世の中の色々なことについて様々な程度で考えることがあるが、それらについて人に伝えたい(話したい)と思った時は、家族や友人・知人に話してきた(文書にして示すなんてことはない)。日常生活で経験したことや、読んだ本の内容や、主にマスメディアを通じて世の中で関心を持たれている事柄などについて話すことが多い。それらの話題でも、単なる感想程度ならば特に問題はないが、話題にした事柄の原因や複数の事象の関係や意味付け等について自分なりに分析した内容を話そうとすると困ったことが起こる。それは、話を聞かされる相手が私が話す事柄に関心がない場合だ。関心がない事柄について、軽い感想程度ならまだしも、分析的で複雑な話を延々と聞かされることは苦痛以外の何物でもない。ましてや話される事柄が、日常生活やマスメディアの話題から大きく外れるならなおさらだ。
もし、考えたことを文章にしてメールで送るという方法をとれば、相手は話を聞かされるより苦痛が少ないだろうが、それでも何か応答しなければというプレッシャーを感じて迷惑だろうと思う。文章を印刷して紙を渡すという方法(家族や友人・知人の間ではあまり普通の方法ではない)でも大同小異だ。そもそも問題は、伝える方法にあるのではなく、伝えたい内容に関心がない相手に伝えようとすることにある。
ブログを始めることになったわけ
辺民小考
by ウジョイリ加藤
(2023-08-13)
https://ujoyri.hatenablog.com/entry/2023/08/13/150304
●始まり
つれづれなる折には、心にはよしなしごとが浮かぶ。浮かんでは沈んで消えてゆくことが多いが、拾い上げて少しは考えてみることもある。だが、無知無学の悲しさ、思いは千々に乱れて考えは一向にまとまらない。そんなことを繰り返しているうちに、どこかで聞いた「書くことは考えること」という言葉を思い出した。書くようにすれば少しは考えがまとまる、のかもしれない。そんな思いで、考えてみたくなったことを書いてみることにした。
とは言うものの、小学生のころから作文というものが大嫌いでまとまった文章を書いてみたことがなく、「好きこそものの上手なれ」が裏返った状態。上手い文章が書けるわけでもない。上手くなくてもいいが、筋道が立たずわけがわからないようでは困る。それでも、時間をかければ少しは意味のあることが書けるような気もする。ヨタヨタと考えモタモタと書くことになりそうだが、それでもいい。とにかくやってみようと思った。
●疑問
少し前に考えてみようと思ってそのままになっていたことがあったので、手始めにそのことを考えてみようとした。するとすぐに、それを考えてどうにか書き終わったとしても書いたものをどうするのか、という自分への問いが浮かんだ。問いが浮かぶとほぼ同時に、書いたものは誰かに見せたいなと思っている自分に気付いた。えっ、どういうこと? 考えをまとめるために書くんじゃなかったっけ。目的が変わったのか。心の中を探ってみるとそういうことではないようだ。考えをまとめたい、そのために書いてみる、ということに変化はない。書くことは手段で、考えをまとめたいというのが目的だ。すなわち、書くことの前に考えをまとめたいという欲求がある。しかし、書いたものは誰かに見せたい、すなわち自分が考えたことを人に伝えたい、という欲求は確かにある。この二つの欲求はどういう関係にあるのだろう。このことを考えてみることにした。
●「考えをまとめたい」ということの意味
考えをまとめたいという欲求、その元は何なんだろう。「まとめたい」というのは、あやふやなものをはっきりとさせたいとか、 ばらばらなものを整理したいとかいうことなので、まとまりの程度を良くしたいということ。何かについてより良いものが欲しいというのは、そもそも最初にその何かが欲しいということがある。従って、考えていることのまとまりの程度を良くしたいという前に、自分が考えている内容がどういうものであるかを知りたいという欲求があると言える。
