鈴木大拙

  • 内外権威者の多くは、禅宗が日本人の性格を築きあげる上にきわめて重要な役割を勤めたという点で、意見をひとしくしている。
  • 禅は仏陀の精神を直接見ようと欲するのである。
  • 禅は、無明と業の密雲に包まれて、われわれのうちに眠っている般若を目ざまそうとするのである。無明と業は知性に無条件に屈伏するところから起こるのだ。禅はこの状態に抗う。知的作用は論理と言葉となって現れるから、禅は自から論理を蔑視する。
  • つまり、「心は心に非ざるが故に心なり」で、否定がすなわち肯定で、否定と肯定とは相互に「非」の立場にある、絶対に相向い立っているが、この「非」の立場が、ただちに「即」である。自分はこれを禅の論理というのである。
  • 真理がどんなものであろうと、身をもって体験することであり、知的作用や体系的な学説に訴えぬということである。
  • 禅は科学、または科学的の名によって行なわれる一切の事物とは反対である。禅は体験的であり、科学は非体験的である。
  • 禅匠は、ある理屈づけに対して、その方が都合がいいと思えば、かならずしも伝統的の解釈にしたがわずに、それによって、自分自身の哲学的構造を打樹てていいのだ。禅徒はときとすると、儒教徒、ときとすると道教徒、また、ときとすると神道家とさえなりうるのである。禅的経験は、また、西洋哲学によっても説明することができる。

3 thoughts on “鈴木大拙

  1. shinichi Post author

    松岡正剛の千夜千冊 887夜
    禅と日本文化
    by 鈴木大拙

    http://1000ya.isis.ne.jp/0887.html

     禅というのはブッダの精神を直截に見ようとするもので、何を見ようとしているかというと、「般若」と「大悲」である。それを英語でいえば、般若はトランセンデンタル・ウィズダムに近く、大悲はコンパッションといえるであろう。この「超越的な智恵」たる般若によって、禅者は事物や現象の因果を超えるために修行をする。
     そうやってやっと事物や現象にとらわれなくなったあるとき、ふっと大悲が自在に作用する。そのコンパッションの作用は禅仏教では無生物にさえ及ぶのだ。

    ________________

     芭蕉のエピソードにこういう話がある。佛頂和尚のもとで参禅していたときのこと、和尚が突然に芭蕉の庵を訪れ、「近頃はどうしておられるかな」と問うた。それがきっかけで「今日」(today)とは何かという話になった。
     芭蕉は「今日」とは「雨が通り過ぎて青苔が潤っているようなもの」と答えた。和尚は「その青苔がまだ芽も生えていない時も、いま、あろう」と突っこんだ。ここまではよくある禅の公案に近い。が、このとき芭蕉がぽつんと放った言葉が、「蛙とびこむ水の音」だった。
     大拙はこのエピソードについて、キリスト教なら「アバラハムの生まれ出でぬ前より、我はいる」という神の回答に芭蕉がぶつかったようなものだと説明する。そして、キリスト教ならばここで「我は在るなり」(“I am”)ですむかもしれないが、禅仏教ではそうはいかない。その“am”の未生以前が問われる。それに応えようとしないかぎりは禅にならないと言う。
     キリスト教はどこかでポラリゼーション(分極)をおこせばよいわけである。神と人とは結局はどこかで分離する。だからこそ絶対唯一なる神がいつまでも残る。けれども禅はそうはしない。神も人も青苔も水音も、たちまち一緒になって、またそのそれぞれの「元々の時」に戻ってくる方法をもつ。これが道元の「有時」である。そう説明していた。

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