Category Archives: art

水野聡

経典に「善悪不二、邪正一如」とある。本来良い・悪いなど何をもって定めるのか。ただ時により用に足るものを良い、足りないものを悪いとするだけのこと。この芸の品々というものも、その時代の人々所々により最大多数の好みによって、受け入れられるものが用に足りるため、花となるのだ。ここではこれこれの芸がもてはやされ、あちらではまた別の芸が愛される。これぞ人それぞれの心に咲く花である。いずれがまことの花であろうか。ただ時が選ぶもの、これを花とすべきである。

中田勝康

禅宗で盛んになった水墨画では小さな紙一枚に宇宙を現した。庭園でも同様に方寸の地に宇宙を象徴した。坪庭は建物の間にある、暗くて狭い場所である。このような限られた場所に、禅の物語を盛り込む事は究極の抽象性が求められる。まさに現代抽象芸術だ。

隈研吾

金閣は義満の時代、幕府に力があり、高度成長の時代、権力者が造った。
それに対し数10年しか隔ててないにもかかわらず、すとんと時代(空気)が変る。
義政の時代はバブル崩壊後の日本のような時代。
悪条件の中、美学で反転するような生き方がデザインにあるのではないか。

銀閣の全体のレイアウトでおもしろいのは、例えば2階からの視点、その上にあったといわれる草庵からの視点とかいくつかの視点があり、それらの視点から感じられる世界が立体的に重ねあわされている。
胎蔵界曼荼羅、母胎の胎、母なる宇宙に抱え込まれるみたいな感じが全体の地形にある。
義政は地形の読み方や宇宙の読み方に関して長けたデザイナーだった。

Deyan Sudjic

Kawakubo talks of her admiration of Le Corbusier, and it is not too farfetched to see the influence of his purist Modernism in her own abstraction of fashion into the fundamentals of texture, form and colour.’ Through her examination of clothing as a cerebral and emotional construct, there is a direct line back to the works of the architect. In the strangeness that imbues her pieces, we find her highly personal take on how to live.

辻惟雄

わびさびが茶の湯や禅と結びついて日本の美の主流とされる一方、「かざる」美は低く見られてきた。この年になると、わびさびもわかってきますけど(笑)。でも、茶人の小堀遠州が「綺麗さび」を掲げたように、両方を対照的に見せて引き立てる考え方もありました。
それに、「遊び」も日本美術の特質。奇想の画家たちは皆、見る人の笑いを誘う仕掛けを忘れません。歌川国芳は漫画家みたいだし、若冲の水墨画も、長沢蘆雪(ろせつ)が描く虎も遊んでる。世俗的な江戸美術はエンターテインメントという言葉がふさわしい。
美術は堅苦しく学ぶものではない。絵を見る、絵を描く、美術館に行く…アートの世界に首を突っ込むと、ちょっと違う世界が広がる。大げさだけど、生きる喜びにつながると思うんです。

平田オリザ

無駄のない社会は病んだ社会である。すなわち、芸術家のいない社会は病んだ社会だ。かつては村落共同体に芸術家が偏在したが、共同体の崩壊とともに芸術家の存在も消え失せた。だから、日本は病んだ社会だらけということになる。多様性、重層性のある社会は民主主義の根幹である。それを保証するためには、どうしても芸術家の存在が地域社会のなかで必要なのだ。

Shōji Hamada

Visitors to the folk craft museum in Tokyo often complain of the brevity of the descriptions of the objects, written in red on black lacquer tablets, saying that this is inconsiderate and insufficient. Yanagi always insisted that this was a greater kindness because it helped visitors to develop their own perceptions instead of Yanagi always insisted that this was a greater kindness because it helped visitors to develop their own perceptions instead of relying upon written words and other people’s ideas.

志條みよ子

なにかといえばすぐに原爆々々といまだにいわれている。原爆を書かない小説や原爆を取上げない絵画は広島の人間に限り、真の作品ではないごとくいわれている。七年も経った今日、もう昔のことと忘れ去ってしまえというのではないけれど、しかし、もうそろそろ地獄の絵を描いたり、地獄の文章ばかりをひねり上げることからは卒業してもいいのではないか。科学や政治の世界にまで、芸術の神髄が真実の文学が、低迷して行ってはならないと思う。
原爆は、科学であり、政治であり、なに物かへの一つの道具ではあるが、芸術ではない。