考えている内容を知るとはどういうことか。考えている内容を何らかの意味のあるものとして認識することだ。こう書いてみると、この認識の主体(思考)が、「考えている内容」を考えている主体(思考)に対して一つ上の階層にあるイメージが浮かぶ。そして、その階層のイメージは、次のような多重階層のイメージに広がる。外界からの入力を感覚器官でとらえてある感覚が生じ、その感覚について思考して何らかの認識を得ることから始まって、その認識がさらなる思考を呼び覚ましてその思考を認識し、またその認識が思考を呼び覚ましてその思考を認識するといった、どこまでも続き得る多重階層のイメージだ。
例えば、耳から音が入り聴覚器官を通じて脳が音を知覚する(認識する、感じる)。その知覚(認識)が、これまでの様々な経験が蓄積された脳内の記憶と合わさって(この合わせる作業は思考と言ってもよい)、「セミが鳴いている」とか「アブラゼミが鳴いている」とかの認識を生む。その認識はまた新たにな思考を呼び覚まして「今年はちょっとセミが少ないようだ」と考えるかもしれない。そして、そう考えたことから(思考の認識から)その原因を温暖化と結び付けて考えるかもしれない。
このような思考とその認識の連鎖はどこまでも続けることが出来る。こう考えると、そもそも「考える」ということは「思考とその認識の連鎖」と言えると思う。また、「感じる」ということと「考える」ということは繋がっていて(本質的には同じもので)、連鎖の階層の比較的低次の段階のものを「感じる」と言い、どこかからかは分からないが高次のものを「考える」と言っていることがわかる。「感じる」と呼ばれる段階から「考える」と呼ばれる段階の境界あたりまではほとんど無意識的に行われると思われるが、無意識的な段階も含めて本質的には同じメカニズムだろう。また、この連鎖の階層は高次になるに従って、その内容の種類によって二つに枝分かれし、一方は「思考」となり、もう一方は「感情」と呼ばれるものになるのかもしれないと思った。
このような、「感覚」から始まって「認識」と蓄積された記憶の利用を繰り返しながら様々なレベルの「思考」や「感情」を生み出して行く多重階層のプロセスは、脳の働きそのものであり、ヒトという種の脳(特に大脳)を進化させて現在の人間になった原動力だろうと思う。「考えをまとめたい」というのは思考と認識の多重階層を昇って行って考えていることのまとまりの程度を良くしたいということなので、これは人間にとって本質的な欲求だと気付いた。
もちろん、多重階層を昇ってゆく(考えていることのまとまりの程度を良くする)というのは、常に出来るだけ高次元の思考まで到達したいということではない。非常に漠然としたまとまりのない思考のままで終わることも多い。というよりそれがほとんどだ。それでも人間においては、感覚器官でとらえた感覚に始まって認識と思考の連鎖をある段階まで繰り返してゆくことは必ず行われる。そうでなければ、感覚器官でとらえた感覚に条件反射するだけの存在になってしまう。これは人間ではない。
やや脇道に逸れるが、次のようなことにも気付いた。「思考とその認識の連鎖」の発端は感覚器官を通じた脳への入力であるが、感覚器官に入ってくる情報は視覚にしても聴覚にしてもその他の感覚にしても莫大な量であり、人間は何らかの興味や関心(この根源は生物としての有用性だろう)により極々一部を選択的に取り込んでいるに過ぎないし、圧倒的に多量の情報が棄てられている。しかも、その選択は感覚器官への入力から大脳への伝達過程やさらにその先の大脳での思考の過程で多段階に渡って行われる。そうでないと人間の処理能力を超えてしまう。感覚から多段階の思考の過程はどこかの段階で止まるが、その最終段階の感覚あるいは思考内容も多くは捨てられてしまう。しかし、極く一部は残ることがある。冒頭に書いた、心に浮んだよしなしごとが浮かんでは沈んで消えてゆくことが多い、というのはまさにこのことだ。
●「考えたことを人に伝えたい」ということの意味
何かを人に伝えるためには、その何かを表現する必要がある。それでまず、表現するということについて考えみることにした。
