shinichi Post author10/08/2022 at 5:00 pm 僧侶は結婚していいの? by 長南瑞生 仏教ウェブ講座 https://true-buddhism.com/teachings/marriage/ 日本の僧侶はたいてい結婚しています。 結婚しているばかりか、若いイケメン僧侶は、 「僧職系男子」と言われて、女性に人気です。 確かに何か知的で優しそうなイメージがあり、 結婚したくなるのも頷けます。 ところで、そもそも僧侶は結婚してもいいのでしょうか? 現在の僧侶がみんな結婚している理由 現代日本の僧侶たちは、なぜみんな結婚しているのでしょうか? その大きな要因の一つとして、明治時代に、神道を国教としようとしていた 政府が「今より僧侶の肉食・妻帯・蓄髪等勝手たるべき事」という布告を出して 仏教の勢力を弱めようとした歴史があります。 それ以来、戒律で結婚を禁じられている宗派でも、 僧侶が結婚するようになったのです。 しかしながら政府から「自由ですよ」と言われて それに乗っかってしまうようでは、その人たちは、 仏道を求める気持ちがあるのか疑問ですから、 あまり仏教の本質的な問題ではありません。 では、仏教ではどのように教えられているのでしょうか? 仏教では結婚はOK? お釈迦さまは、 僧侶に250戒、 尼僧に500戒の 戒律を定められています。 戒律というのは、団体の規則のようなもので、 これを守っていないと、僧侶とはいえません。 中でも重要なものに、 「男は女にふれてはならない」 という決まりがあり、それを破れば重大な罪ですから、 結婚などはもってのほかです。 これはとても大事なことで、『首楞厳経しゅりょうごんきょう』には、このようにも説かれています。 淫いんを断たずして禅定を修するは、 沙石しゃせきを蒸して飯となさんと欲するがごとし。 百千劫ひゃくせんごう をふるもただ熱沙と名くのみ。 (漢文:不斷婬修禪定者 如蒸沙石欲其成飯 經百千劫秖名熱沙) (引用:『首楞厳経しゅりょうごんきょう』) 性欲をなくさずに修行をしようとしても、 石を焚いてご飯にするより難しい、ということは、 さとりは開けませんので、 僧侶にとって、結婚など論外なのです。 それというのも、仏のさとりを開くには、 煩悩を断ち切らなければならないからです。 これではほとんどの人は、助からないことになってしまいます。 結婚したら助からない? ところが仏教には、 自力の仏教と他力の仏教の2つあります。 自力の仏教では、自分の力で煩悩をなくして 仏のさとりを目指す教えですから、 結婚していては助かりません。 ところが他力の仏教では、阿弥陀如来の本願力によって、 煩悩ではなく、苦しみの根元を破られて救われる教えですから、 結婚して普通の生活をしている人でも救われます。 ですからある人が、他力の仏教を教えられた法然上人ほうねんしょうにんに この世をどう生きるか質問したとき、以下のように答えられました。 現世を過ぐべきようは、念仏申されんようにに過ぐべし。 (引用:『和語灯録』) 「念仏を申されんように」というのは、 仏教を聞けるように ということです。 仏教にはなぜ生きるかという 本当の生きる目的が教えられていますから、 どう生きるかという生きる手段は、 本当の生きる目的を知り、それに応じて、 その時その時、選択していけばいいということです。 続けて法然上人は、ズバリこう言われています。 ひじりで申されずば、め(妻)をもうけて申すべし。 妻をもうけて申されずば、ひじりにて申すべし。 (引用:『和語灯録』) 「ひじり」とは独身のことです。 独身で仏教を聞けなければ結婚すればいいし、 結婚して仏教を聞けなければ独身で聞けばいいよ、 ということです。 それで、法然上人は結婚されませんでしたが、 法然上人のお弟子の親鸞聖人しんらんしょうにんは、 31歳のときに公然と結婚され、 浄土真宗の僧侶は明治時代の前から結婚しています。 これはなぜかというと、仏教では、 煩悩は確かに私たちを苦しめる原因ですが、 もっと深い、苦しみ悩みの根本原因は、煩悩ではない と教えられており、 その苦悩の根元をなくせば、 男も女も、僧侶も在家の人も、ありのままで 煩悩即菩提ぼんのうそくぼだいの変わらない幸福になれるからです。 その仏教に説かれる苦しみの根本原因は 電子書籍とメール講座でまとめて解説してあります。 Reply ↓
shinichi Post author10/08/2022 at 5:03 pm 臨済宗妙心寺派 春日山 大源寺 禅寺の住職日記 肉食妻帯 https://daigenji.net/blog/肉食妻帯/ 「お坊さんはお肉を食べて、結婚してもいいのですか。」という質問はよくあります。 「元々は禁じられてきましたが、明治時代から解禁されたようです。」とお答えしておりました。 某週刊誌の記事に、明治政府によって解禁された経緯が書かれていました。明治時代以前も、結婚していたり、肉食をしていたお坊さんはおられました。 無理に肉食妻帯を禁じるよりは、政府としては「ご自由に。」という立場を取ったようです。 戒律を守り切ることは難しい。しかし何でもやっていいわけではないのです。懺悔(さんげ)をして振り返ることで求められる時代になってきたようです。 Reply ↓