湯浅ちひろ

芸術は時に私に喜びを与えてくれました。しかし、芸術だけが喜びを与えてくれたわけではありません。そもそも、芸術は都市にしか存在しないものです。本来、自然とともに生きていくべき動物である人間達が都市に住むことで規律を守り、ストレスを抱え、秩序を乱すものを排除する・・・それを芸術に頼り、芸術で美しさを補い、さらなる刺激を求めているだけなのです。それにもかかわらず、多くのアーティストたちは自分が神になっているような高揚感を覚え、芸術を絶対とし、宗教よりも強く崇拝するようになるのです。
三年ほど前、エジプトのオアシスで砂漠生活をしていたことがありますが、遊牧民の彼らはアート、芸術、そんな言葉を必要としていませんでした。砂漠に沈む太陽を見て、祈り、毎日見ているはずの光景に今日も美しいと言っていました。自然のものが一番美しいとは言えませんし、砂漠に一生は住みたいとも思いませんが、芸術という単語が存在しない異世界がそこにはありました。
芸術は脳の投影を作品にする行為です。私たちは東京と言う大都市に生きているわけですが、完全なまでに不自然な暮らしの中で芸術がカオスに混沌になっているのは理に適っているわけです。

坂東玉三郎

Tamasaburo何かきっかけがあって、人はその出来事をまず「感受」します。やがて、それが自分の頭脳に、いわゆる感情として「浸透」していき、その結果「反応」が生まれてくるわけです。これは生理的に行われるものなのですが、それを意識的に作っていくというのが演技なのです。したがって、演技をする、つまり感情をリメイクしていくというためには、「感受」、「浸透」、「反応」の3つの過程が必要だということになります。
「感受」ですが、これは五感のことです。つまり、見る、聞く、においを嗅ぐ、味を感じる、そして肌で感じる。そして、その場の状況や「感受」した出来事や衝撃、あるいは誰かの行為に対して五感が受けた刺激の大小によって、その人の血圧や脈拍が反応して、浸透の速度が決まるわけです。その結果、自分の身体を使って、人間は「反応」していくわけです。
「演技」をする上で、もう一つ大切なことがあります。それは、内的感情というか、内的煥発とでもいうものです。自分の心の内からこみ上がってきたものに、不意にハッとすることがある。つまり、そこで内的感受ということが起きるわけです。

荒井修

A-9私は親方から仕立てをぜんぶ習って帰って来たんだけど、絵はこれといって習ってなかった。で、独学でやっちゃったんです。箔押しから何やら。だから、あたしに絵を教えたという人はあんまりいないの。ほとんどいない。ただ、しいていえば、感覚的なものはたぶん、私の絵の師匠は、玉三郎さんかもしれない。
坂東玉三郎という人に、「もうちょっと、ここを、こう逃げて」とか、「色は、そうじゃない方がいいんじゃない」とかって、話してもらいながら、最初はずいぶんいろいろ教わったんです。

籏野康弘

201509hatano01b昨今の日本では「コミュニケーション能力」や「空気を読む」という言葉が示すように、相手に対して積極的に配慮する文化が根付いています。
私は、対人関係に悩んだ高校生の時から、人の顔色を極端に伺うようになりました。相手の表情を読んで、思考をめぐらせて、自分はどのような行動をとるか考える―これらを日常的に繰り返すことに、疲弊してしまいます。
201509hatano02bここでは、彼らがどんな人なのか。どんな表情をしているのか。どれが目で、どれが鼻か。あるいは、人の顔に見えなくとも。相手に対して、何を考えても構いません。
あなたなら、彼らからどんな感情を読み取るでしょうか。どんな顔をした人に見えるでしょうか。
どこかで、あなたが会った人? もしくは・・・

辛美沙

日本のアートが勝てないのは作品に言説がないことも一因です。もともとアートとは西洋美術のことであり、アートという概念をもたない東洋人はただ輸入し見よう見まねで油絵を描くしかなく、いわゆる言葉で表現するものがないのです。

飯島洋一

何よりも重要なのは、建築はそれを使う人たちのためのものだという当たり前の事実である。だからお金を出す人よりもそれを実際に使う人の意見を素直に聞くのが、本来の建築家の正しい在り方である。この当たり前の仕事が、本質的に全ての建築家に使命として求められている。その意味で建築家とは芸術家ではなく、あくまでも設計技術者であるべきである。

山本容子

美術評論家とか専門畑の人たちに褒められたり、あるいはどこかのコンクールで賞をもらって美術界に認められて初めて世に出られる、そういう考え方があります。でもそうすると選ぶ人が一番偉くて、アーティストはその次になってしまう。私は「それしかないの? そういう関係は私には向かない」と思いました。そこで考えてみた。私の絵を好きな人がどのくらいいるだろうか。ピカソだってべつにピカソが偉いから好きになるわけではなくて、たまたま見た彼の絵が好きになったからですよね。一般の人たちにとって、美術はわかるとかわからないではなくて、まずは好き嫌いの問題です。そういう人たちに私の絵をじかに見てもらって、好きになっていただけたらエールを送ってもらおうと思いました。そういうやり方の方が私らしいと思いました。

Monroe Beardsley

I say that an artwork is either an arrangement of conditions intended to be capable of affording an experience with marked aesthetic character or (incidentally) an arrangement belonging to a class or type of arrangements that is typically intended to have this capacity.

