丸山眞男

自由であると信じている自由人は、偏見から最も自由でない。一見矛盾しているようであるが、それは、自分の思考や行動を点検しないからであるという逆説として成立する。逆も同じである。自分はとらわれている、自由でないと思っている者は、自由になり得るチャンスに恵まれている。それは、より自由に認識し判断したいと努力するからである。
そして、民主主義についても、民主主義が民主主義という制度の自己目的化を不断に警戒し監視し批判すること、つまり民主化するによって、民主主義であり得る。定義や結論より、プロセスを重視する。民主主義という制度はまさに「する」ことである。
急速に伝統的な「身分」が崩壊しながら、自発的な集団形成と自主的なコミュニケーションの発達が妨げられ、会議や討論の社会的基礎が未熟な時に、近代的組織や制度は閉鎖的な「村」を形成し、「うち」の意識と「うちらしく」の道徳が強くなる。組織や会議などの民主主義を促進するはずの制度は作られるのであるが、組織の内部の人間関係や会議の進め方は、徳川時代同様「うち」の仲間意識と「うちらしく」の道徳が通用する閉鎖的な「村」であった。日本人は、場所に応じて「である」行動様式と「する」行動様式を使い分けなければならなくなってしまった。
「する」ことが必要な制度の中に「である」ことが蔓延しており、どのように「する」のか分からなくなった。休日や閑暇は本来なにもせずにゆっくり休むことであったはずなのに、レジャーなど「する」価値が過剰になっている。学芸の在り方も、大衆的な効果と卑近な実用の「する」基準が押し寄せている。学芸の世界では、彼がすることでなく彼があるところ、価値の蓄積が大切である。それなのに、古典は軽視され、絶えず新しいものが求められ、大衆の嗜好や多数決がその価値を決めるような風潮がある。

4 thoughts on “丸山眞男

  1. shinichi Post author

    『「である」ことと「する」こと』

    by 丸山眞男

    この小論は、1958年に行われた講演会の原稿を元に大幅に加筆訂正を施された後、翌年1月の『毎日新聞』紙上に4回に分けて連載された、後に『日本の思想』(岩波新書)に収められた。

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  2. shinichi Post author

    第1段落・「権利の上に眠る者」
    権利の上に眠るものは民法の保護に値しない。

    第2段落・近代社会における制度の考え方
    自由と民主主義について論じている。自由人「である」と思い込んで自身の行動を点検する(自由を利用「する」)ことを怠る人は逆に自由でなく、比べて自由「である」ことに甘んじることなく自分の自由さを積極的に利用「し」ようとする人が自由に恵まれている。現代社会においては、「である」論理と「する」論理のどちらかではなく、両方の図式を考えることにより、具体的な国家社会の性質を論ずることができるし、また日本の近代化の失敗についても説明しうる。

    第3/4段落・徳川時代を例にとると/「である」社会と「である」道徳
    徳川幕府の統治に代表的な、儒教をイデオロギーとする「である」社会の性質について論じている。

    第5段落・「する」社会と「する」論理への移行
    「である」社会から「する」社会への変質について論じている。「する」社会においては上下関係はある一定の目的上の組織(会社などの上司と部下)においてのみ成り立ち、違う組織においてはその上下関係が成り立つとはいえないのだから、通常の付き合いにまで会社の上下関係が付きまとうならば、それは身分的な社会である。

    第6段落・日本の急激な「近代化」
    第5段落を踏まえて日本の近代化の失敗・未発達を論じている。「である」社会に突然「する」社会の道具が大量に流れ込み、「する」論理に基づくべき社会を「である」論理が支配しているという近代化の失敗を説明する。

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  3. shinichi Post author

    「権利の上に眠る者」

     時効は貸した金を返してもらえないという不人情な法律であるが、ある期間請求をしなければという条件付きである。債権者であるという権利の上に眠っている者は民法の保護に値しないという法理である。請求することをしないで債権者であることに安住していると債権を喪失する、逆から言えば、請求することによって債権者である、ということである。

