示シテ云ク 世間ノ人多分云ク 學道ノコヽロザシアレドモ世ハ末世ナリ 人ハ下劣ナリ 如法ノ修行ニハタユベカラズ 只隨分ニヤスキニツキテ 結縁ヲ思ヒ 他生ニ開悟ヲ期スベシト 今マ云フ 此ノ言ハ 全ク非ナリ 佛敎ニ正像末ヲ立ルコト 暫ク一途ノ方便ナリ 在世ノ比丘必ズシモ皆スグレタルニアラズ 不可思議ニ希有ニアサマシク 下根ナルモアリキ 故ニ 佛ケ種々ノ戒法等ヲマフケ玉フコト 皆ワルキ衆生 下根ノ爲ナリ 人人皆ナ佛法ノ器ナリ カナラズ非器ナリト思フコトナカレ 依行セバ必ズ證ヲ得ベキナリ 既ニ心アレバ 善惡ヲ分別シツベシ 手アリ足アリ 合掌歩行ニカケタル事アルベカラズシカアレバ 佛法ヲ行ズルニハ器ヲエラブベキニアラズ 人界ノ生ハ皆ナ是レ器量ナリ 餘ノ畜生等ノ生ニテハカナフベカラズ 學道ノ人只明日ヲ期スルコトナカレ 今日今時バカリ 佛法ニ隨テ行ジユクベキナリ
今は云く、この言ふことは、全く非なり。仏法に正像末を立つ事、しばらく一途の方便なり。真実の教道はしかあらず。依行せん、皆うべきなり。在世の比丘必ずしも皆勝れたるにあらず。不可思議に希有に浅間しき心根、下根なるもあり。仏、種々の戒法等をわけ給ふ事、皆わるき衆生、下根のためなり。人々皆仏法の機なり。非器なりと思ふ事なかれ、依行せば必ず得べきなり
正法眼蔵随聞記
by 道元
http://www.hokushin-media.com/library1/zuimon.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/道元
鎌倉仏教の多くは末法思想を肯定しているが、釈迦時代の弟子衆にもすぐれた人ばかりではなかったことを挙げて、末法は方便説に過ぎないとして、末法を否定した。
また、成仏とは一定のレベルに達することで完成するものではなく、たとえ成仏したとしても、さらなる成仏を求めて無限の修行を続けることこそが成仏の本質であり(修証一如)、釈迦に倣い、ただ坐禅にうちこむことが最高の修行である(只管打坐)とした。