出雲大社紫野教会

国家神道というものを「政府が国家神道という宗教を国民に押しつけた」と思われている人が多いようですが、実態を見ていくと違うように思われます。そもそも国家神道という言葉が今のように使われるようになったのは、実は第二次大戦後からなのです。
その実態とは言うと「神社非宗教論+天皇教」という方が事実を表しているでしょう。
伊藤博文や官僚達は憲法導入のためいろいろと欧米諸国について研究します。そして、気がついたのは彼らのバックボーンにはキリスト教がある、ということでした。ただ、キリスト教の代わりとなるべき宗教は日本にはありません。神道にはそこまでのものはなく、仏教はすでに葬式仏教となっていましたし、儒教は宗教と言うより学問に近いものでした。そこで伊藤らは、キリスト教のゴッドの代わりに天皇を置くわけですが、その位置は絶対的な一点として、ゴッドの元の平等が天皇の元の平等になるわけです。
もっとも天皇教と言っても宗教を作ったわけではありません。また、この天皇教が神道かというと微妙なところです。確かに神社は国家の宗祠であるということで、特別な地位にあったとも言えますが、あくまでも非宗教ということで、布教するわけでもなく、ある種空気のような存在でしかありませんでした。

2 thoughts on “出雲大社紫野教会

  1. shinichi Post author

     国家神道というものを「政府が国家神道という宗教を国民に押しつけた」と思われている人が多いようですが、実態を見ていくと違うように思われます。そもそも国家神道という言葉が今のように使われるようになったのは、実は第二次大戦後からなのです。

     その実態とは言うと「神社非宗教論+天皇教」という方が事実を表しているでしょう。神社は宗教施設のはずですから、非宗教というのは意味が分からないかもしれません。また宗教とは何ぞや、という定義の話に行くと、非常に話がややこしくなります。それはさておき、まずは明治維新から見ていきましょう。
     

    ■明治維新の原因

     明治維新が起こった原因について、学校の教科書を読むと「黒船がやってきて、開国したら物価が上がって、民衆の暮らしが悪くなり一揆が起きて、行き詰まって徳川幕府が政権を朝廷に渡した。」みたいなことが書いてあります。典型的な戦後左翼史観による説明ですが、それも一因ではあるでしょうが、それだけなら幕府の改革で済んだでしょう。

     朝廷に政権を返すまでに至ったのは「尊皇思想」の高まりという要因が非常に大きかったのです。徳川幕府は初期に社会の秩序の為に儒教を導入しますが、結果的に将軍ではなく天皇が治めるのが正統であるという正統論が生まれ、世の中に広がります。そして、幕末のころには、日本全国でその尊皇思想が当たり前のようにまでなってきたのです。

    ■神武創業の始めにもとづく

     明治維新のスローガンは「神武創業の始めにもとづく」、つまり昔に返るというでした。神武天皇の頃には天皇が直接この世を治め、また仏教もなく、祭政一致でした。その精神に基づき、まず律令制の時代にあった政治を行う太政官と共に、祭祀を行う神祇官を設けます。そして、神社は全て神祇官の所属ということになり、また神仏分離令発布されます。さらに皇室祭祀の整備を始めます。神道側としてはここまでは良かったのです。

     しかし、革命のスローガンは革命が終了すると共に不要となります。新しい国家体制を作って早く欧米列強に追いつくことが優先されました。結果、神祇官はやることがなく、わずか2年で神祇省に格下げされ、さらに半年で教部省へと解消させられ、祭政一致の理念は失われていきました。

     
    ■大教宣布とその失敗

     誕生したばかりの明治新政府が一番恐れたのがキリスト教でした。今から思えば杞憂にも思えますが。政府は最初はキリスト教を禁止します。ですが、列強から抗議を受けて、結局布教自由ということになりました。これに危機感を覚えた政府は、神道、仏教、儒者など集め国民教化のための「大教宣布」運動に乗り出します。

     しかし、この大教宣布はすぐに失敗に終わりました。その理由の一つは、神職始め宗教家に説教するという伝統がなかったということです。あまりにうまくいかないので講談師なども駆り出したそうです。もう一つは神道側主体であったので、仏教側の不満が大きかったということです。仏教側の方が人数も財力もあるのに、神道側に常に主導権を握られるのでは、やる気にならないのは当然です。仏教宗派の中で最も力のあった浄土真宗が離脱を宣言し、大教宣布運動は瓦解してしまいました。

     浄土真宗は長州藩の政治家と関わりが深く、また新政府に資金も出したということで、政府に対して強い影響力を持っていました。さらに「神祇不拝」、阿弥陀如来以外のものは拝まない、という一神教に近い性格を持ち、いわゆる国家神道の成立についてはこの浄土真宗の果たした役割がかなり大きいものでした。
     

    ■神社非宗教化へ

     欧米に追いつくことが急務だった政府ですが、政治家や官僚の中には米国型政教分離や合理主義の思想が強くなります。また、神道ではいわゆる「祭神論争」が勃発し、神道界を二分するような争いとなり政治家が仲裁に入るに至ります。さらに、神社で拝みたくない浄土真宗やキリスト教は盛んに政治家に訴えます。

     そして、明治十五年、「神社は宗教ではなく、国家の宗祠である」と決まります。神社は布教を一切禁止され、神葬祭まで禁止されます。一方、宗教としての神道は教派神道といういくつかの神道教団で勝手にやれ、ということになりました。

     神社は宗教ではない、おかしな話ですが、神社は非宗教だから、浄土真宗門徒やキリスト教徒も参拝するべし、ということになります。なんともスッキリしない話ですから、その後ずっといろんな問題、議論が起こることとなります