表現するということは、人の内面にあるもの(感じたこと、考えたこと、イメージしたもの)を外部に表すことだ。外部に表すには身体を使うほかないが、人間は言葉や道具を使うようになる前から、身体の動きそのもの(表情、身振りなどの動作)や身体から外界への何かの放出(音、声、息、涙など)によって表現してきた。これらのなかには、熱い物に触れた時に手を引っ込めるとか悲しくなった時に涙が出るとかいった生理的な反応や、驚いた時に上体を反らすとか思わず声が出るといった無意識的な行為もあるが、これらは現在も意識的な表現行為としても行われている。これらの言葉や道具を使うより前からある表現行為を考えてみた時に、その表現が何らかの感情や思い(考え)を人に伝えるために行われることが多いことに気付く。それでは、これらの表現行為は必ず人に伝える目的で行われるものなのだろうか。
人に伝えるというのは意識的な行為なので、生理的な反応や無意識的な行為は人に伝えるためのものでないのは明らかだが、意識的な表現行為でも、何かがすごく上手くいった時のガッツポーズとか 心配事や悩みを抱えているときにため息をつくとかは、自分ひとりでいる時にも行うことがある。もしかすれば、意識的な表現行為はもともとは他人に伝えるためのものだったが、それを自分の感情や思いを自分自身に伝えるために利用しているのかもしれない。そう考えると、もともと他人に伝えるために発明されたと思われる言葉を使った表現行為でも、他人に公開することを全く目的としない日記があることも理解できる。日記には単なる事実の記録以外に、自分の感情や考えが書かれるのはごく普通のことだ。すると、公開を目的とせずに、日記という形式ではなく、感情や考えを自分に対してはっきりさせるためだけに文章を書くこともおかしなことではないだろう。一般化して言えば、他人に提示することを目的とせずに何かを表現することがあり得るということだ。これは言語表現だけでなく、絵画などの芸術表現などでも同様だと思う。ここまできてようやく、「考えたことを人に伝えたい」ということの前に「考えをまとめたい、そのために書いてみたい」ということが自分の中に元々あったと確信できた。
「考えをまとめたい、そのために書いてみたい」というのは、書くことを使って出来るだけまとまった形で「考えたことを自分に伝えたい」ということである。この「考えたことを自分に伝えたい」というのは「考えたことを人(他人)に伝えたい」ということとは全く別のことである。「考えたことを自分に伝えたい」欲求が元々あったと確信したが、それでは何故それとは別の「考えたことを人(他人)に伝えたい」欲求が出てきたのだろう。「考えたことを人(他人)に伝えたい」欲求のために自分の考えたことを表現しようとし、それを表現するために「考えたことを自分に伝えたい」欲求が生じたという可能性を否定したわけだから、「考えたことを自分に伝えたい」欲求とは全く独立に「考えたことを人(他人)に伝えたい」欲求が生じたと考えるか、「考えたことを自分に伝えたい」欲求を実現する過程で何かを契機として「考えたことを人(他人)に伝えたい」欲求が生じたと考える他ない。全く独立に生じたとすればそれ以上考えるべきことはない。しかし、何かを契機として生じたと考える方がありそうに思える。それでは、その契機とは何なのか。契機があるとすれば、それは多分、表現するということだろう。もう一度、今度は「伝える」ということに着目して、表現するということについて考えてみよう。
先に表現することを検討した時に書いた生理的な反応や無意識的な行為は、無意識的であるがゆえに他人に伝達するために行われるわけではない。しかし、外部(他人)から見ると、その反応や行為をした人の何らかの内的状態を表すもの(すなわち一種の表現)として受け取ることが可能である。それは、観察された反応や行為が自分にも起こることが認識されることにより、それが起こるときの自分の内的状態と結び付けて考えることが出来るからである。そのことがわかれば、人が意識的に他人に何かを伝えようとした時に、生理的な反応や無意識的な行為のうち模倣が可能なものを利用するということが起こるだろう。これが、人が他人に何かを伝えることの原初的な形式だったように思う。もしこれが正しいなら、人への伝達を目的としない無意識の行為が人への伝達を目的とする表現行為を生み出したことになる。
