Category Archives: dogme

偽善者

雌が産む卵や子の数は
死亡率の大小に比例する
死亡率が高いと生まれる数は多くなり
死亡率が低いと生まれる数は少なくなる
それが動物の世界

たくさん生まれれば
たくさん死んでもいい
ひとりしか生まれなければ
ひとりも死んではいけない
そんなものなのだろうか

何百人もの人を殺した地震は悪
何千匹もの魚を釣り上げた釣り人は善
何万人もの人を殺したウイルスは悪
何億もの菌を消毒して殺した人は善
そんなことはあたりまえ

命を大切にと説く人たちが
戦争に行けば敵をたくさん殺し
人の命は地球より重いという人が
人々が殺されていることに目を瞑る
大事なのは自分の命だけ

誠実さという仮面をかぶった人が
したり顔で話す
それを聞いた僕は
気持ち悪くなる
偽善を偽善とも思わない人

連帯という言葉を使って
繋がりが大事だという
その人と繋がらない僕は
連帯の外にいる
連帯というこころの狭さ

共感し合う人たちは
共感しない人たちを
冷たい目でみたり
疎外したりいじめたりする
いったい誰が共感などするものか

誠実さ、連帯、共感
思い上がってはいけない
人が怖い
人のすることが怖い
いい人がいちばん怖い

臼井康兆

新型コロナウィルス時代をどう生きるか-。多くの人が自問自答する中、アルベール・カミュの小説「ペスト」が読み直されている。疫病の発生で隔離された街の市民を描いたフィクションだ。
小説の発表は、第二次世界大戦の終戦二年後の一九四七年。大量の人の死など「悪」が象徴的に描かれているとされ、対比するように「誠実さ」「連帯」「共感」などのキーワードがちりばめられている。

開高健

 日本も江戸時代には、藍の技術が非常に進歩して、すばらしい藍色がだせるようになっていた。藍というのは、大きくいうと紺色のことだから、やっぱり男に合うのは紺なのであろうか。そういうことを再認識、再々認識する思いであった。紺に始まって紺に終わる--というのがファッション道のフナ釣りみたいなものらしいと、うなずけた。今後もうなずき続けるであろう。諸君、男のファッションの究極は、紺なんだ。いい紺を選びたまえ。

Louisa May Alcott

Far away there in the sunshine are my highest aspirations. I may not reach them, but I can look up and see their beauty, believe in them, and try to follow where they lead.

東京新聞

安倍首相が衆院本会議の所信表明演説で、芦田元首相の言葉を引用したのは開始から約十八分後の最後のくだりだった。
「芦田元首相は戦後の焼け野原の中で若者たちに『どうなるだろうかと他人に問い掛けるのではなく、われわれ自身の手によって運命を開拓するほかに道はない』と言った」
淡々とした口調でこう述べた後に「自らへの誇りと自信を取り戻そうではありませんか」と声を張り上げると、議席の三分の二を占める自民、公明両党の議員から大きな拍手が巻き起こる。「少数野党第一党」に転落した民主党席は静まり返っていた。
芦田の言葉は安倍首相自身の判断で演説に入れた。
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注目すべきは、この(芦田の)講演が国民を広く対象にしたものではなく、当時、国をリードする立場にあった中央官僚や東大生を相手に行った講演であること。芦田講演の「われわれ」とは国民ではなく、政治家、官僚や将来のその「候補生」であり、彼らに向かって奮起を求める内容であって、国民の責務を意識させるような内容ではない。
首相が意図的にやや捻じ曲げたわけではないだろうが、引用がやや変なのだ。

中村武羅夫

花は何んのために開くかを知らないだらう。小鳥は何んのために歌ふかを知らないであらう。恐らく、咲き満ちた花の美しさには、プロレタリア的イデオロギイもなければ、ブルジョア的イデオロギイもありはしない。小鳥の歌も同じことだ。
しかしながら我れ我れは、無心に咲く花の美しさに対しても、やつぱり美しいと感ぜずにはゐられないし、無心に歌ふ小鳥の音楽に対しても、やつぱり楽しみを感ぜずにはゐられないものだ。季節々々が廻つて来れば、美しく咲く花を見て、これは階級闘争の目的意識がないからと言つて、また、こんな花の美しさや、小鳥の歌は、たゞブルジョアの目や耳を楽しませるだけで、プロレタリア階級には用はなく、だからブルジョアの娯楽物だとして、片つ端から花や小鳥を撲滅して廻らうとする者があつたら、それは馬鹿か狂人でなくて何んだらう。
花は花の性質に依つて、赤い花も咲けば、白い花も咲く。若し赤い花の美しさだけを認めて、白い花の美しさを感ずる者を、封建的だと嗤ふ人があるなら、そんな人間こそ却つて馬鹿か狂人とし嗤はれなければならないだらう。
藝術は「美」に立脚する。いろいろ複雑な意味を含んだ「美」に立脚する。人間の感情と文化の上に開く花である。赤い花もあれば、黒い花もあり、紫の花もあれば、白い花もあるだらう。よく咲いた花は、皆なそれぞれに美しい。
誰だ? この花園に入つて来て、虫喰ひの汚ならしい赤い花ばかりを残して、その他の美しい花を、汚ない泥靴で、荒らして歩かうとするのは!