     日本国憲法についても、第十二条に「自由や権利は国民の不断の努力の成果」であるとしている。自由や権利は過去からの多年にわたる獲得の努力の結果である。そして、未来にも努力を継続することによって自由を保持し続けなければならない。時効と同じように読み替えると、主権者であることに安住し権利を行使することをしなければ主権者でなくなる、権利を行使することによって主権者である、ということである。それはナポレオンやヒットラーで実証済みである。ヒトラーを首相に選ぶ所までは、国民は主権を維持していたかもしれないが、その後ヒトラーに独裁を許してしまった。

     自由についても、ある社会学者が「自由を祝福するのは容易だが、自由を擁護することは困難であり、自由を行使することはさらに困難である。」と言っている。祝福するのは自由であるという状態であり、すでに与えられたものである。擁護するとは、与えられたものを保持しようとすることでやや努力を必要とする。行使するとなると、一層の努力が必要になる。だからより困難になるのである。自由である状態に満足して祝福していると、いつの間にかその自由は中身を伴わない置物になってしまう。自由になろうとすることによって自由である、ということにある。近代の自由や権利は努力を厭う怠け者には厄介なものである。
      
    近代社会における制度の考え方

     自由であると信じている自由人は、偏見から最も自由でない。一見矛盾しているようであるが、それは、自分の思考や行動を点検しないからであるという逆説として成立する。逆も同じである。自分はとらわれている、自由でないと思っている者は、自由になり得るチャンスに恵まれている。それは、より自由に認識し判断したいと努力するからである。

     そして、民主主義についても、民主主義が民主主義という制度の自己目的化を不断に警戒し監視し批判すること、つまり民主化するによって、民主主義であり得る。定義や結論より、プロセスを重視する。民主主義という制度はまさに「する」ことである。

     債権のロジックは、近代社会の制度やモラル、物事の判断の仕方を深く規定している。ハムレットの時代は「である」ことが最大の問題であったが、近代社会は「する」ことが大きな問題になる。

     近代社会では「である」ことより「する」ことが問題になるとはいえ、「である」ことに基づく血族関係や人種団体や価値判断の仕方は将来的になくなることはないので、近代社会においても問題である。また、「する」ことが重要であるといっても、あらゆる領域で無制限に謳歌されていいものではない。「である」ことと「する」ことの二つの図式を想定することによって、「する」ことである民主化の実質的な進展の度合い、「する」ことに価値を置く制度と「である」思考習慣のギャップを測定する基準を得ることになる。また、ある面では非近代的に「である」価値が居残り、他の面では過近代的に「する」価値が行き過ぎている現代日本の問題を反省する手がかりにもなる。

     ここまで、時効、権利、自由、民主主義を通して、「である」ことと「する」ことの認識を確認してきた。この二つの物差しを使って、政治、経済、民主化、制度、思考習慣について非近代的な面と過近代的な面を考えていく。
     
    徳川時代を例にとると

     徳川時代は、現実の行動によって変えることができない出生や家柄や年齢が決定的な役割を担っている身分社会である。支配者である大名や武士は、被支配者である百姓や町人に、サービス「する」ことによってではなく、「である」価値である身分的な「属性」によってに支配するという建て前になっている。

     人々の振る舞いも、相手が何であるかによって変わってくる。相手によって自分の振る舞い方をそれ「らしく」するのであるが、そのためには相手もそれ「らしく」してもらわないと自分の振る舞い方を決めることができない。互いに、「らしく」「ふさわしく」、「分」に安んじることが社会の秩序維持に必要である。上の階級と戦って権利を勝ち取る努力をすることより、上を見ずに下だけを見て自分の階級に満足している方が楽なのである。従って、同郷、同族、同身分などの既定の「である」関係が人間関係の中心になる。同じ階級同士でも、相手が何者かわからなければどのように振る舞えばいいかわからず、未知の人々との横のつながりも煩わしい。
     
    「である」社会と「である」道徳

     このような社会で、コミュニケーションが成立するには、服装、身なり、言葉づかいなどの見た目ですぐに判断できる外部的条件によって、相手が何者であるか識別できることが第一要件になる。徳川時代に服装や髪形などが身分によって決められていた。これは窮屈なように思えるが、逆に言えば、相互に何者かが判明していれば話し合いもスムーズに軌道に乗る。暗黙の了解のもとにものごとを進めていくことができる。言い換えると、見知らぬ人々との公共道徳は発達する必要がない。それは、上下関係を重んじる儒教的な道徳が作る儒教的な人間関係の、「である」社会である。
     
