦那が、客の注文をとり、おしぼりと水を配り、注文の品を配り、帰りの客のオアイソを清算する。客がたて込んでくると次のような具合になる。
「お水ちょうだい」「ちょっと待ってくれ。いま忙しいんだから」。「あのう、チャーハンまだですか」「わかっているよ。仕様がねえな。あんただけ待っているんじゃねえんだから」。これ、客と店主(風サイから推して多分)との会話である。
「全く仕様がねえな。こういそがしくっちゃ」旦那は二十貫近くはありそうな巨体をあおり、風をまいてテーブルの間を走り抜け走り去る。なんとなく、喰べさせてもらってスミマセンという姿勢で、客一同首うなだれて、じっと手を見る。甘辛子もちろんそのひとり。
戦中、戦後のことなど、そこはかとなく思い出し、懐旧の情にひたりながら、さて、三十分はたったはずだがとそっと時計を眺め、咳ばらいなどひとつして、ひたすらに注文のチャーシューメンの無事到来を待つ。
2024年2月9日(金)
江戸の風景
今週の書物/
『日暮れ竹河岸』
藤沢周平著、文春文庫、2000年刊
江戸時代とはどんな時代だったのか? 江戸とはどんなところだったのだろう? 誰しもが持つようなそんな疑問に答えてくれるのが、書物であり、絵巻であり、そして江戸末期に撮られた写真である。ただもどかしいことに、どんなに読んだり見たりしてみても、疑問は消えず、むしろ疑問は増え続ける。
どんなところに住んでいたのか? どんなものを食べていたのか? どんなものを着ていたのか? どんな暮らしをしていたのか? どんな楽しみがあったのか? 風呂は? トイレは? 育児は? 教育は? 仕事は? 平和だったのか? 自由だったのか? 愛は? 恋は? セックスは?
2024年の79年前の1945年に第二次世界大戦が終わった。そのまた79年前の1866年は慶応2年、江戸時代が終わろうとしていた。79年を2回戻っただけで、江戸時代。そう考えると、江戸時代は、そんなに前のことではない。それなのに、江戸時代のことは何も知らない。何もわからない。
フェリーチェ・ベアト(Felice Beato)が幕末の日本で撮った写真を見て、そこに写っている風景や人物に親近感を覚えるかというと、そんなことはまったくない。写っているのは、別世界。見覚えのない景色に見たことのないような顔。それを見て、そんなに前のことではないなんて、絶対に言えない。
別人種のような「日焼けした小さな人間たち」が繰り広げる話を読んでも、そして絵や写真を見ても、何も伝わってはこない。それにしては、本屋には江戸時代のことを書いた本が並び、テレビでは江戸を舞台にしたドラマをやっている。出てくる景色や人は、みんな今のものだ。それなのになぜか、なんの違和感も感じない。
山本周五郎の『赤ひげ』、藤沢周平の『たそがれ清兵衛』、池波正太郎の『雲霧仁左衛門』、髙田郁の『みをつくし料理帖』、野村胡堂の『銭形平次捕物控』、佐伯泰英の『吉原裏同心』などなど、小説・映画・テレビドラマには、現代から見た想像の「江戸」があふれている。そして私たちの多くがその「江戸」を好んでいる。慎ましい生活や多くの理不尽が描かれて、私たちは江戸時代がそんなものだったと思い込む。
江戸時代の現実は、私たちが読んだり見たりするのとは、大きく違っていたのではないか。そういうのは簡単だが、では江戸時代の現実とは何なのかと問われれば、そう簡単に答えることはできない。「江戸もの」を楽しむ時には、韓国ドラマの宮廷歴史劇を見る時のように、歴史を忘れて楽しむのが一番なのかもしれない。
で今週は、藤沢周平の生前最後に刊行された短編集を読む。『日暮れ竹河岸』(藤沢周平著、文春文庫、2000年刊)だ。十二人の女の儚さやしたたかさなどのさまざまな表情を、江戸の十二カ月の情景として十二の短編のなかに描く「江戸おんな絵姿十二景」。そして、歌川広重の浮世絵「名所江戸百景」を背景にしたような江戸情緒たっぷりの七つの短篇「名所江戸七景」。『日暮れ竹河岸』には、合わせて十九の珠玉の名作が詰まっている。