武野紹鴎, 片桐石州, 玄々斎宗室, …

Rikyuその道に入らんと思ふ心こそ
  我が身ながらの師匠なりけれ

習いつつ見てこそ習え習はずに
  よしあしいうは愚かなりけり

志深き人にはいくたびも
  あわれみ深くおくぞ教ふる

恥をすて人にものとひ習ふべし
  これぞ上手の基なりける

茶の湯とはただ湯をわかして茶を点てて
  のむばかりなる事と知るべし

黒木玄

  1. 算数教育業界全体が掛算の順序に強くこだわる教育を推進している。
  2. 算数教育業界には具体的状況を式だけで忠実に表現させようとする習慣があり、式だけを見て具体的状況が一意に決まるということになっているらしい。
  3. たとえば、算数教育業界では、「6人に7個ずつ飴を配るときの飴の総数」を「6×7」と書くと、6人の7つ分で答えが人の人数になってしまったり、6個ずつ7人に配るという意味になってしまったりする場合がある。しかし、世間一般では、「6人に7個ずつ配る」という文脈で「6×7」と書いても、6人の7つ分で答が人の人数になってしまったり、6個ずつ7人に配るという意味になってしまったりすることはなく、文脈から「6×7」は6人に7個ずつ配る様子を表わしていると解釈する。算数教育業界にはこのような常識に真っ向から対立するスタイルで「具体的状況を式で表わすこと」を教えようとしている。
  4. 算数教育業界では「具体的状況を掛算の式で表わすときには、一つ分×幾つ分の順序で式を書かなければいけない」とされている。一般に、同じ個数を含むグループが幾つかあるとき、一つのグループが含む個数を「一つ分の数」と呼び、グループの個数を「幾つ分の数」と呼ぶ。もちろん「一つ分×幾つ分の順序で書く」というルールは世間一般では通用しない。実際、小学生の大会であっても4×100メートルリレーという言い方をするし、我々の社会では単価×数量と数量×単価のどちらの流儀も普通に使われている。さらに、そのルールを仮定しても「6人に7個ずつ配る」という状況を「6×7」という式で表わすことは誤りにはならない。なぜならば、トランプのように6個ずつ7周配る様子を想像しながら、6を一つ分の数、7を幾つ分の数とみなせるからである。トランプ配りの考え方を一般化すれば、一つ分と幾つ分の考え方のもとで、掛算の交換法則は「一つ分と幾つ分の数の立場をいつでも自由に交換できること」を意味していることがわかる。だから、「6×7」のような式を見ただけで「一つ分×幾つ分の順序ではない」と判定することは、掛算の交換法則の意味を理解していれば、常に不可能だということになるのだ。

稲垣正浩

photo-12わたしたちは,なんとドグマティックに生きていることだろう。いや,それどころか,ドグマティックでなくては生きてはいけない,そういう「生きもの」なのだ,ということを知るべきであろう。わたしには以前からそんな感覚がずっとあった。重大な決心ほど「エイヤッ!」という,根拠のないところで行うことが多かった。ようするに,ドグマ的に。
こういう「ドグマ的なもの」の出現の根拠はどこにあるのだろうか。どうして,「ドグマ」に依拠しなくてはならないのだろうか。このあたりのことを少し考えてみよう。
たとえば,こうだ。
立っている木をみて,木と呼ぶのは日本語で暮らしている人たちだけだ。英語圏で暮らしている人たちは,tree と呼ぶ。ドイツ語圏では,Baum という。つまり,言語によって,木の名称はみんな違う。日本語で木を木と呼ぶ根拠はどこにもない,ということだ。同じように,tree や Baum でなくてはいけない根拠もどこにもない。それらは単なる名付けの約束ごとであり,その約束ごとを共有する人びとが存在するかぎりにおいて成立しているにすぎない。
ここからはじまって,わたしたち人間は生きていくための約束ごととして,たくさんのドグマを生み出してきた。そして,そのドグマに支えられるようにして人間の「生」は成立している。

Pierre Legendre

En termes plus modernes, plus théoriques, tenant compte de ce que la psychanalyse nous apprend du mécanisme du désir, nous pourrions dire ceci : la fonction dogmatique consiste, dans une société, à prendre acte du désir impossible à combler et de la nécessité de reconnaître, par les moyens appropriés à la reproduction de l’espèce, que la dimension du manque est la dimension même des jeux d’institutions. Pourquoi ? Parce que les humains, demeurant liés jusqu’à la mort à l’enfance de leur désir, c’est-à-dire, comme le démontre l’expérience clinique du mythe œdipien dans la cure, au désir de leur enfance qui en tout premier lieu se rapporte au désir de la mère, doivent entrer dans la parole de telle sorte que cette parole fasse aussi lien social. Les jeux d’institutions sont les jeux de la Loi, de cette Loi qui par un interdit fondamental introduit les humains à l’espace du manque, en les faisant sortir du désir univoque de la mère. La loi est une fonction, assumée pour chaque sujet dans la triangulation œdipienne par le père, ce que nous appelons un père. Tout le dispositif juridique repose sur ces fondements-là, parce que là se joue le principe d’autorité et de légitimité. Les institutions ont donc affaire prioritairement au mécanisme du désir humain, à la reconnaissance généalogique. Cela doit être tenu comme un fait primordial, afin d’étudier l’extraordinaire flexibilité du droit romain dans l’histoire occidentale et comprendre que cette histoire, elle aussi, est un phénomène de structure.