     この神社非宗教論をして神社がある種の国教的な待遇をを得た、と左翼系の人達は言うわけですが、熱心な神道者からすると、祭政一致から相当の後退であり、神道国教化には完全に失敗したとしか思えませんでした。

    ■キリスト教の代わりの天皇教

     伊藤博文や官僚達は憲法導入のためいろいろと欧米諸国について研究します。そして、気がついたのは彼らのバックボーンにはキリスト教がある、ということでした。議会や法律、また人権などの思想もすべてキリスト教に基づいています。そして、国民を統合するための機軸としてキリスト教があると理解しました。

     ただ、キリスト教の代わりとなるべき宗教は日本にはありません。神道にはそこまでのものはなく、仏教はすでに葬式仏教となっていましたし、儒教は宗教と言うより学問に近いものでした。そこで伊藤らは、日本でその機軸になるものは皇室しかない、という結論に達します。

     キリスト教のゴッドの代わりに天皇を置くわけですが、その位置は絶対的な一点として、ゴッドの元の平等が天皇の元の平等になるわけです。また、日本の国柄を理解すべく、神国思想を広めます。 

     それまではお上のやること、というように責任をもたないバラバラだった国民を、天皇を利用して統合し、国民国家を作り上げようとしました。これを小室直樹氏は「天皇教」と言われていますが、キリスト教の代わりとして作ったものということで、その方がわかりやすいでしょう。

     最も天皇教と言っても宗教を作ったわけではありません。皇室崇敬の念を広めるために布教したわけではなく、道徳、常識、教育という形で広めていったのです。これを左翼人が国家の強制だ、国家による布教だと言う気持ちが全く分からないではないですが、それを言ってしまうと、現在も「民主主義を国家が国民に布教している」ということになりかねません。

     また、この天皇教が神道かというと微妙なところです。例えば国家神道の悪しき精神のように言われる「教育勅語」を見ると、これは皇室敬愛と儒教の要素で構成されています。ただ、皇室祭祀は神道ですから、全くの無関係とは言い切れません。皇室崇敬、神国思想を広げれば、神社への崇敬の念も広がるということはあったでしょう。ただ、皇室崇敬は神道だけでなく、浄土真宗やキリスト教でさえも当たり前となっていました。

     確かに神社は国家の宗祠であるということで、特別な地位にあったとも言えますが、あくまでも非宗教ということで、布教するわけでもなく、ある種空気のような存在でしかありませんでした。
      

    ■大衆の支持と国家主義の台頭

     明治の政治家、官僚というインテリ層は、合理主義の思想が強く、あまり神道には熱心でなかったのですが、大衆はそうではありませんでした。議会が開かれると官国幣社に金銭を支援する法律が圧倒的多数で通ります。実は以前に手切れ金のような形でお金を渡しましたが、その金額も多くありませんでした。(小さい神社である府県社以下の神社に至っては明治以来基本的には自活してきました。)

     江戸時代以来の尊皇思想の流れが続き、また教育の効果もあったでしょうが、明治後半あたりからいくつかの右翼団体が形成され、徐々に信奉者が増えてきます。ただ、大正時代くらいまでは天皇崇敬以外のことについてはかなり自由な議論もされていました。

     第一次大戦終了と昭和四年の世界大恐慌で世界的に国家主義が台頭します。日本でも不況と東北大飢饉などの影響で国民の間に不安感が強まり、また議会政治に対する不満が強くなります。そして満州事変が始まり、軍部が政治を握り、大東亜戦争へと繋がっていくわけですが、日本での国家主義の台頭については政府が煽ったと言うより、在野の右翼団体、思想家が大衆の間に支持を受けるようになってきたというのが大きいでしょう。この頃になると、仏教教団もキリスト教団も国家主義となってきていました。

     戦争が始まる頃には、神国思想は行き過ぎて、神懸かり的なものにまでなってしまいました。合理的な思考を貫くべきである軍人の中にも「日本は神国だから負けることはあり得ない」と考えていた人が結構いたようです。

    ■敗戦と神道指令

     大東亜戦争に日本は敗戦しました。占領軍の主体であったアメリカは、日本の国情や神道のことがよくわかっておらず、キリスト教と同じようなかっちりした組織があって、活動し、しかも国民を動かすような影響力があったと勘違いしていたようです。そこで神道指令を出して、国家と神道の分離を図り、神社の国家管理が廃止されます。のちにどうも違うと気がついて、条件は緩和されました。

     神社の大半は戦後の宗教法人法によって宗教法人となりました。さらにその多くは新たに結成された宗教法人神社本庁の傘下となっています。

    ■国家神道についての本

     国家神道とは何かを学ぶべく、いろんな本を読んでみました。

     村上重良氏の『国家神道』(岩波新書)がこの問題の基本的な本になっていますが、戦後左翼思想が強すぎる内容です。「明治維新から敗戦までの八十年間を日本を国家神道が支配した」と書かれていますが、実情を見ていけばそんな単純なものではなかったことがわかります。ただ、戦後左翼イデオロギーで戦前日本を断罪する本ですから、わかりやすいとは言えます。(危険なわかりやすさですが。)

     葦津珍彦著阪本是丸註『国家神道とは何だったのか』(神社新報社)は左翼の主張に対する神道側の反論の書です。一方的に悪者と断罪された、神社側の叫びを感じます。非常に興味深い内容ですから、国家神道と合わせて読んでみるといいかもしれません。

     もう少し俯瞰した立場からの本としては島薗進『国家神道と日本人』(岩波新書)というのがあります。学者の書く本なので少しわかりにくいところもあります。

     しかし多数の本を読んで思うのは「国家神道」という言葉の定義、先入観が強すぎるとだめだ、ということです。実態を理解するには、まずこの言葉は忘れて、宗教を中心に明治から昭和への国全体の流れを見ていく必要があるように思います。

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