>牧村健一郎

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1944(昭和19)年初夏、3人の男が松代で周囲の山を見つめていた。みな背広姿だったが、リーダーの井田正孝少佐らは陸軍中央の中堅将校。南の島を次々に失い、東京空襲が現実化した時期だった。陸軍は大本営、省庁、放送局(NHK)、宮城(皇居)の大規模移転を計画し、井田らは極秘で候補地を探していた。
上高地や塩尻などを視察したあと、松代にやってきた。ここは三方が山に囲まれ、岩盤が固い。海岸線からも遠く、要害の地だ。信州は神州に通じる。井田は移転先はここが最適、と確信した。本土決戦の最後の拠点である。
44年11月11日、工事が一斉に始まった。 。。。 多くの日本人の若者は戦場に行っていたため、工事は日本本土や朝鮮半島から集められた朝鮮人が中心だった。最多時で4千人前後の朝鮮人労働者が働いたといわれる。壕の壁に残るハングル文字は、その名残だ。

2 thoughts on “>牧村健一郎

  1. s.A

    >入り口でヘルメットを着けて中へ入ると、外の酷暑がウソのように、ひんやりした。むき出しの岩肌を、天井の電灯が鈍く照らす。岩のトンネルは山中深く、さらに続いている。長野市松代町にある地下壕(ごう)・松代大本営跡だ。

    1944(昭和19)年初夏、3人の男が松代で周囲の山を見つめていた。みな背広姿だったが、リーダーの井田正孝少佐らは陸軍中央の中堅将校。南の島を次々に失い、東京空襲が現実化した時期だった。陸軍は大本営、省庁、放送局(NHK)、宮城(皇居)の大規模移転を計画し、井田らは極秘で候補地を探していた。

    上高地や塩尻などを視察したあと、松代にやってきた。ここは三方が山に囲まれ、岩盤が固い。海岸線からも遠く、要害の地だ。信州は神州に通じる。井田は移転先はここが最適、と確信した。本土決戦の最後の拠点である。

    「デーン、という鈍い音がして、工事が始まってね。発破の振動で、家の振り子時計が止まってしまった。一抱えもある岩が、家の目の前に飛んできたこともあった」。今も地下壕のすぐ近くに住む永井福栄さんは振り返る。

    44年11月11日、工事が一斉に始まった。地元の商業学校の学生だった永井さんは、多くの作業員が出入りし、トロッコで土を運ぶ姿を覚えている。近所にコンプレッサーやパイプが運び込まれた。

    多くの日本人の若者は戦場に行っていたため、工事は日本本土や朝鮮半島から集められた朝鮮人が中心だった。最多時で4千人前後の朝鮮人労働者が働いたといわれる。壕の壁に残るハングル文字は、その名残だ。

    昼夜3交代の工事は急ピッチで進められ、壕近くの家は強制移転させられた。宮内庁高官や阿南惟幾(あなみ・これちか)陸軍大臣も視察に来た。だが、肝心の昭和天皇は終始、移転に消極的だった。「わたくしは市民(臣民のミスプリントと思われる)と一緒に東京で苦痛を分ちたい」(伊藤正徳「帝国陸軍の最後」)と述べ、「自分が帝都を離るゝ時は、臣民殊に都民に対し不安の念を起(おこ)さしめ、敗戦感を懐(いだ)かしむるの虞(おそ)れ」があるから「出来る限り万不得止場合に限り、最後迄(まで)帝都に止(とど)まる様に致し度(た)く」(木戸幸一日記)という考えだった。

    総工費2億円をかけ、全体の75%が出来上がり、総延長11キロ弱のトンネルを掘った大地下壕は、45年8月15日、突然、無用の長物となった。

    壕は荒廃し、子どもの遊び場になった。天皇居室予定地は半地下で、永井さんはここに卓球台を持ち込み、卓球をしたという。和室のような空間で、豪華な唐紙に菊の紋章がついていた。

    中は冬暖かく、キノコ栽培に使われた所もあった。強固な地盤の天皇居室周辺はのちに、気象庁の地震観測所として活用された。現在も高性能のひずみ地震計が設置されて、世界屈指の地震観測所になっている。

    昭和天皇は、戦後もここを訪れていない。47年10月、巡幸で長野市に来た際、当時の林虎雄・長野県知事に「この辺に戦時中、無駄な穴を掘ったところがあるというが、どのへんか」と尋ねたという話が、林の回想録に載っている。林は「正面に見える松代町の山かげに大本営を掘ったあとがあります」と答えた。

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