神武天皇、明治天皇 3 Replies 綏靖天皇のなかの神武天皇の血は 1/2 安寧天皇のなかの神武天皇の血は 1/4 懿徳天皇のなかの神武天皇の血は 1/8 孝昭天皇のなかの神武天皇の血は 1/16 孝安天皇のなかの神武天皇の血は 1/32 明治天皇のなかの神武天皇の血は 1/4,722,366,482,869,650,000,000 (47垓2236京6483兆分の1) それにしては、よく似ている。
shinichi Post author10/02/2013 at 1:48 pm 明治天皇は第122代の天皇なので、2の121乗分の1。つまり、2澗6585溝分の1。 でも、http://ja.wikipedia.org/wiki/皇室の系図一覧 で、 たどって数えてみると、明治天皇は神武天皇から数えて73世代目。 なので、明治天皇のなかの神武天皇の血は2の72乗分の1。つまり、47垓分の1。 。。。 といいたいところだけれど、近親との婚姻が多いので、 実際のところは、2の27乗分の1ぐらい、つまり1億3421万の1くらいになる。 日本中に、 「我が家の家系図を辿ると、なになに天皇の子供の。。。」 なんていう話が溢れるわけだ。 Reply ↓
shinichi Post author10/02/2013 at 2:10 pm Invented tradition, invented history. 伝統とか系図とかは「作ったものの勝ち」らしい。 Reply ↓
shinichi Post author10/02/2013 at 2:14 pm ウィキペディア http://ja.wikipedia.org/wiki/万世一系 万世一系は、戦前において、共和制や共産主義革命を否定する根拠とされた。また、日本は君民一体の国柄で、他国のように臣下や他民族が皇位を簒奪することがなく、臣民は常に天皇を尊崇してきたとする歴史観を形成した。さらに、日本は神の子孫を戴く神州であり、延いては世界でも優れた道義国家であるとする発想を生んだ。戦前には、国粋主義と結びついて皇国史観という歴史観を形成した。特に、明治維新から戦中までの期間には、国家公認の史観として重視され、大日本帝国憲法第1条にも記載されていた。 北一輝は戦前の右翼思想の大物である。自筆の『国体論及び純正社会主義』にて、「日本国民は万世一系の一語に頭蓋骨を殴打されことごとく白痴となる」と万世一系を批判した。この著書は刊行後すぐに発禁処分を受けた。 万世一系はもはや公式のセオリーとはされなくなったが、公式の場での談話や発言からは消えなかった。昭和52年(1977年)8月、那須御用邸での記者会見にて、昭和天皇は次のような説明をした。 国体というものが、日本の皇室は昔から国民の信頼によって万世一系を保っていたのであります。 — 昭和天皇, (1977年8月、那須御用邸での記者会見) 日本国憲法は、天皇の祖先たちへの言及も、王朝の古代史的な古さへの言及もしていない。しかし、皇室の法的地位は、皇位の世襲の原則を再確認することで是認された。昭和41年(1966年)、王朝の起点である2月11日のまま、戦後廃止された「紀元節」がほぼ同義の「建国記念の日」として復活した。 平成2年(1990年)、明仁親王が天皇に即位した。即位にあたり、祖先および神々とのきずなを強調する上代からの儀式、「大嘗祭」(だいじょうさい)が執り行われた。平成11年(1999年)、皇統を褒め称える「君が代」も、国旗国歌法により日本の国歌として確定された。 Reply ↓
明治天皇は第122代の天皇なので、2の121乗分の1。つまり、2澗6585溝分の1。
でも、http://ja.wikipedia.org/wiki/皇室の系図一覧 で、
たどって数えてみると、明治天皇は神武天皇から数えて73世代目。
なので、明治天皇のなかの神武天皇の血は2の72乗分の1。つまり、47垓分の1。
。。。 といいたいところだけれど、近親との婚姻が多いので、
実際のところは、2の27乗分の1ぐらい、つまり1億3421万の1くらいになる。
日本中に、
「我が家の家系図を辿ると、なになに天皇の子供の。。。」
なんていう話が溢れるわけだ。
Invented tradition, invented history.
伝統とか系図とかは「作ったものの勝ち」らしい。
ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/万世一系
万世一系は、戦前において、共和制や共産主義革命を否定する根拠とされた。また、日本は君民一体の国柄で、他国のように臣下や他民族が皇位を簒奪することがなく、臣民は常に天皇を尊崇してきたとする歴史観を形成した。さらに、日本は神の子孫を戴く神州であり、延いては世界でも優れた道義国家であるとする発想を生んだ。戦前には、国粋主義と結びついて皇国史観という歴史観を形成した。特に、明治維新から戦中までの期間には、国家公認の史観として重視され、大日本帝国憲法第1条にも記載されていた。
北一輝は戦前の右翼思想の大物である。自筆の『国体論及び純正社会主義』にて、「日本国民は万世一系の一語に頭蓋骨を殴打されことごとく白痴となる」と万世一系を批判した。この著書は刊行後すぐに発禁処分を受けた。
万世一系はもはや公式のセオリーとはされなくなったが、公式の場での談話や発言からは消えなかった。昭和52年(1977年)8月、那須御用邸での記者会見にて、昭和天皇は次のような説明をした。
国体というものが、日本の皇室は昔から国民の信頼によって万世一系を保っていたのであります。
— 昭和天皇, (1977年8月、那須御用邸での記者会見)
日本国憲法は、天皇の祖先たちへの言及も、王朝の古代史的な古さへの言及もしていない。しかし、皇室の法的地位は、皇位の世襲の原則を再確認することで是認された。昭和41年(1966年)、王朝の起点である2月11日のまま、戦後廃止された「紀元節」がほぼ同義の「建国記念の日」として復活した。
平成2年(1990年)、明仁親王が天皇に即位した。即位にあたり、祖先および神々とのきずなを強調する上代からの儀式、「大嘗祭」(だいじょうさい)が執り行われた。平成11年(1999年)、皇統を褒め称える「君が代」も、国旗国歌法により日本の国歌として確定された。