市川房枝

FusaeIchikawa2出たい人より出したい人を

平和なくして平等なく、平等なくして平和はない

母の女の悲しみが、私の小さな体にしみついた

私の長い人生は母の嘆きを出発点に選んでしまったようである

誠実、正直、権利の上に眠るな

選挙を清潔にできないで、政治をきれいにすることはできない

2 thoughts on “市川房枝

  1. shinichi Post author

    市川房枝は国策(戦争遂行)への協力姿勢をみせることで、婦人の政治的権利獲得を目指す方針をとり評論活動を行った。1940年(昭和15年)に婦選獲得同盟を解消し「婦人時局研究会」へ統合。1942年(昭和17年)に婦人団体が大日本婦人会へ統合。大政翼賛会を中心とした翼賛体制に組み込まれ、市川は大日本言論報国会理事に就任。

    1945年(昭和20年)8月25日には久布白落実、山高しげり、赤松常子らと共に「戦後対策婦人委員会」を組織し、引き続き政府や各政党に婦人参政権を要求。同年11月3日には戦後初の婦人団体「新日本婦人同盟」を結成し会長に就任。12月17日には衆議院議員選挙法改正で婦人参政権(男女普通選挙)が実現した。1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙では39人の婦人(女性)議員が誕生した。市川は自ら立候補せず、また有権者名簿の登録漏れのため投票もできなかった。

    戦時中に大日本報国言論会理事であったため、1947年(昭和22年)から1950年(昭和25年)まで公職追放となる。1950年(昭和25年)10月13日に追放解除。同年11月9日には新日本婦人同盟の臨時総会において、団体の名称が日本婦人有権者同盟と改称され、市川が会長に復帰(1953年(昭和28年)4月25日まで)。その後は、公娼制度復活反対や売春禁止、再軍備反対などの運動にも取り組んだ。

    Reply
  2. shinichi Post author

    (sk)

    市川房枝が目指したのは、女性の地位の向上。戦争に協力するとか、反対するとかは、実はどうでもよかったのではないだろうか。批判する人は多いが、当人は気にしていないと思う。

    女性の地位の向上の邪魔をするのが実は女性たちなのだという現実を前に、市川はそれでも女性の力を信じ続けた。素晴らしい人だと思う。

    Reply

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *