梨木香歩

 西の魔女が死んだ。四時間目の理科の授業が始まろうとしているときだった。まいは事務のおねえさんに呼ばれ、すぐお母さんが迎えに来るから、帰る準備をして校門のところで待っているようにと言われた。何かが起こったのだ。
 決まりきった退屈な日常が突然ドラマティックに変わるときの、不安と期待がないまぜになったような、要するにシリアスにワクワクという気分で、まいは言われたとおり校門のところでママを待った。
 ほどなくダークグリーンのミニを運転してママがやってきた。英国人と日本人との混血であるママは、黒に近く黒よりもソフトな印象を与える髪と瞳をしている。まいはママの目が好きだ。でも今日は、その瞳はひどく疲れて生気がなく、顔も青ざめている。
 ママは車を止めると、しぐさで乗ってと言った。まいは緊張して急いで乗り込み、ドアをしめた。車はすぐ発進した。
「何があったの?」
と、まいはおそるおそる訊いた。
 ママは深くためいきをついた。
「魔女が――倒れた。もうだめみたい」
 突然、まいの回りの世界から音と色が消えた。耳の奥でジンジンと血液の流れる音がした、ように思った。
 失った音と色は、それからしばらくして徐々に戻ったけれど、決して元のようではなかった。二度と再び、まいの世界が元に戻ることはなかった。

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  1. shinichi Post author

    西の魔女が死んだ

    by 梨木香歩

     西の魔女が死んだ。四時間目の理科の授業が始まろうとしているときだった。まいは事務のおねえさんに呼ばれ、すぐお母さんが迎えに来るから、帰る準備をして校門のところで待っているようにと言われた。何かが起こったのだ。

     決まりきった退屈な日常が突然ドラマティックに変わるときの、不安と期待がないまぜになったような、要するにシリアスにワクワクという気分で、まいは言われたとおり校門のところでママを待った。

     ほどなくダークグリーンのミニを運転してママがやってきた。英国人と日本人との混血であるママは、黒に近く黒よりもソフトな印象を与える髪と瞳をしている。まいはママの目が好きだ。でも今日は、その瞳はひどく疲れて生気がなく、顔も青ざめている。

     ママは車を止めると、しぐさで乗ってと言った。まいは緊張して急いで乗り込み、ドアをしめた。車はすぐ発進した。

    「何があったの?」

    と、まいはおそるおそる訊いた。

     ママは深くためいきをついた。

    「魔女が――倒れた。もうだめみたい」

     突然、まいの回りの世界から音と色が消えた。耳の奥でジンジンと血液の流れる音がした、ように思った。

     失った音と色は、それからしばらくして徐々に戻ったけれど、決して元のようではなかった。二度と再び、まいの世界が元に戻ることはなかった。

    「まだ……」

    生きてるの、と訊こうとして、まいは思わず口をつぐんだ。そして大きく息を吐いてから、

    「話ができるの?」

    と訊いた。

     ママは首を振った。

    「電話がきたの。心臓発作らしいわ。倒れているのが発見されて、そのときはもう脈もなかったみたい。解剖したいって、病院では言っているらしいんだけれど、あの人はそういうことは絶対嫌なタイプだから断ったの」

     そうだ、あの人はそういう「タイプ」だ。まいは車のシートを後ろに倒し、腕で目の上を覆った。ひどく体が重い。衝撃だった。悲しいというより。それでは、これから六時間余り車で走らなければならないわけだ。高速道路まで一時間、高速道路を四時間、高速道路から降りて一時間。それだけの距離をミニで走るのはきつい。地面を身体で測りながら這うように移動する車だから。

     まいは腕をずらして、車のフロントガラスを見つめた。雨がポツポツとそこに水滴を付け始めた。ママはまだワイパーを動かさない。昨日、テレビが梅雨入り宣言をしていた。いや、テレビではなく、気象庁が。

     雨はだんだん強くなり、窓越しの景色が見えにくくなった。ママはまだワイパーを動かさない。

     まいはちらりとママの顔を盗み見た。ママは泣いていた。声も立てずに、ただ涙だけが勝手に流れ落ちているのだというように。これはママの泣き方だ。ずっと以前にも見たことがある。

    「ワイパー」

     まいは小さく言った。

     ママは一瞬混乱したようだった。自分の涙にまず気づき、それから外の世界に気づいたのだろう。少し間を置いて、

    「ああ、雨が降っているのね」

    と言って、ワイパーを動かした。水滴が拭われて、街路樹のプラタナスの若葉が次々に現れては去り現れては去りした。

     プラタナスの芽吹きって、何か「勃発」って感じがする。まいは、ぼんやりそう思いながら、ポケットからハンカチを取り出しママに渡した。

    「ありがとう」

     ママは反射的に言って、片手でハンドルを握ったままハンカチで涙を拭いた。

     まいは体がどんどん重く沈み込んでいくように感じた。そして二年前の、季節が初夏へと移り変わるちょうど今ごろ、おばあちゃんと過ごした一ヶ月余りのことを、急にすごい力で体ごとぐんぐんと引き戻されるように思い出した。部屋や庭の匂いや、光線の具合や、空気の触感のようなものが、鼻孔の奥から鮮やかに甦るような、そんな思い出し方で。

     ママが真面目な顔で「そうよ、あの人は本物の魔女よ」と打ち明け、それ以後、二人だけのときはいつもおばあちゃんのことを「西の魔女」と呼ぶようになった、あの一ヶ月余りのことを。