坂上桂子

坂上桂子
マネ以来、印象派、ポスト印象派へつながる 19 世紀後半の画家たちはボードレールの主張する「モデルニテ modernité(現代性)」を、つまり自身が生きる「現代生活」の表現を自分たちの芸術の課題とした。スーラは短い生涯において、ひたすら点描を探求し続け、点描を通してこれを表現しようとしたといえる。スーラが点描の中に探求したモデルニテとは何だったのか。


長谷製陶

kamadosan遠赤外線効果の高い釉薬を使用しているのでお米の芯まで熱が通り、火加減なしでふっくらしたご飯が炊き上がります。肉厚成形なので熱をしっかり蓄えて、火を切ってからも沸騰しながら蒸らし続け、保温性にも優れています。二重蓋なので、圧力釜の機能を果たし、吹きこぼれも防ぎます。
多孔質の粗土のため、木のおひつと同じように呼吸をし、ご飯がべとつかず冷めてもおいしくいただけます。
炊き込みご飯や玄米もおいしく炊けます。

五島美術館

Iga1古伊賀水指 銘 破袋
 
伊賀焼は、桃山時代を代表するやきもののひとつ。今の三重県伊賀市で焼かれた釉薬を掛けない焼き締め陶器。本品は、左右に長方形の耳がつき、正面には焼成中の灰がとけた自然の釉薬である若草色のビードロ釉が厚く掛かる。背面は赤く焼き締まり、器全体に窯の中の灰や土が付着する。焼成時に、焼台に底がめり込むようにへたったため、底部には焼台の痕が残る。歪みが強く大きく割れた姿は、桃山時代の武将茶人古田織部(ふるたおりべ 1543~1615)が添えた「今後これほどのものはないと思う」という内容の手紙(関東大震災で焼失)通りのたぐいまれな存在感で圧倒する。籠形(かごがた)水指と呼ばれた独特の姿は、桃山時代の茶人の好みを反映したものだろう。伊賀藤堂家伝来の名品。


Michael Delahunt

Examples of art world -isms of the first kind — doctrines, theories, systems of principles:

Abstract Expressionism;   aestheticism;   classicism and Neoclassicism;   Cubism or cubism, Orphism,;   deformalism;   existentialism;   expressionism and Expressionism;   formalism;   Futurism;   humanism;   Impressionism (including French, American, and variants of other regions — thus "American Impressionism"), Neo-Impressionism, and Post-Impressionism;   Luminism;   Mannerism;   Minimalism and Post-Minimalism;   Modernism, modernism and postmodernism;   multiculturalism;   Naturalism, naturalism;   Realism, realism, photorealism, social realism, and socialist realism;   Romanticism;   structuralism and post-structuralism;   Surrealism.

Examples of isms of the second kind — signifying an attitude strongly in favor of or against a given group:

Afrocentrism;   androcentrism;   anthropocentrism;   ethnocentrism;   Eurocentrism;   humanism;   lookism;   Orientalism or orientalism;   sexism (feminism and feminist art and gender issues).

Tony McNicol

春画はポルノにあらず
shungaAs the exhibition’s curator Tim Clark puts it: “I think people are surprised by the combination of the sexually explicit artworks and their beauty and humor—and ultimately the humanity coming through.”

メディアマーカー

  • 彼岸花 (1974年) 石牟礼 道子 , 秀島 由己男 / 南天子画廊 / 162,000円
  • わらべ唄―秀島由己男版画集 (1974年) 秀島 由己男 / 南天子画廊 / 194,400円
  • At a park (1974年) 吉原 英雄 / 南天子画廊 / 194,400円
  • 聖シャンバラ (1974年) 横尾 忠則 / 南天子画廊 / 864,000円
  • 創立20周年記念版画集 (1979年) 麻生 三郎 / 南天子画廊 / 918,000円
  • AY-O : きわめて通俗的な物語・版画のためのイヴェント・虹のグラス・それから靉嘔氏は虹によって酔っぱらった (1974年) 靉嘔 / 南天子画廊 / 378,000円

津田淳子

OLYMPUS DIGITAL CAMERA製本の特集をするからには、本誌自体にもなにか工夫をと思ったのですが、おもしろかったり突飛な製本をするよりも、本書の製本構造が見えるというのがいいなと、特集をつくり始めてから思いました。そこで今回は、表紙を透明シート(PET素材)にすることで、いつもは見えない、表紙の中の部分が見えるようなしくみになっています。