shinichi Post author10/08/2022 at 8:11 pm 佛語典故–蒸沙成飯 人間福報 https://www.merit-times.com/NewsPage.aspx?unid=457550 【典故】又作蒸砂作飯。謂蒸沙石想煮成飯,比喻事物之不可成。佛陀說法為使人易於理解教說之意義內容,而使用實例或寓言等加以說明。 《楞嚴經》卷六:「是故阿難!若不斷淫修禪定者,如蒸沙石,欲其成飯,經百千劫,秖名熱沙,何以故?此非飯本石沙成故。」 【意義】企圖把沙石蒸成飯,比喻事情不可能成功,目的不可能達到。沙石不是飯的因,飯也不是沙石的果,所以「蒸沙」不能「成飯」。事情的成就,必有其因果關係,佛陀告誡弟子有所著而修禪定,如蒸沙作飯而不能成。同樣的,若修行人對金錢、名利、權勢等的過分貪求,必然苦惱不斷;欲遠離苦惱,必定要斷除貪念。如貪念不除,欲得安樂,就如同「蒸沙成飯」一般,違反因果,是絕對不可能的。 【出處】《楞嚴經》卷六、《禪家龜鑑》、《萬善同歸集》卷六、《佛光大辭典》p5911。{120} ** (Google 翻訳) 仏教の暗示 – 砂を蒸して米にする 【余談】料理の砂蒸しにも使われる。砂や石を蒸してご飯に炊き込みたいというのは、ありえないことの比喩です。人々が教えの意味と内容を理解しやすくするために、仏陀の教えは例や比喩を使って説明されています。 『修羅劫経』六巻「だから阿難! 情欲の念を常に修行する者が、砂石を蒸して米にならせようとするのなら、数十万劫後には熱砂と呼ばれる」 、なぜ?? これは飯本師範によるものではありません。」 【意味】砂石を蒸してご飯にしようとしても、うまくいかない、目的が達成できないという意味。砂と石は米の原因ではなく、米は砂と石の結果ではないため、「砂を蒸しても米を作る」ことはできません。仏陀は弟子たちに、砂を蒸したり料理を作ったりするのと同じように、やるべきことがあるときに瞑想を実践するように警告しましたが、それは達成できません。同様に、修煉者がお金、名声、権力などに過度に貪欲である場合、彼は絶えず苦しむ必要があり、苦しみを取り除きたい場合は、貪欲を断ち切らなければなりません。貪欲さをなくさないと、幸せになりたいというのは「ご飯に砂を炊く」ようなもので、因果関係を破るもので、絶対にありえない。 【出典】『修羅窯経』第六巻、『禅師の鏡』、『諸善集』第六巻、『仏光事典』p5911. {120} Reply ↓
僧侶は結婚していいの?
by 長南瑞生
仏教ウェブ講座
https://true-buddhism.com/teachings/marriage/
日本の僧侶はたいてい結婚しています。
結婚しているばかりか、若いイケメン僧侶は、
「僧職系男子」と言われて、女性に人気です。
確かに何か知的で優しそうなイメージがあり、
結婚したくなるのも頷けます。
ところで、そもそも僧侶は結婚してもいいのでしょうか?
現在の僧侶がみんな結婚している理由
現代日本の僧侶たちは、なぜみんな結婚しているのでしょうか?
その大きな要因の一つとして、明治時代に、神道を国教としようとしていた
政府が「今より僧侶の肉食・妻帯・蓄髪等勝手たるべき事」という布告を出して
仏教の勢力を弱めようとした歴史があります。
それ以来、戒律で結婚を禁じられている宗派でも、
僧侶が結婚するようになったのです。
しかしながら政府から「自由ですよ」と言われて
それに乗っかってしまうようでは、その人たちは、
仏道を求める気持ちがあるのか疑問ですから、
あまり仏教の本質的な問題ではありません。
では、仏教ではどのように教えられているのでしょうか?
仏教では結婚はOK?
お釈迦さまは、
僧侶に250戒、
尼僧に500戒の
戒律を定められています。
戒律というのは、団体の規則のようなもので、
これを守っていないと、僧侶とはいえません。
中でも重要なものに、
「男は女にふれてはならない」
という決まりがあり、それを破れば重大な罪ですから、
結婚などはもってのほかです。
これはとても大事なことで、『首楞厳経しゅりょうごんきょう』には、このようにも説かれています。
性欲をなくさずに修行をしようとしても、
石を焚いてご飯にするより難しい、ということは、
さとりは開けませんので、
僧侶にとって、結婚など論外なのです。
それというのも、仏のさとりを開くには、
煩悩を断ち切らなければならないからです。
これではほとんどの人は、助からないことになってしまいます。
結婚したら助からない?
