>曽我逸郎

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環境汚染。温暖化。資源の放蕩。飽くなき欲望・消費・経済成長。その底に横たわる欠乏感・不満。歪な富の偏在。命にも自分にも尊厳のもてない生活。
こんな状態でいいのだろうか?みんなが自分の欲望を追求すれば、神の見えざる手に導かれて、社会はよくなっていくのか?確かに経済的な効率はどんどん上がっている。しかし、経済効率は、よい社会をつくるのか?確かに、様々な新しい商品・サービスが開発され、生活は便利になっている。しかし、自然の回復力を上回る影響力を我々人類は持ってしまったのではないか。おそらく大自然は、大きなサイクルでバランスを取るのであって、揺らぎながらも平衡を保つだろう。しかし、新たな平衡点が、人間の生存に適さないものだったらどうか?
文明の表層の快適さの底で、大切ななにかが壊されている。伝統的な暮らしがもっていた何か。あるいは、そんなものはもともと幻想で、現代は、その幻想を破壊しただけであり、人間という存在の根底にそもそもある業の深さ、不完全さが、露呈しているに過ぎないのか。
いや、しかし、たとえ人間が本質的に欲望・執着に突き動かされており、倒れるまで執着対象を追い求め自転車操業を続けるものだとしても、だからといって開き直っていいわけではない。開き直れば、余計に苦にまみれ、人も苦しめることになる。
では、どうすればいいのか?何ができるのか?

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