OLYMPUS DIGITAL CAMERAそうそう、今回の表紙、実はタイトルが刷られていません。
言葉だけだと「?」と思われるかもしれませんが、透明表紙から本扉が透けて見えるので、タイトルはそちらのものが見えているという仕様です。
表紙からもバッチリ目立つ赤、白、黒の階段状の綴じ込みは、リニューアルしたNTラシャの新色「濃赤、漆黒、無垢」の3色。ほんっとうに濃い色で美しい。

Alanna Heiss

Alanna_HeissWhen you are a serious musician of the classic sort you spend maybe a quarter of your time in the practice room: you don’t run around, you don’t have the same kind information coming your way like a liberal arts degree. When I realized I wasn’t so good I talked to my teacher (this was in my second year), I was about 18, and he said, “You’re absolutely right, you’re just not good enough to be an individual performer.” So I asked, “I can always play in orchestras, right”? He replied, “If you stop running around with all these boys and stop going to parties and you really recommit yourself to a solid five hours a day practice, you might be able to be second chair, second violin, in a third-rate orchestra.” So this was just a staggering piece of news to me. It put it in concrete forms, and I could just imagine myself killing myself for the the next three years and then sitting in that second chair… I’m lucky that I realized this early on.

松本竣介

 

現実がそのまゝで美しかったなら、絵も文字も生まれはしなかった。そして現実の生活の一部分にでも共感するものがなかったなら文章も絵も作られはしない。

 

Xaos

Observations of Form, generally speaking, tend to lean upon three notions: the notion of cause and effect, hence, forms enfold a definite origin. The notion of stable identity or continuity, hence, forms unfold a set of prime features (essence, ideas, soul), which maintain their identity through processes and are immune to them. The notion of a quantified shape, hence, forms are intrinsically measurable.
The act of disconnecting form from a linear origin and from a definite identity allows form and reality to co-relate in an unmediated and non-reductionist fashion. This brings to mind the axial phrase of Buddhist philosophy – “form is emptiness; emptiness is form” (The Heart Sutra). Where Emptiness points to a set of fundamental views about reality: the notion of non-inherent existence, the notion of inter-dependence and the notion of being in a flux).
crop0025That which is exposed is a view of ‘Matter’, which is Generative. Such view is radically different from the scarce materiality funded by a duality of mind and body, or else, by the opposition of materialism and spirituality. It rather stands as a vision of reality in terms of embodied corporality, soft and active matter that is rumbling in all directions. Fertility is not about ‘spirit’, nor about matter, fertility belongs to intensities in process (relieved from the burden of crystallized measurability).
All is Matter; not in the sense of homogeneity or oneness, but in the sense of the corporality of space and time; of embodied gradients in interaction that partake in engendering the fabric of reality.
It is distinct materiality and gradients that we encounter in the multi-dimensional phase-space that we name universe; substances as bodies, minds and meanings; me and the word ‘me’, nothing is disconnected from matter, nothing can be deemed immaterial. Nothing need be. Immateriality is not, in this sense, our privileged way out of a blind physical world; it is the realization of the limitations of reductionist descriptions, which we need in order to build a valid alternative.

John Berger

The visual arts have always existed within a certain preserve; originally this preserve was magical or sacred. But it was also physical: it was the place, the cave, the building, in which, or for which, the work was made. The experience of art, which at first was the experience of ritual, was set apart from the rest of life–precisely in order to be able to exercise power over it. Later the preserve of art became a social one. It entered the culture of the ruling class, whilst physically it was set apart and isolated in their palaces and houses. During all this history the authority of art was inseparable from the particular authority of the preserve.
What the modern means of reproduction have done is to destroy the authority of art and to remove it–or, rather, to remove its images which they reproduce–from any preserve. For the first time ever, images of art have become ephemeral, ubiquitous, insubstantial, available, valueless, free. They surround us in the same way as a language surrounds us. They have entered the mainstream of life over which they no longer, in themselves, have power.

Zhang Zhang

zhangzhangin a world and an era addicted to instantaneous results and satisfaction, one hears much noise without the chance to really listen, one speaks of countless things without the time to fully comprehend, one glances through unlimited information without true knowledge, one searches for happiness without any idea what it really means

William Shakespeare

POLIXENES                       Say there be;
  Yet nature is made better by no mean
  But nature makes that mean: so, over that art
  Which you say adds to nature, is an art
  That nature makes. You see, sweet maid, we marry
  A gentler scion to the wildest stock,
  And make conceive a bark of baser kind
  By bud of nobler race: this is an art
  Which does mend nature, change it rather, but
  The art itself is nature.