ところが仏教には、
自力の仏教と他力の仏教の2つあります。
自力の仏教では、自分の力で煩悩をなくして
仏のさとりを目指す教えですから、
結婚していては助かりません。
ところが他力の仏教では、阿弥陀如来の本願力によって、
煩悩ではなく、苦しみの根元を破られて救われる教えですから、
結婚して普通の生活をしている人でも救われます。
ですからある人が、他力の仏教を教えられた法然上人ほうねんしょうにんに
この世をどう生きるか質問したとき、以下のように答えられました。
「念仏を申されんように」というのは、
仏教を聞けるように
ということです。
仏教にはなぜ生きるかという
本当の生きる目的が教えられていますから、
どう生きるかという生きる手段は、
本当の生きる目的を知り、それに応じて、
その時その時、選択していけばいいということです。
続けて法然上人は、ズバリこう言われています。
「ひじり」とは独身のことです。
独身で仏教を聞けなければ結婚すればいいし、
結婚して仏教を聞けなければ独身で聞けばいいよ、
ということです。
それで、法然上人は結婚されませんでしたが、
法然上人のお弟子の親鸞聖人しんらんしょうにんは、
31歳のときに公然と結婚され、
浄土真宗の僧侶は明治時代の前から結婚しています。
これはなぜかというと、仏教では、
煩悩は確かに私たちを苦しめる原因ですが、
もっと深い、苦しみ悩みの根本原因は、煩悩ではない
と教えられており、
その苦悩の根元をなくせば、
男も女も、僧侶も在家の人も、ありのままで
煩悩即菩提ぼんのうそくぼだいの変わらない幸福になれるからです。
その仏教に説かれる苦しみの根本原因は
電子書籍とメール講座でまとめて解説してあります。
臨済宗妙心寺派 春日山 大源寺 禅寺の住職日記
肉食妻帯
https://daigenji.net/blog/肉食妻帯/
「お坊さんはお肉を食べて、結婚してもいいのですか。」という質問はよくあります。
「元々は禁じられてきましたが、明治時代から解禁されたようです。」とお答えしておりました。
某週刊誌の記事に、明治政府によって解禁された経緯が書かれていました。明治時代以前も、結婚していたり、肉食をしていたお坊さんはおられました。
無理に肉食妻帯を禁じるよりは、政府としては「ご自由に。」という立場を取ったようです。
戒律を守り切ることは難しい。しかし何でもやっていいわけではないのです。懺悔(さんげ)をして振り返ることで求められる時代になってきたようです。
佛語典故–蒸沙成飯
人間福報
https://www.merit-times.com/NewsPage.aspx?unid=457550
【典故】又作蒸砂作飯。謂蒸沙石想煮成飯,比喻事物之不可成。佛陀說法為使人易於理解教說之意義內容,而使用實例或寓言等加以說明。
《楞嚴經》卷六:「是故阿難!若不斷淫修禪定者,如蒸沙石,欲其成飯,經百千劫,秖名熱沙,何以故?此非飯本石沙成故。」
【意義】企圖把沙石蒸成飯,比喻事情不可能成功,目的不可能達到。沙石不是飯的因,飯也不是沙石的果,所以「蒸沙」不能「成飯」。事情的成就,必有其因果關係,佛陀告誡弟子有所著而修禪定,如蒸沙作飯而不能成。同樣的,若修行人對金錢、名利、權勢等的過分貪求,必然苦惱不斷;欲遠離苦惱,必定要斷除貪念。如貪念不除,欲得安樂,就如同「蒸沙成飯」一般,違反因果,是絕對不可能的。
【出處】《楞嚴經》卷六、《禪家龜鑑》、《萬善同歸集》卷六、《佛光大辭典》p5911。{120}
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(Google 翻訳)
仏教の暗示 – 砂を蒸して米にする
【余談】料理の砂蒸しにも使われる。砂や石を蒸してご飯に炊き込みたいというのは、ありえないことの比喩です。人々が教えの意味と内容を理解しやすくするために、仏陀の教えは例や比喩を使って説明されています。
『修羅劫経』六巻「だから阿難! 情欲の念を常に修行する者が、砂石を蒸して米にならせようとするのなら、数十万劫後には熱砂と呼ばれる」 、なぜ?? これは飯本師範によるものではありません。」
【意味】砂石を蒸してご飯にしようとしても、うまくいかない、目的が達成できないという意味。砂と石は米の原因ではなく、米は砂と石の結果ではないため、「砂を蒸しても米を作る」ことはできません。仏陀は弟子たちに、砂を蒸したり料理を作ったりするのと同じように、やるべきことがあるときに瞑想を実践するように警告しましたが、それは達成できません。同様に、修煉者がお金、名声、権力などに過度に貪欲である場合、彼は絶えず苦しむ必要があり、苦しみを取り除きたい場合は、貪欲を断ち切らなければなりません。貪欲さをなくさないと、幸せになりたいというのは「ご飯に砂を炊く」ようなもので、因果関係を破るもので、絶対にありえない。
【出典】『修羅窯経』第六巻、『禅師の鏡』、『諸善集』第六巻、『仏光事典』p5911. {120}