正倉院

Biwa


BiwaChina琵琶は、東アジアの有棹弦楽器の一つ。弓を使わず、弦をはじいて音を出す撥弦楽器。古代において四弦系(曲頚琵琶)と五弦系(直頚琵琶)があったが、五弦系は伝承が廃絶し使われなくなった。四弦系が、西アジアのウード、ヨーロッパのリュートと共通の起源を持つのに対し、五弦系はインド起源とされ、ヘッドは曲がらず真っすぐに伸びている。正倉院に唯一の現物である螺鈿紫檀五絃琵琶(上)が保存されている。また、クチャ郊外のキジル石窟の第8号窟壁画(右)のなかでは、伎楽飛天が赤色の五弦琵琶を奏でている。

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  1. shinichi Post author

    正倉院

    http://ja.wikipedia.org/wiki/正倉院

    正倉院は、奈良県奈良市の東大寺大仏殿の北西に位置する、高床の大規模な校倉造倉庫で、聖武天皇・光明皇后ゆかりの品をはじめとする、天平時代を中心とした多数の美術工芸品を収蔵していた施設。

    正倉院の宝物には日本製品、唐や西域、遠くは ペルシャなどからの輸入品を含めた絵画・書跡・金工・漆工・木工・刀剣・陶器・ガラス器・楽器・仮面など、古代の美術工芸の粋を集めた作品が多く残るほか、奈良時代の日本を知るうえで貴重な史料である正倉院文書、東大寺大仏開眼法要に関わる歴史的な品や古代の薬品なども所蔵され、文化財の一大宝庫である。シルクロードの東の終点ともいわれる。

    756年、光明皇后は、夫聖武天皇の七七忌に、天皇遺愛の品約650点と、約60種の薬物を東大寺の大仏に奉献した。その後も光明皇后は3度にわたって、自身や聖武天皇ゆかりの品を大仏に奉献している。これらの献納品については、現存する5種類の「献物帳」と呼ばれる文書に目録が記されている。これらの宝物は正倉院に収められた。

    正倉院宝庫は、北倉、中倉、南倉に区分される。北倉は主に聖武天皇・光明皇后ゆかりの品が収められ、中倉には東大寺の儀式関係品、文書記録、造東大寺司関係品などが収められていた。また、950年、東大寺内にあった羂索院の双倉が破損した際、そこに収められていた物品が正倉院南倉に移されている。南倉宝物には、仏具類のほか、東大寺大仏開眼会に使用された物品なども納められていた。ただし、1185年の後白河法皇による大仏再興時の開眼会に宝物の仏具類が用いられた。そのほか、長い年月の間には、修理などのために宝物が倉から取り出されることがたびたびあり、返納の際に違う倉に戻されたものなどがあって、宝物の所在場所はかなり移動している。

    「献物帳」記載の品がそのまま現存しているわけではなく、武器類、薬物、書巻、楽器などは必要に応じて出蔵され、そのまま戻らなかった品も多い。刀剣類などは藤原仲麻呂の乱の際に大量に持ち出され、「献物帳」記載の品とは別の刀剣が代わりに返納されている。

    正倉院の三倉のなかでも特に北倉は聖武天皇・光明皇后ゆかりの品を収めることから、早くから厳重な管理がなされていた。宝庫の扉の開封には勅使が立ち会うことが必要とされていた。なお「勅封」という言葉は本来「天皇の署名入りの紙を鍵に巻きつけて施錠すること」を指す。正倉院宝庫がこの厳密な意味での「勅封」になったのは室町時代以降であるが、平安時代の各種文書記録にも正倉院を「勅封蔵」と表現しており、事実上の勅封であったと見なして差し支えないといわれる。平安時代中期には北・中・南の三倉とも勅封蔵と見なされていたが、東大寺の什器類を納めていた南倉のみは、後に勅封から綱封に改められた。1875年、正倉院全体が明治政府の管理下におかれてからは南倉も再び勅封となっている。

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