(From the diaries of José Rizal, 1888)
Japan has enchanted me. The beautiful scenery, the flowers, the trees, and the inhabitants — so pleasant. O-Sei-San, Sayonara, Sayonara! I have spent a happy golden month; I do not know if I can have another one like that in all my life. Love, money, friendship, appreciation, honors — these have not been wanting.
To think that I am leaving this life for the uncertain, the unknown. There I was offered an easy way to live, beloved and esteemed…
To you, I dedicate the final chapter of these memoirs of my youth. No woman, like you, has ever loved me. No woman, like you, has ever sacrificed for me. Like the flower of the chodji that falls from the stem fresh and whole without falling leaves or without withering — with poetry still despite its fall — thus you fell. Neither have you lost your purity nor have the delicate petals of your innocence faded — Sayonara, Sayonara!
You shall never return to know that I have once more thought of you and that your image lives in my memory, and undoubtedly, I am always thinking of you. Your name lives in the sight of my lips, your image accompanies and animates all my thoughts. When shall I return to pass another divine afternoon like that in the temple of Meguro? When shall the sweet hours I spent with your return? When shall I find them sweeter, more tranquil, more pleasing? You the color of the camelia, its freshness, its elegance…
Ah! The last descendant of a noble family, faithful to an unfortunate vengeance, you are lovely like . . . everything has ended! Sayonara, Sayonara!
ホセ・リサール
ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/ホセ・リサール
リサールは1891年10月18日にマルセイユを発ち、フィリピンに帰国しようとしたが、フィリピン官憲がリサールの反植民地主義を危険視したために帰国がかなわず、11月19日に香港に到着した後、当地で眼科医を開業した。しかしながら望郷の念は已まず、翌1892年6月15日にフィリピンに帰国した。帰国後、リサールは「ラ・リガ・フィリピナ(フィリピン同盟)」を組織すべく活動した。ラ・リガ・フィリピナの思想的立場は急進的な革命を望むものではなく、スペイン治下のまま暴力を用いずに穏健な改革を望むものであったが、この方針をも危険視した植民地政府当局によってリサールは逮捕され、同年7月7日にミンダナオ島のダピタンへ流刑された。ダピタンでのリサールは医者、及び教師として住民に接し、また、ヨーロッパの学者からの依頼に応じてミンダナオ島の地質、昆虫、動物についての研究を残している。この頃までにリサールは20数言語を習得していた。
1896年7月に流刑を終えた後、かねてから伝えていた軍医志望の旨が総督のラモン・ブランコに許可されたため、リサールはスペイン海軍の巡洋艦「カスティリア号」に乗り込み、任地のスペイン領キューバへと旅立った。しかし、船が地中海に入ったところで秘密結社カティプナンが独立闘争(1896年革命)を開始すると、上陸地のバルセロナで以前からリサールに目をつけていたスペイン官憲に逮捕された。スペインからフィリピンの首都マニラに送致された後、軍法会議にかけられ、同年12月26日に銃殺刑が宣告された。処刑の前の晩に妹に手渡した遺言代わりの辞世の詩は、後に『ミ・ウルティモ・アディオス(Mi Ultimo Adios,『我が最後の別れ』の意)』と名づけられ、彼の祖国への熱い思いを伝えるものとなっている。同年12月30日、リサールを一目見ようと集まったフィリピン民衆が見守る中、35歳にしてマニラで銃殺された。
リサールの処刑は反響を招いた。リサール処刑の翌々年に成立したフィリピン第一共和国大統領のエミリオ・アギナルドはリサールが処刑された12月30日を「リサール記念日」に指定し、祭日とした。このようにリサールはフィリピンで高く評価されている他、インドネシア初代大統領のスカルノもオランダ人がインドネシア語に訳したリサールの著作を通して影響を受けた。
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美しき風景と、花と、樹木と、
そして平和で、丁寧で、こころよき住民と
おせいさん、さようなら、さようなら。
あの目黒の寺のひと時のような神々しい午後を
私はまた経験することがあるでしょうか。
思えば私はこの生活をあとにして、
不安と未知に向かって旅立とうとしているのだ。
この日本で、私にたやすく愛と尊敬の生活が
できる道が申し出されているのに。
おせいさんよ、僕はあなたに青春の思い出の最後の一章を捧げます。
どんな女性も、あなたのように僕を愛してはくれなかった。
どんな女性も、あなたのように純真で献身的ではなかった。
枝から葉をもがれても、生き生きとして萎えない丁子の花のようです。
もうやめよう。みんなおしまいになってしまった。
さようなら。さようなら。