     二年前の五月、まいは小学校を卒業し、中学校に入ったばかりだった。始まりはいつもの季節の変わり目の喘息だった。けれど発作が起きなくなっても、まいは学校に行けなかった。学校に行くことを考えただけで息が詰まりそうだった。

     ママは困った。しかし賢明だった。なだめたりすかしたり怒ったり、というむだなエネルギーは一切使わなかった。なぜなら、もうそろそろ学校へ行ったほうがいいんじゃないか、とママが最初に何げなく言ったとき、まいはママの目をじっと見て諭すように真剣に言ったのだ。

    「わたしはもう学校へは行かない。あそこは私に苦痛を与える場でしかないの」

     ママは観念した。まいがこうまで言うのはよっぽどのことだから。けれど、かろうじてこう言った。

    「わかったわ。じゃあ、とにかくしばらく学校を休みましょう。中学が始まって、まだ一ヶ月もたっていないじゃないの。そんなに早く結論を出すことはないわ。きっとまだ完全に回復しきってないのよ。二週間もすれば、気力も充実して元気になるかもしれない」

     なぜ学校がまいにとって「苦痛を与える場でしかない」のか、ママが訊こうとしなかったのは不思議だ。おそらく知るのが怖かったのだろう。ママはハーフだったせいもあって、学校というものについぞ溶け込めなかった。当時も今もこの辺りにはインターナショナル・スクールなどはない。まいの話を聞いて、学校生活というものを追体験するのが嫌だったのかもしれない。

     まいは思った。それでもとにかく、ママは日本で大学まで卒業した。りっぱだ。なのに、わたしはすでに中学で座礁しようとしている……。

     その夜、単身赴任しているパパにママが電話をかけた。まいはベッドに入っていたけれど、全身を耳のようにして身動き一つせず聞いていた。

    「……ええ、喘息の発作はもうでないのだけど、学校へは行かないって言うの。……そう。あんまり強く叱ってもね、かえって逆効果でしょ。理由? さあ。あの子はとにかく……。何ていうのかしら、感受性が強すぎるのね。どうせ、何かで傷ついたには違いないんだろうけど。昔から扱いにくい子だったわ。生きていきにくいタイプの子よね。……とりあえず、田舎の母のところでゆっくりさせようと思うの。空気がいいから、喘息にもいいしね。……登校拒否っていう言葉は知っていたけれど、まさかねえ……自分の子がそうなるなんて思ってもいなかったわ。晴天の霹靂ってこのことね。……ええ、まだそう断定するつもりはないわ、もちろん。でも優等生でずーっときた子でしょう。まさかねえ……」

     それからパパの仕事のことをきいている声が続いていたが、まいにはそんなことはもうどうでもよかった。ママはもうわたしに誇りが持てなくなったのだ。まいにはそれがいちばんつらく悲しかった。飛び出していって、「ごめんね、ママ」と謝りたかった。けれど心の底に、「扱いにくい子」「生きにくいタイプの子」という言葉が、錨のように重く沈んでいた。まいはそれは本当のことだと知っていた。

    「認めざるをえない」

     まいは小さく呻るように呟いた。この言葉は初めてつかう言葉だ。まいはちょっと大人になった気がした。

    「それは認めざるをえないわ」

     まいはもう一度呟いた。これですっかりこの言葉を自分のものにできた気がした。それから、学校に行くことに比べたらこんなことまだ我慢できる、と自分に言い聞かせた。それにほら、ママは「田舎の母のところでゆっくりさせ」るって言っていた。

     まいは、小さいころからおばあちゃんが大好きだった。実際、「おばあちゃん、大好き」と、事あるごとに連発した。パパにもママにもそんなことは照れくさくて言えない。おばあちゃんが外国のひとで、そのことでかえってストレートに感情を表現できるのかもしれなかった。そういうとき、おばあちゃんはいつも微笑んで、

    「アイ・ノウ」

    知っていますよ、と応えるのだった。そのパターン化されたやりとりは、仲間同士の秘密の合い言葉のようだった。

     おばあちゃんと一緒に暮らせる、と思っただけで嬉しくなる。と、同時に一抹の不安もあった。「一緒に暮らす」ことは、時々「遊びにいく」ということとは違う、とまいは思った。

     わたしの全体を知って、おばあちゃんはがっかりしないだろうか。ママががっかりしたように。そしておばあちゃん自身もまた、どこか底知れないところがあって、まいは少し怖くもあった。

     でもそれが、まいがおばあちゃんに魅きつけられる理由の一つでもあったのだけれど。

     次の日曜日、まいはママの運転する車でおばあちゃんのうちへ向かった。当時まいたちは、おばあちゃんの家から車で一時間ほどのところに住んでいた。

     ボストンバッグと段ボールに、学校の教科書や文房具、衣類、まんがや本、歯ブラシ、マグまで詰めた。

    「おばあちゃんのうちにだって、ティーカップぐらいあるわよ」と、ママはあきれていたけれど、使い慣れたこのマグがあるとその回りにぼわんとした「自分の場所」のような空間が拡がって、きっと予想されるホームシックが防げる、とまいは思ったのだ。

     まいは時々ひどいホームシックに悩まされることがあった。それは、たとえ自分の家にいるときでもやってきたから、「ホームシック」と呼ぶのはおかしいのかもしれなかったが、まいにとってはそれ以外の何ものでもなかった。胸が締めつけられるような寂しさを感じてしまうのだ。

     それがなぜ、どこから来るものなのか、おばあちゃんのうちでもやってくるのか、このマグがどれくらい効果的か、まいにはわからなかったが、とりあえず万全の備えが必要だ。

     車は長い長い峠の坂道を登り、山の中に入った。

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