いくつかのフランスのレジスタンス文学に比べ、シローネの小説は、政治と人間という、この類の終戦後の小説の在来の方程式に、風土と宗教の問題を織り入れることによって、それまでになかった重厚さと現実性を与え、全体的な人間ということについて深く考えさせてくれた。
この「全体的な人間」のイメージに魅せられて私はイタリア語と取り組んだ。
イタリアを日本人たちに説明する仕事に、私は、いつか没頭することになるだろうか。シローネから出発した、「全人間」を求めての、イタリアの、そして私の半生の旅を、日本の人たちにどうしてもわかってもらいたいと思う日が、いつかやってくるだろうか。
イタリア語と私
by 須賀敦子
(sk)
シローネの小説に描かれている欠点ばかりの人間、地球に生まれたことの傷跡を抱える人間は、須賀敦子にとってはみんな、「全体的な人間」ということになるらしい。
自然の風景ではなく、人間の風景の美しさというのは、イタリアにたくさんいる「全体的な人間」の明るさなのではないか。そう思わせるような須賀敦子のイタリアへのこだわりが、感じられる。
須賀敦子が好きだったのは、イタリアではなく、イタリアに住む人たちではなかったのか。いや、もしかしたら、イタリアに住むただ一人の人ではなかったのか。
人は、欠点ばかりの人を愛したときに、とても優しくなる。須賀敦子の優しさは、人を愛する優しさなのではないか。そして、須賀敦子の文章は、愛の記憶の結晶なのではないか。
須賀敦子の魅力は、育ちがいいとか、上品だとか、文章がうまいとか、そんなことではなく、誰かを好きになったことをずっとずっと大事にしたことなのだと、勝手に思ってはいけないだろうか。