人に伝達するための表現行為はそのようにして発生したとしても、元の形式を離れてどんどん発達してゆき、ついに言葉が生まれ、さらにそのあとも発達してゆく(この過程の詳細を考えることは手に余るので考えない)。ここで重要なことは、初め無意識の自己表現だったものが人への伝達のための表現に転用されたということと、伝達のための表現がどんどん発達したということだ。他人への伝達は集団を構成して生きてゆく人類にとって根本的に重要なことであり、その方法(表現)の発達が社会の進歩を支えたことは言うまでもないだろう。一方、他人への伝達を目的としない自分に対する表現が独自に発達するとは考えにくい。そのため、感情や思考の自分に対する意識的な表現は、他人への伝達のために開発された表現を使って行われるようになったと考えられる。
このような経緯を考えると、自分に対する伝達表現は元々他人に対する伝達表現であり、その重要度や頻度から、自分に対する表現であってもその表現を他人に伝達しようとする傾向が自然と現れるように思えてきた。すなわち、「考えたことを自分に伝えたい」欲求は「考えたことを自分に対して表現する」ということを介して「考えたことを人(他人)に伝えたい」欲求に容易かつ自然に転化するだろうと思った。ここまで考えて、ようやく自分の中に生じた「考えたことを人(他人)に伝えたい」欲求を素直に受け入れる気になった。
ここまで書いて来たことをまとめるとどうなるか。「考えをまとめたい」という欲求は人間にとって本質的な欲求として納得し、そのために書いてみたいということが自分の中に元々あったと認め、考えたことを書いて表現した(実際にはそれを想像した)結果として「考えたことを人に伝えたい」と思ったことを自然な欲求として肯定した、ということだ。また、考えるということは「思考とその認識の連鎖」であり、考えるをまとめるということはその連鎖の階層を昇ってゆくことであるとも書いた。
では、考えたことを人に伝えるということは、考えをまとめる⇒その結果を表現する⇒表現したものを人に伝える、という一方向の流れなのだろうか。そうではない。考えをまとめるということが思考とその認識の繰り返しであったように、考えた結果を表現しようとするとうまく表現するためにさらに考えることが必要になるので、考えることと表現することは行ったり来たりの繰り返しである(思考と表現の連鎖)。また、表現したものを人に伝えるということは、充分に人に伝えられなかったと思えば、また考えてそれを表現して人に伝えるということなるのでここにも繰り返しが生じる(表現と伝達の連鎖)。しかも、この繰り返しは、人に伝える前に伝えることを想像するだけでも、うまく伝えたいと考えて表現を工夫するといった形で起こる(表現と伝達想像の連鎖)。従って、考えたことを人に伝えるということは、考えをまとめる⇔その結果を表現する⇒表現したものを人に伝えようとする(⇒考えをまとめるに戻る)⇒人に伝える(⇒考えをまとめるに戻る)、といった複雑な繰り返し作業になる。
ここで重要なのは、うまく伝えたいと考えて表現を工夫するというところだ。元々は「考えをまとめたい、そのために書いてみたい」ということであったとしても、それと独立に生じた「考えたことを人に伝えたい」という欲求を肯定すると、人に伝えるために書くことになり、うまく伝えられるように考えることになるという事実を認識する必要がある。ここまでくると、初めから「考えたことを人に伝えたい」欲求があったのとほとんど同じだ。そうわかったら、経緯についてあれこれ考えずに「考えたことを人に伝えたい」欲求を受け入れた方がよいと思った。
●考えたことを人に伝える方法
「考えたことを人に伝えたい」欲求があっても、人間は欲求の奴隷ではないので、その欲求を捨てることも出来る。しかし、欲求を実現するために人に迷惑をかけることが人が許容できないほど大きくはないのであれば、欲求に従ってもよいと思った。それで、迷惑の度合いに着目して人に伝える方法を検討してみることにした。