    「する」組織の社会的台頭

     しかし、赤の他人と関係を取り結ぶ必要が増大してくると、政治や経済や教育が分業化し、組織や制度の内部が分化していく。すると、人間は状況によって違った役割を演じなければならなくなる。人間関係がまるごと関係から役割関係に変わる。
     
    業績本位という意味

     生産力が高まると、その地域で生産したものをその地域だけで消費しきれず、他の地域に輸出するようになる。逆に、その地域に不足していて他の地域で大量に生産しているものを輸入するようになる。さらに、交通の発達が貿易を促進する。すると、その地域だけの社会関係におさまらず、複雑多様になる。否が応でもあかの他人との関係を結ばなくてはならなくなる。人間関係も、家柄とか同族とかいう素性に基づく人間関係から、何かをする目的で取り結ぶ関係が増加する。そうしてできた会社や政党や組合や教育団体という機能集団は「する」ことの原理に基づいている。特定の目的に向かって、内部の地位や職能も分化していく。上役やリーダーは、上役であることからでなく、業績という基準で価値を判断される。彼が上司であるのは、その職能集団の中の仕事という側面だけであって、日常的な生活では対等な関係のはずである。日本でそうなっていないのは、職能関係が身分的になっているからである。

     この例からわかるように、「する」社会と「する」論理の移行は、すべての領域に同じテンポで進行するのでもなく、自動的に人々の考え方や価値意識を変えていくものでもない。そこから様々なバリエーションが生まれる。

     ここまで、江戸時代から明治時代へと近代化する中で、「である」価値と「する」価値の変遷を考えてきた。ここからは、すべての領域で同じテンポで進行しなかった日本特有の社会について考えていく。
     
    政治の世界では

     政治の民主化において「する」原理を適用すると、指導者は人民と社会に不断にサービスを提供する用意がありことであり、人民は指導者の権利乱用を監視し業績を点検する姿勢が整っていることが基準になる。

     徳川時代の勧善懲悪というイデオロギーは、善人からは必然的に善事だけが、悪人からは必然的に悪事だけが流れ出る、という単純な考え方である。これは、特定の人物が意識的に作り出したものではなく、その社会が「である」原理に基づいて組織化されている証拠である。

     社会が複雑化し役割関係が進展すると、具体的な状況での具体的な行動を判断しなければならない。良い人か悪い人かではなく、良い行動か悪い行動かという基準が必要になる。同じ一人の人間は、よい行動もするし悪い行動もする。行動の善悪はその人の属性ではない。より複雑な判断が求められる。

     当然、近代社会の制度も複雑な判断が求められる。制度を状態として判断するのでなく、運動や過程として判断しなければならない。

     しかし、民主主義という制度を建て前だけから判断する時、制度の現実的な働きの過程や運動を検証せずに、制度自体を固定した状態として、いいか悪いかで決めてしまう。民主主義は理想的な制度であり、よい働きが自然に流れ出る。民主主義の制度の中で起こる悪事は、民主主義という制度が悪いのではなく、偶然的な一時的な一部の人々のせいである。民主主義を静止したものとして想定し、神聖化する。既存の状態が民主主義であり、この状態を攪乱するものは反民主主義であるとレッテルを貼る-。

     日本では、近代の制度はあらかじめ出来上がったものとして上から降りて来て、我々を規制するものという実感が強い。その発想は徳川時代の考え方と全く同じである。身分社会を与えられその中で分に安んじたように、民主主義も与えられたものであり、現在の状態を維持することが基本的なモラルになっている。さらに、ものごとは一部の役人が決め、その決め方も前例を遵守するという官僚的思考様式が拍車をかける。

     制度の建て前の論理は、具体的な政策があって、その実現に必要な法律を提案し、国民が選んだ代表者によって構成される国会において多数決するという民主的な手順によって議決されたものは、国民の意志であるという首尾一貫した還元論法によって処理されたものが民主主義であり、その決定がいかにばか馬鹿馬鹿しくて間違っていると多くの人が気づいていても、具体的な状況での具体的な行動を測定し検証することをせずに、無条件に受け入れてしまう。
     