このうち「江戸おんな絵姿十二景」については、藤沢周平がインスピレーションを得たという十二の浮世絵を見ながら読むと楽しい。また、一月は一月の、二月は二月の、それぞれの時節を感じながら読めば、さらに楽しい。喜多川歌麿、鈴木春信、歌川国貞、歌川豊国といった錚々たる作家の浮世絵と、藤沢周平の作品が、ぴったり合っていると感じたり、ちょっと違うんじゃないかと思ったりするのは、贅沢な楽しみ方だ。
藤沢周平自身は、
と書いているが、浮世絵と藤沢周平の文章は間違いなくつながっている。
「江戸おんな絵姿十二景」のひとつめの『夜の雪』の話をすると、鎌倉時代にまで遡らなければならない。鎌倉幕府執権の北条時頼が出家し、旅僧として諸国行脚したときのことが、書物に書かれるなどして伝わり、それが能の演目「鉢木」になったのだ。貧しく住まう武士、佐野源左衛門常世が、大雪の夜に旅僧を泊め、大事にしていた鉢の木を火にくべてもてなす。その僧が時頼で、のちにそれが報いられ、失った領地を回復し、鉢植えの梅、桜、松にゆかりの地名の三つの領地を与えられるという話である。
「鉢木」の話は、江戸時代には人形浄瑠璃や義太夫にも取り入れられ、大正・昭和には道徳の教科書に載るなどして、長いあいだ多くの日本人に好まれてきた。江戸時代には何かを何かになぞらえる「見立て」が流行り、「鉢木」は浮世絵の格好の題材になった。鈴木春信の「見立鉢の木」は、そんな作品なのだが、時頼や常世を連想させる人物は描かれていない。雪が積もっている。鉢の木がある。娘がいる。晴信は何を娘に見立てたのだろう。
そして、春信の「見立鉢の木」を見てインスピレーションを得たのが藤沢周平だ。絵のなかの娘は、『夜の雪』のなかで≪じっと雪を眺めている≫「おしづ」に見立てられる。私が春信の浮世絵を見ても、何かを感じることはない。それなのに、藤沢周平の『夜の雪』を読んでから見ると、浮世絵のなかの娘が「おしづ」に見えてくるから不思議だ。縁談に気が乗らない「おしづ」、物音にはっとする「おしづ」、そんな「おしづ」が絵のなかにいる。
「名所江戸七景」についても、歌川広重の浮世絵を見ながら読むと楽しい。藤沢周平の『日暮れ竹河岸』を読むときには歌川広重の「京橋竹がし」の秋の風景を見ながら、『飛鳥山』を読むときには「飛鳥山北の眺望」の春の風景を見ながら、『雪の比丘尼橋』には「びくにはし雪中(*)」の冬の風景を、『大はし夕だち少女』には「大はしあたけの夕立」の夏の風景を、『猿若町月あかり』には「猿わか町よるの景」の秋の風景を、『桐畑に雨のふる日』には「赤坂桐畑雨中夕けい(*)」の夏の風景を、『品川洲崎の男』には「品川すさき」の秋の風景を、それぞれ合わせるといい。
どの話も、藤沢周平らしい。抑えた文章とか、読後の清々しさとかは、いつものことではあるけれど、江戸の変わりゆく季節を見事に描き分け、年齢の違う女たちが抱えるいろいろなことを書き表す技量には、驚きすら覚える。
それにしても、江戸時代の女たちが抱えるいろいろは今日の女性たちも共通しているなあ。そう思うとき、藤沢周平が描いているのは、現代の女なのだと気づく。江戸時代のことを書いているようでいて、目は確実に現代に向いていた。藤沢周平は、そういう作家だったのではないか。
(*)『名所江戸百景』は、98景が初代広重の作品、残り 2景の「赤坂桐畑雨中夕けい」と「びくにはし雪中」は 二代目広重の作品だ。「赤坂桐畑雨中夕けい」は、初代の「赤坂桐畑」よりも、構図・色彩ともに評価が高い。
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