そもそも自分の考えたことを人に伝えることをどうやってきたのだろう。仕事の場では当然、口頭やメールや文書で数え切れないくらい行ってきた。それらはほぼ全部が業務に関することに限られていて、職場内外で時々雑談する時の話題も軽いものばかり。個人的な相談事で会話することもあったが、それは個人的であるがゆえに限定された内容であった。
世の中の色々なことについて様々な程度で考えることがあるが、それらについて人に伝えたい(話したい)と思った時は、家族や友人・知人に話してきた(文書にして示すなんてことはない)。日常生活で経験したことや、読んだ本の内容や、主にマスメディアを通じて世の中で関心を持たれている事柄などについて話すことが多い。それらの話題でも、単なる感想程度ならば特に問題はないが、話題にした事柄の原因や複数の事象の関係や意味付け等について自分なりに分析した内容を話そうとすると困ったことが起こる。それは、話を聞かされる相手が私が話す事柄に関心がない場合だ。関心がない事柄について、軽い感想程度ならまだしも、分析的で複雑な話を延々と聞かされることは苦痛以外の何物でもない。ましてや話される事柄が、日常生活やマスメディアの話題から大きく外れるならなおさらだ。
もし、考えたことを文章にしてメールで送るという方法をとれば、相手は話を聞かされるより苦痛が少ないだろうが、それでも何か応答しなければというプレッシャーを感じて迷惑だろうと思う。文章を印刷して紙を渡すという方法(家族や友人・知人の間ではあまり普通の方法ではない)でも大同小異だ。そもそも問題は、伝える方法にあるのではなく、伝えたい内容に関心がない相手に伝えようとすることにある。
伝えようとする相手が自分と同じ関心を持つ可能性が低いのは、自分の家族や友人・知人の数が限られているためである。多数の人を相手にして伝えようとすれば、その中には自分と同じ関心を持つ人がいる可能性が高くなるはずである。自分の考えを不特定多数に伝えようとする方法としては、古典的には紙にして道行く人に配るというやり方がある。これは、受け取って関心がなければ捨てるだけなので迷惑ではあるがその度合いはそれほど大きくない(但し、受け取った人とは別にゴミの発生や資源の無駄遣いという社会的迷惑がある)。しかし、この方法の最大の問題は紙を用意する経済的コストと配る時間的コストが大きいことだ。
こう考えると(ここまで考えなくても)、インターネット上のサービス(ブログやSNS)を使うことが「考えたことを人に伝えたい」という欲求を満たす最適な方法であることがわかった。先ず、サービスの利用者が膨大であるので自分と同じ関心を持つ人がいる可能性が他の方法より高いだろう。また、迷惑という点から言えば、関心がない人はアクセスしないので、元々膨大な情報がある中に不要な情報(関心がものを見つける場合の雑音)がほんの少しだけ増えることの迷惑は無視できるくらい僅かだろうと思う。また、システムに与える負荷(主に情報を保持する記憶容量)は無視出来るだろう。
最後に残ったのは、ブログにするかSNSにするかだ。どちらも使ったことがないので、ネット上の解説を見た限りの印象で選ぶことになる。SNSはフロー型で比較的短い文章が早い速度で流れてゆくのに対して、ブログはストック型で比較的長い文章が長時間残り続ける。この記事もそうだが、時間をかけて比較的長い文章を書きがちな身にはブログの方がよいと思う。また、SNSは発信・応答のコミュニケーションが盛んな特徴がある一方、ブログは情報発信主体で応答はあまり行われない印象だが、元々が自分の考えたことをまとめたいということだったので、この面からもブログの方が合っていると思った。
以上がブログを始めることになったわけだが、やってみると恐ろしく時間がかかった上に、だらだらと長い文章になってしまった。次に書く時は、荒っぽくてもいいからもっと短くしようと思う。
もし、この記事を読んで下さった方がいらっしゃれば、その方には深く感謝いたします。ありがとうございました。