    日本の急激な「近代化」

     福沢諭吉は「日々のおしへ」のなかで、「貴賤はする仕事の難しさで決まるものであって、大名や武士や公家といった身分ではない」と書いている。ここには「である」価値から「する」価値への歴史的な変遷が述べられている。たしかに、近代日本の躍進は、「する」価値によるものである。しかし、このような「する」価値が浸透の一方で、「である」価値が根を張り、「する」原理を建て前とする組織が「である」社会のモラルによって固定化されたことに、近代日本の混乱の原因がある。

     急速に伝統的な「身分」が崩壊しながら、自発的な集団形成と自主的なコミュニケーションの発達が妨げられ、会議や討論の社会的基礎が未熟な時に、近代的組織や制度は閉鎖的な「村」を形成し、「うち」の意識と「うちらしく」の道徳が強くなる。組織や会議などの民主主義を促進するはずの制度は作られるのであるが、組織の内部の人間関係や会議の進め方は、徳川時代同様「うち」の仲間意識と「うちらしく」の道徳が通用する閉鎖的な「村」であった。日本人は、場所に応じて「である」行動様式と「する」行動様式を使い分けなければならなくなり、ノイローゼ症状を呈している。
     
    「する」価値と「である」価値との倒錯

     しかし、この矛盾も、戦前は「臣民の道」への「帰一」によってなんとか誤魔化されてきた。御国のため、天皇陛下のためと言う言葉で、深く追及されなかった。しかし、戦後、大衆社会的諸相が蔓延すると、「臣民の道」では誤魔化せなくなり、問題が噴出する。「する」ことが必要な制度の中に「である」ことが蔓延しており、どのように「する」のか分からなくなった。

     手を着けやすいのは、「する」ことが必要なのにそれが難しく「である」ことが蔓延している本質的に改善しなければならない部分ではなく、さほど「する」ことが必要ではないのに「する」ことが容易にできる部分である。「する」価値が不足している所では欠けており、過剰な所では進展している。

     特に大都市の消費文化で著しい。休日や閑暇は本来なにもせずにゆっくり休むことであったはずなのに、レジャーなど「する」価値が過剰になっている。学芸の在り方も、大衆的な効果と卑近な実用の「する」基準が押し寄せている。学芸の世界では、彼がすることでなく彼があるところ、価値の蓄積が大切である。それなのに、古典は軽視され、絶えず新しいものが求められ、大衆の嗜好や多数決がその価値を決めるような風潮がある。
     
    学問や芸術における価値の意味

     ジークフリートは教養について、しかるべき手段を用いて果たす機能が問題ではなく、自分について知ることが問題だと言っている。彼がすることでなく彼があるところに、果実より花に、結果よりそれ自体に価値がある。文化では、大衆の嗜好や多数決に価値はなく、古典に価値がある。

     政治は、それ自体に価値はなく、結果で判断される。文化的創造では、絶えず前進することより、。
     
    価値倒錯を再転倒するために

     政治の時代では、文化の蓄積の確信に支えられた発言と行動が生きてくる。否定しがたい意味を持つ「である」社会に「する」価値が蔓延し、「する」価値によって批判されるべき所に「である」価値が居すわっているという倒錯を再転倒する可能性がある。現代日本に必要なものは、ラディカルな精神的貴族主義がラディカルな民主主義と内面的に結びつくことである。

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  4. shinichi Post author

    (sk)

    丸山眞男のいう「する」は、アメリカでの「ローリング・ストーン」に似ている。自由になろうとすることによって自由であるという考え方は、アメリカそのものだ。

    “A rolling stone gathers no moss (転がる石はコケむさない)”は、イギリスや日本では「落ち着きなく動き回っているものには能力は身につかない」という意味合いを持つという。一方、アメリカでは「いつも活動的に動き回っている人は持っている能力を錆び付かせることはない」という意味になる。これは、コケを否定的に捉えるか肯定的に捉えるか、に由来する違いである。

    丸山眞男の近代化は、アメリカ化と同義語のように思える。1959年、アメリカに占領され、何もかもがアメリカ化されたあとで書かれた文章だから、それがごく自然な、そして素直な気持ちだったのだろう。

    それから50年以上経って、アメリカ化はグローバル化と名前を変え、社会は丸山眞男が考えたよりもずっと先に行ってしまったが、書かれた文章は今でも説得力を持っている。

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